如意樹の木陰

古い記事ではサイババのことが多いです。
2024年に再開しました。

無題

2007-09-23 23:46:57 | Weblog
秋の旅をプログに載せる作業は、やり始めると、結構はまってしまいます。今日は、お彼岸の中日で、おまけに雨模様なので、気兼ねなくやってしまいました。

プログに乗せた記事の元になっている記録には、もっといろいろなことが書かれていたり、逆に書かれていなかったりしています。
あるいは、事実よりも論理が優先してしまっている内容の場合もあります。つまりストーリーに整合性を持たせるために、事実の解釈や場合によっては自分自身の気持ちまで、創作していたりします。本人は事実を偽るつもりはないのですが、論理的な言語脳は事実よりも論理の美しさを愛する傾向があるようです。それで、実際に価値判断を誤ることもあります。論理というのは価値判断に適しているように思えますが、論理には全体を鳥瞰して意味を考える力はないのかもしれません。
さらにその記録の元になっている本当の旅日記には、物の値段や、駅の名前、列車の出発時刻、出来事に対するその時の正直な感じ・感情などが、書かれてあります。
記事ではなるべくあっさりと書いてありますが、実際の旅では、もっとうんざりするようなたくさんのトラブルがありました。そういうトラブルに慣れて、それが当たり前になって、それも旅の一部として意味のあることなのだとわかるようにならないと、こういった旅は続けられないんだと思います。
旅は人生の縮図のようで、普通の日常に比べて密度も変化も大きいから、それで学びも多いということなのでしょう。

それから、どんな場所でも、そこに実際に行ってみないとわからないことがあるから、それで旅をするのかもしれません。
旅を思い出すときに、具体的に何を思い出すかといえば、結局その場の雰囲気です。空気感、風の匂い、その土地の人々の出す心の波動、その土地の神々の霊気。そういったものを求めて、旅をしているのかもしれません。

話は変わります。
最近の腕時計の夜光はずいぶん明るく光ります。しかも文字盤全面が光っている。これはあたらしく開発された(といってももうだいぶん前らしいが)夜光塗料のおかげらしい。現在は、夜光塗料とは言わずルミブライトと呼ぶらしい。
昔の夜光塗料には放射性物質が若干含まれていたという話も聞きます。それと区別する意味も含めてルミブライトと呼ぶらしい。
その、昼間でも薄暗い場所であれば光る腕時計をぼんやり見ていたら、子供の頃、駄菓子屋さんに、夜光で光るガイコツのオモチャが売られていたのを思い出しました。手のひらサイズでプラスチックで出来ていて、それほど高いものでもなく、何度か買った記憶があります。単に夜の暗闇でガイコツが青白く光って見えるだけのものなのですが、子供の頃にはそんなものになぜか惹かれました。
そのガイコツを思い出したら、それに続いて、やはり子供の頃に遊んだへび花火のことが思い出されてきました。へび花火というのは火をつけるとニュルニュルニュルと長くのびる花火です。花火といっても昼間に遊ぶものですね。
夜光のガイコツからへび花火へという連想がなぜ起きるのかわからないのですが、あるいは、それらが夏の玩具であって、同じ季節に遊んだためかもしれません。
へび花火から続いて思い出されたのは、ねずみ花火、ロケット花火、2B弾。どれも、結構刺激的なものだし、花火の分類からは外れたもののようですが、こういったものが記憶には強く残っているようです。
それから、どんどんどんどん子供の頃の記憶が芋づる式に出てきます。おもしろいですね。そういった記憶は、いつでも思い出せるというわけではないのですが、何かのきっかけで連鎖反応を起こすとよみがえってくるのですね。

秋の旅(5)

2007-09-23 19:51:30 | インド旅行記
プッタパルティ
列車の予約をしなかったため、マドラスからバンガロールまでの6時間は立ち通しだった。それだけに、バンガロールの駅のホームのベンチに腰掛けたときには、とうとうまた帰ってきたという安堵感のようなものが湧いてきた。
そして翌日の10月24日にバスでプッタパルティに入った。
とりあえず前回と同じ宿に入る。ガーネーシャゲートの正面にあるホテルだ。この宿、春に来たときよりもホテルらしくなっていたが、値段の方も高くなっていて、その値段でさえ風通しの悪い部屋にしか入れなかった。

私が来ることをサイババは快く思ってくれているのだろうか。旅の途中、そんな不安が何回か頭をもたげた。合理的に考えれば、そんなことを考えること自体が無意味なはずである。前回サイババに会いに来た時、一度手紙を渡そうとしてサイババに拒否されているが、サイババと意識の交流があったのはたぶんその時一度だけである。サイババにとって私は、イナゴの大群のように周りに集まってくるただの信者のひとりに過ぎないのだ。
しかし一方で、サイババは全てを見通しているという感じがしている。サイババも肉体を持った人間として生きているのだから、表面的な部分は我々と大差ないのだろうが、意識状態については、全く違うのかもしれない。

早々にアシュラムに入ってみると、ちょうどスワミ(サイババのこと)が講演をしていた。今日は何かの記念日だったろうか。スワミの隣には、英語に翻訳する人がいて、ふたりの声だけ聞いていると掛け合い漫才のように聞こえる。声の高い方がサイババらしいのだが、2人ともテンションが高いから、どちらが話して、どちらが訳しているのか、ちょっと聞いただけでは分からないようだ。もちろん英語で話している方が訳している声なのだが。
クルタ・ピジャマを着てみる。アシュラムではこれを着ている方が目立たない。2着で250ルピーとずいぶん安いが、案外丈夫だし、涼しい。これに馴染んでしまうと、日本から着てきたものは暑苦しく感じてしまう。もっとも、クルタ・ピジャマは、A真理教の服装のイメージが強く残っているので、はじめは少しばかり抵抗を感じたが。
さて、8ヶ月ぶりに再びここに来てみると、やはりなんとなく、違和感がある。それは、春に来た時にも感じたものだ。
アシュラムは信者の集まりである。それに対して、まだ私の立場は曖昧である。私の旅の目的地はサイババなのだが、じゃあ、信者だと胸を張って言えるかと云えば、あやしいものだ。私は、まだ観察者、傍観者、客観的に見たいとそんな思いを残していた。
いったい、自分は何のために、再び来たのだろうかと、思う。
 
30歳を過ぎる頃まで、私は奇跡のようなものはほとんど信じてはいなかった。ほとんど、というのは、多少は霊的なものを感じていたのではあるが。しかし、それは、身近な人が亡くなった時に、その人から何かしらパワーをもらったような、そんな感じがすると云った程度の事であった。
30歳を過ぎた頃、予知夢を幾つも見て、考え方を根本的に変えざるを得なくなった。
自分の体験を理解するために、何冊か本を読んでみた。ニューサイエンスと分類された本が多かったと思う。そして、予知夢はそれほど珍しい出来事ではなさそうだと分かった。

予知夢と預言ではだいぶんスケールが違うが、原理はそう違うわけではあるまい。とすれば、ノストラダムスもスウェーデンボルグもエドガーケーシーも、ある程度真実を語っているかもしれない。さらに、福音書に書かれたイエスの事も、ヨハネの黙示録もそのままに読んでみるべきなのかもしれない。しかし残念ながら、かれらは全て過去の人物である。もちろん精神の世界での時空は、その前後関係も距離感も曖昧な部分があるから、その人達を全く過去の人とは言い切れないのではあるが、現在肉体を持って存在しているわけではない。

では、現在の世の中にそう云った人物が全くいないかというと、もちろん、そんなことはない。日本にも、自動書記をするような人は結構いるらしいし、霊能者としてテレビを賑わせている人たちもいる。さらに教祖として活動している人もいる。しかし、いろいろなレベルの人がいるようだし、営業として誇張してやっている人もかなり多くいるだろう。また、レベルについては、その人本人でさえわからない場合がほとんどなのではないかと思う。ここでレベルといっているのは、たとえば霊能者の場合であれば、憑いている霊が低級か高級か、あるいは霊に踊らされているのか、霊をコントロールしているのか、そういった意味もある。

なんでサイババに興味があるかと云えば、サイババが何者であるのか、もっと知りたいという思いが強いからである。
サイババに強い力があることはわかっている。しかしわかっているのはそれだけである。さらに知るにはこの目でよく見、肌で感じなければならない。

秋の旅(4)

2007-09-23 12:46:54 | インド旅行記
マドラス
10月16日にカトマンドゥからインドのバラナシに戻った。再びインドの雑踏に戻ったわけである。
雨季の後のためだろう。ガンジス川の水量は、春に比べて多い。アッシーガートではガンジス川が溢れたという。春には川原にあったマリーゴールドの畑はもちろんなくなっている。
それにしても、バラナシの街頭の排気ガスはものすごい。すぐにのどを痛めた。
それで、すぐにバラナシを離れて南に行くことにした。
とりあえず、マドラスに行ってみることにする。海が見たくなったのと、気が向けば、さらにもう少し南に行ってもよいと思った。

バラナシからマドラスへは寝台列車を使った。
しかし、この列車の旅は、予想に反してハードな旅になった。まず、ファーストクラスを予約していたにもかかわらず、ファーストクラス用の車両のやりくりがつかなかったらしく、スリーパークラスの寝台を使うことになった。しかも、台風の影響が残っていて、線路が冠水しており、通常の路線とは違う線路に迂回して、だいぶん海岸から離れたルートを走ることになったらしい。そのためか、列車のスピードは、とても遅く、結局マドラスまで50時間以上かかった。
同じ車両には、スペインの男性と、イギリスの女性、オーストラリアの女性がいた。一応外国人は一カ所にまとめてあるのかもしれない。彼らは20代後半の感じだ。女性ふたりはがっしりしたりっぱな体格をしている。4人の共通点はタバコを吸う事くらいである。ただ、4人には、列車は今どのあたりを走っているか、と云う共通の話題があるので、たまに情報交換をする。しかし、あまり会話が弾むわけもないから、思い思いにガイドブックを読んだりして時間を潰している。
バラナシで乗り込んだ大勢の軍人さん達は途中で降りて、それ以降、この列車に乗り降りする人はまばらである。たぶん、通常のルートから外れているので、乗り降りする人が少ないのだと思う。
この列車には当たり前だが食堂車は付いていないし、車内販売もインドのそれだから、たまにホームに売店でもあればスナック菓子と飲料水を補給して、二日三晩冷房のない2等寝台に缶詰になった。

マドラスに近づくにつれて、線路の周りの植物も南国らしくなり、椰子の林が目立つようになってくる。少し蒸し暑くは感じるが、驚くほど暑いわけではない。
やっとのことでマドラスに着いたときには、そうとうに体力を消耗していた。しかも口の中が苦くて、何を食べてもおいしくない。この味覚の異常は、その後しばらくのあいだ続いた。
病気というほどではないと思うのだが、弱っていることは確かで、無理はできないと思い、マドラスで少し体力の回復を待つことにする。

宿は、サン・トメ聖堂に近い、路地の奥にある貸部屋を借りた。サン・トメ聖堂あたりは、繁華街から少し離れた場所で、海岸に近く静かである。借りた部屋の窓の外には大型のカワセミの留まる木があって、1日に何度かカワセミがやって来る。その木の根元は塀に囲まれていて、こちらからはそこに何があるのかわからないのだが、たぶん池でもあるのだろうと思う。
サン・トメ聖堂は12使徒のひとり聖トーマスの墓の上に建てられた教会だという。そして実際、聖堂の中に入ってみると、祭壇の地下にそれらしい墓所のようなものを見ることができた。その墓が本当に聖トーマスの墓であるかどうかは私の知るところではないが、聖なる雰囲気のただよう場所であった。

ローマ帝国の時代、ローマと南インドの間に交易があったことは事実らしいから、聖トーマスの話も本当なのかもしれない。
それに、イエス・キリストがガラリヤで伝道を始める以前にカシミール、チベットなどで修行生活をしていたという話さえある。
イエスの活動した時代は、釈尊が滅してすでに数百年が経った頃である。イエスの説いた教えが、旧約聖書から大きく飛躍していることを考えれば、そこに東洋の思想の影響を考えることもできるといわれる。

マドラスで、帰国の飛行機の予約をした。便は12月11日、一月半も先である。これからサイババのアシュラムに行くわけだが、それにしても少し長すぎるような気がした。
体力も少し戻ってきたので、マドラスからさらに南に旅することを再び考えたが、それよりもサイババに会うことの方に心が向いていた。博物館にも飽きたし、寺院巡りも充分したと思った。寺院に飾られた神様よりも、本物の神様に早く会いたいと云う思いが強くなっていた。

秋の旅(3)

2007-09-23 00:16:48 | インド旅行記
ナガルコット
さて、ネパールと云えばポカラである。ポカラへ行くかどうか、だいぶん迷った。しかし、バスで片道8時間かかると云うし、天候によってはお目当てのヒマラヤも見えないかもしれない。のんびりするには、カトマンドゥ近郊だけにした方がよいように思われたので、ポカラはやめにした。
そういえば、日本で計画を作っているときはチトワン国立公園も考えていたのだが、カルカッタでカトマンドゥからバラナシへの航空券を買った瞬間にそれも消えた。結局行き当たりばったりの旅なのである。まあ、旅というのはそれでよいのではあるが。
それで、明日から、ナガルコットに行くことにした。ヒマラヤが見える丘と云ううたい文句で標高は2000mくらいあると云う。運が良ければエヴェレストも見えるらしい。ポカラが標高800mくらいらしいから、ナガルコットの方が涼しいし、山らしい雰囲気も味わえるかもしれない。

カトマンドゥからナガルコットへは、まずトロリーバスでバクタプルと云う古い都まで行き、そこからバスを使う。
乗ったトロリーバスは中国製の新車であった。いすはプラスチック製の固いモノである。社内はすいている。1時間乗って4NRsだから、旅行者には便利である。もっとも、バスの方がさらに安くて速いのか、トロリーバスと平行して走っているバスは混んでいた。
さて、トロリーバスの終点からバクタプルの町に入る道の途中にある橋の手前に、通行税?を取る所があって、なんと300NRsも取るのである。
一度払えば何回も通れるのであるが、それにしてもずいぶん高いと思った。それにどうも料金を取っているのはこの道だけのように思うのである。裏道を通って町に入れば300NRs浮かせるわけだ。しかし、まあ、愛想の良いお嬢さんがいて、ナガルコットに行くバス停を地図で教えてくれた。

ナガルコットに行くバスは小型のミニバスである。このバスには人だけでなく大きな荷物やヤギまで積まれる。土地の人にとっては、このミニバスが唯一の公共交通機関なのだろう。
したがって、みんなで助け合って大きい荷物もヤギも、とにかく運ぶ。また、車掌さんはバス停で土地の人と両替をしている。車掌が集めた小銭を高額紙幣と両替しているのだ。ネパールでは、コインをほとんど見かけない。すべて紙幣である。しかも、小額紙幣は不足しているようだった。
バスの走る道は舗装された良い道で、まずまず快適な旅である。標高差は約700m、日本の山間部を秋に旅行しているような、穏やかな田んぼの風景である。もっとも現在の日本では、もうこういった風景を見つける事はできないのかもしれない。
段々畑の見える曲がりくねった坂道をしばらく登りつめた先にナガルコットのバス停があった。このバスはもう少し先まで行くらしいが、車掌がここだというので降りた。
降りた場所は、店が数軒並んでいる尾根の三辻である。降りてガイドブックの地図と見比べていると、若い男が例によって客引きに来た。適当に相手をしながらついて行ってみる事にする。どのみち同じ方向に歩くのだが、少し一緒に歩いただけでも情が移るので、気を使う。
歩いて行くと、なるほど地図に載っている宿もある。地図には起伏が書かれていないので分からなかったが、このあたりの宿はバス停から眺めの良い尾根伝いに点々と並んでいるのである。
その客引きの宿でも良いかなと思いはじめたが、しばらく行くといかにも眺めの良さそうな宿が目にとまった。それで、「すまないが、あの宿がよさそうに見えるから。」と客引きの男に謝って別れた。

確かにその宿からの眺めはすばらしかった。部屋から朝日と共にヒマラヤが見えるのである。贅沢である。しかし、その日の夕方はヒマラヤの方角に雲がかかっていて、残念ながら見ることは出来なかった。本当にヒマラヤを見ることができるのか少し不安になる。見えなければここまで来た意味がない。
夕暮れになると、このあたりは本当に静かになる。宿の食堂もほとんど電気照明を使わずにろうそくで雰囲気を出している。一度はこういう高原の宿で夜を過ごしたいと、以前から思っていたが、それがはからずも実現したわけだ。
外に出れば夜空は満天の星。今日明日あたりが新月だと思う。
東の方角からスバルが上り始め、天頂近くには白鳥座がある。白鳥座の尾羽のあたりで銀河が切れているのがはっきり分かる。まるでそこに黒いホウキ星があるようだ。アンドロメダ星雲ももちろんよく見えている。こんな星空を見るのは久しぶりだ。この星空を見れただけでも来た甲斐があったと思う。
しかし、夜になるとだいぶん寒くなる。内陸だし、標高2100mあるわけだから、寒くて当たり前なのだろう。

翌朝、ヒマラヤは日の出から10時くらいまで見る事ができた。アンナプルナ、マナスル、ランタン、私の聞いたことのある名前の山はそれくらい。宿の人はエヴェレストが見えていると言い、確かに日の出の頃には東の果てまで、ヒマラヤの山並みが連なって見えていたのだが、結局どれがエヴェレストだか分からず仕舞いだった。
カトマンドゥの方角を見ると、朝の内、盆地は朝霧に覆われている。カトマンドゥのホテルに泊まっていたとき、朝、曇ったように見えたのはこの霧のためらしい。

バクタプル
バクタプルはパタンと似た雰囲気の古い都である。泊まった宿はダンバール広場とタウマディ広場の間にある古い民家を改造したような所。
この宿はダンバール広場からでも見えるのであるが、それでも外に出ると方向がわからなくなり、宿の位置がわからなくなってしまう。あるいは、方向感覚がつかめなくなるのが古い都の特徴なのかもしれないと思ったりする。

パタンよりもバクタプルの方がいっそう落ち着いているし、見るところも多い。
木彫博物館は、元は僧院だったというこじんまりした建物で、昔の雰囲気を良く伝えている。全体に部屋は小さくて天井も低い。あまり照明を使っていない自然な光の中で、手のこんだ木彫を至る所で見ることができる。
こういった彫刻の感覚は日本人と似ているように感じる。というか、木彫を多用する文化が、日本と似ているということなのだろう。

バクタプルの旧王宮はすばらしい。彫刻もよくできているし、色彩も良く残っている。ただし、一番奥の寺院部分はヒンドゥ教徒以外立入禁止で、兵隊さんが立っていて入れてもらえない。それでも、一応聴いては見たのだが、「私はヒンドゥ教徒だ」と言い張ることもできない? まあ、出来るかもしれないのだが、なぜか正直になってしまって、うそを付く気にはなれなかった。

土産物屋を見て回る。タンカを売っている。しかし、あまり良いものはない。どこかで大量に作っていると云った感じだ。それに、日本人の感覚とはどことなく違っている。値段も高い。
そこで、ネパールの青年から声をかけられる。これから京都に行って、タンカを描くのだという。ホントの話かどうかはわからない。あるいは、そう言ってから、自分の店の品物を売ろうとしているのかもしれない。事実、店に来ないかと誘っている。あまり警戒してもつまらない旅になるのだが、ついつい警戒してしまう。まだお土産を買うわけにはいかないのだ。

部屋に洗濯をする場所がないので、宿の屋上で洗濯させてもらう。よく晴れていて気分が良い。
バクタプルは古い町で、建物が隙間なく詰めて建ててあるためか、みんな屋上を有効に利用している。屋上に鳥が食べるように穀物を供える習慣があるらしく、この屋上にもそんな場所があるし、他の屋上にもそれらしいものが見られた。よく澄んだ青空に菱形の小型の凧がいくつも揚がっている。

翌朝、まだ暗い4時頃から、宿の外で祈りの歌のようなものが聞こえて騒がしい。元々静かな町だから人の声が響くのである。その声に誘われて、私も宿を抜け出し通りに出て、まだ暗いダンバール広場まで行ってみた。
眺めていると、みんながみんな同じ動きをしているわけでもなく、数人のグループ毎に思い思いに、小さな祠や寺院を巡ってお参りしているようである。しかし先ほどまで聞こえていた歌声はもう聞こえなくなっていた。後で聞いたところでは、この日はダイサンという祭りの初日とのこと。ダイサンは日本の正月のような雰囲気の秋祭りらしい。
春の旅ではいくつかの祭りに偶然遭遇したが、今回も再び祭りに出会ってしまったわけだ。しかし、残念ながら、春と同じく今回も事前の調べができていないから、私には心の準備が出来ていない。そして、こういうことは私の人生全般においても同じように思える。なんに付け、心の準備ができていない。つまり出来事の意味や趣旨というものの理解が足りない。 

タメル地区
カトマンドゥの戻った。
多めにネパールルピーに両替してしまっていたので、少し良い部屋に泊まることにした。良い部屋と云っても、為替レートがとんでもないので日本円に換算すると驚くほど安い。得したと云う感じを通り越して、申し訳なく思ってしまう。
カトマンドゥのタメル地区は、外国人向けの安宿の並ぶ場所で、何でも揃っているスーパーマーケットもあれば、手ごろな価格で日本の家庭料理を食べさせてくれる食堂もあって、住み心地はすこぶる良い。
その夜、ダイサンの初日のカトマンドゥのダルバール広場はどうだろうかと町に出てみた。ところが道に迷ってしまい、1時間もぐるぐる歩いたあげくに、気が付くと宿の近くまで戻ってきてしまっていた。私は何人かに道を尋ねたのだが、質問の仕方が悪かったために、私の行きたい場所が相手に正しく伝わらなかったようだ。それで結局行ったり来たりして元の場所に戻ってしまったらしい。まあ、知らない土地で、夜に道に迷って街をさまようというのも、貴重な経験ではある。
夜の街角の寺院の前には山のように供物が積まれていて、たくさんのろうそくの明かりの中で参拝する人々が列を作っていた。