如意樹の木陰

古い記事ではサイババのことが多いです。
2024年に再開しました。

ラマナ・マハルシ

2007-09-09 10:08:41 | Weblog
昨日は、一日車検の出来上がりを待つあいだ、マハルシの「あるがままに」を拾い読みした。
なぜ、サイババの本ではなくマハルシなのかと思うかもしれないが、本当のところは私にもわからない。

「あるがままに」は、サイババの本とは少し違った視点から書かれているし、言葉が平易で読みやすい。
この本は、帰依者との対話を収録したものが中心であるため、質問する人に理解できるように、同じ意味のことをいろいろな角度から説明している。
いろいろな角度からだけでなく、いろいろなレベルの相手に応じて話をされているので、全体として、マハルシの言わんとするところがだんだん明瞭になってくるような気がする。
言葉は平易だが、内容は本質的で深いように思う。
「沈黙の聖者」と呼ばれていたマハルシは、言葉による教えの限界をよくわかっていたので、それで彼の語る言葉は、簡潔でわかり易いのだと思う。
以下に少し抜粋をしておきたい。

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---真理を説くこととは、ただ知識を伝授することである。本当の意味においてそれがなされるのは、ただ沈黙によってのみである。---
いったいどのようにして話す言葉が起こるのだろうか?まず、そこに抽象的知識がある。そこから自我が現れ、その自我から想念が起こる。そしてその想念が話す言葉として現れるのである。つまり、言葉は本来の源泉のひ孫にあたる。言葉がいくらかの効果を生み出せるとすれば、沈黙から真理を説くことがどれだけ強力であるか、自分で判断してみるがいい。
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真我を実現した賢者は霊的な波動を送り、それが多くの人びとを彼のもとに引き寄せるのである。---
真我を実現した賢者との接触を持てば、たとえ彼が何も話さなくとも、真理についてのより深い洞察を得る事だろう。---
グルは実在からあふれる自己知識の光を啓示して、沈黙を与える者である。グルの眼差しが弟子の瞳に出会えば、いかなる言葉もその意味を失うだろう。
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この文で「知識」とは単に情報のことではなくて、「さとり」のことをさしているのだと思います。
「沈黙」と言う言葉から連想するのは「捻華微笑」「以心伝心」。どちらも仏教の四文字熟語ですね。ですから、西洋人より日本人のほうが、「沈黙」について多少は理解しやすいのかもしれない。
たとえば、「あるがままに」の質問者には西洋人らしい人がいて、その人は「言葉」で何かを求めるために、マハルシとの会話がかみ合わないような状況も生まれている。