如意樹の木陰

古い記事ではサイババのことが多いです。
2024年に再開しました。

春の旅(14・おわり)

2007-09-02 20:51:17 | インド旅行記
帰国
デリーに向かう列車で居眠りをしていたら風邪がひどくなった。終点のニザーム・ウッディーン駅に着いた頃には頭がボーとしてきたし、鼻水が止まらない。乾季の北インドのほこりっぽい風と排気ガスで喉と鼻をやられていたが、今度は、どうも本格的な風邪かもしれないと感じた。
風邪を拗らせて3日後の帰国の飛行機に乗れなくなってはたいへんだと考えて、落ち着けそうなアショック・ヤトリ・ニバスに泊まる事にした。一泊325RSだから、それ相応ではある。窓ガラスが薄いためか、外の騒音が入ってくるのが気になる。しかし、あまり値段の高くないチケット制のレストランもあるし、売店もあるので便利だ。
翌日、少し熱っぽいのだが、国立博物館に行った。インドに来て最初に見たのがここだったが、全部見たわけでもないので、もう一度時間をかけてゆっくり見てまわった。インドに来てから博物館にはずいぶん立ち寄った。主な博物館だけでもボードガヤ、サルナート、バラナスィのヒンドゥー大学の博物館、カジュラホ、マトラー。別にそこに目新しいものがあることを期待しているわけでもないのだが、それでも博物館に入るのは、たぶん博物館に入ると落ち着くからだと思う。

風邪で関節が痛くなってきたが、風邪薬は使い終わっていた。それで、解熱効果のある頭痛薬を飲んで寝たら、翌日はだいぶん回復していた。あまり食欲がないので果物などを買って来て食べた。ちなみに、その日の買い物の値段は、バナナ5本-8RS、オレンジ6個-10RS、フルーティー(紙パック入りのマンゴジュース)2パック-14RS、スナックス(塩味のクラッカー)1箱-17RS、ミネラルウォーター1リットル-12RS、計61RS。これだけ買っても200円である。

お土産でも買おうと街に出た。
ホテル前にたむろしているオートリクシャの客引きには、閉口する。
だから、オートリクシャに乗る時は、とりあえずホテルや駅から少し歩いて、それからオートリクシャを探すという習慣ができた。それの方が運転手を選びやすいのだ。ただ、オートリクシャの運転手にそう悪い人はいないようだ。中には地方から出てきたばかりで私より町を知らない運転手もいたが、それでも運転手は車を停めて道を聞きながら目的地までなんとかたどりついてくれる。
オートリクシャに比べて、はるかに胡散臭いのはやはり空港のタクシーである。プリペイドタクシーでさえも、指示と違うホテルに連れて行かれたし、昼間のうちなら土産物屋に連れて行こうとする。弱ったものであるが、強く主張すればなんとか目的地には着く。
インドの人はよく「ノープロブレム」と言うが、あの言葉の意味は、「ノープロブレム」と言っている当人にとっては「ノープロブレム」なのだと解釈した方がよいかもしれない。
「あんたにとっては問題なくても、俺にとっては問題なんだ。」と思っていれば、まず間違いはない。

帰国の日。デリーはホリーの祝日である。体調はだいぶん回復したので、タクシーを奮発して見残した名所を見て歩く。クタブ・ミーナールは、イスラムの遺跡で石造りの背の高い塔が立っている。その遺跡の中央にイスラム文化が入る以前の5世紀からあるという巨大な鉄柱が立っている。高さは7m、太さはちょうどひとかかえほどで、1500年以上屋外に立っているのにほとんど錆びていない。
露天に立っているので表面は酸化して黒くなっているのだが、赤錆はほとんど出ていないのだ。学者が5世紀というのだからたぶん本当なのだろうが、今から1500年以上も前にこんなものを作ってしまう技術を持っていたというのは不思議な事であるらしい。もっとも、考えてみれば、それよりさらに3000年前、すでに、デリーから1000Km西のモヘンジョダロには整然とした都市があったわけで、錆びない鉄の柱の一本くらいでそれほど驚く事ではないのかもしれない。
朝の遺跡には、私以外ひとりの観光客もいない。この遺跡はデリーの郊外にあるから、観光バスが来るまではひっそりとしているらしい。少し拍子抜けするくらいである。ここではサンバードやカワセミも見かけた。

それから、もう一度ヒンドゥ教の寺院を見ておこうと思い、今世紀になってから財閥が建てたという新しい寺院に行ってみた。このラクシュミー・ナーラーヤン寺院では、外国人は一度控の部屋に通され、ガイドが案内してくれた。しかし、ここのガイドも歩くのが速い。それで、ガイドについて一回りしてからもう一度ゆっくり見てまわる事にした。この寺院の内装や神像はバラナスィのヒンドゥー大学構内のヴィシュワナート寺院とよく似ていて、白い大理石をふんだんに使った素晴らしいものであった。
寺院の一番奥の美しく飾られた部屋に、すばらしいクリシュナの像があった。横笛を構えたまま、伏し目がちに小首をかしげたクリシュナは、生きているように微笑んでいた。インド人にとって、クリシュナは愛の対象なのだろうと思う。そうでなければ、なぜこのような美しい像を作り、美しい衣装を着せて花で飾るのか理解できない。

この寺院のすぐ隣には、仏陀を祭る寺院があって、参拝するインド人もかなりいた。こちらの寺院には女性の参拝が多いように感じるが、何か理由があるのかもしれない。
街はホリーである。空港に向かうタクシーからも、粉だらけになって満足そうに歩いている人達を見かけたし、空港で飛行機を待つ外国人の中にさえピンク色に染まったままの人達がいた。
北インドを回りながらも、もう一度サイババの所に行きたいという気持ちが何度か沸いた。たぶん、バンガロールがもっと近ければ戻っていただろうと思う。しかし、北インドを回る旅も決して悪くなかった。旅が思いのほか順調であったのは、やはりサイババのおかげなのだろうと思った。

帰りの飛行機は、バンコクを経由するため、乗客にはタイの僧侶の姿も多い。若い人から、年老いた人まで20人くらいいただろうか。待合室で私の前に腰掛けたのは、大柄な白人の僧と小柄な僧である。白人の僧は、60歳くらいだろうか、咳が止まらないらしい。小柄な僧は70歳くらいで、こちらも時々コホッコホッと咳をする。ふたりとも排気ガスにやられたのだろうと思う。しかし、ふたりとも、表情は穏やかで、満足げであった。それが修行によって得られた悟りなのか、仏陀の足跡をたどる事のできた満足感なのかは、わからなかった。ただ、こういった人々が乗る飛行機なら落ちる事はないだろうし、落ちたところで、成仏できそうな気がした。

サイババとはどんな人か、何も結論らしいものはない。しかし、サイババの周囲に溢れている特別な雰囲気が、人々を強く引きつけるものである事は間違いない。その雰囲気はサイババ本人が作り出しているものなのか、アシュラムに集まる人々によって作り出されているものなのか。たぶん両方の相乗効果なのだろう。強力なサイババのバイブレーションによって、そこに集まった人々も音叉が共鳴するように反応しているようだ。このバイブレーションによって人々の心は少しずつ変容してゆくだろう。
また、サイババの登場は、多くの国の人達にインドに対する興味を持たせ、さらに神的な存在について考えを巡らせる機会を与えただけでも充分に意味がある。神的な存在を理解する事はできないし、たぶん理解を超えた存在なのだろう。しかし、神的な何かが存在する事によって、我々の存在にも、単に生まれて死ぬ以上の意味が与えられるのではないかと思う。
そして、神の化身がこの時期にインドに登場する事も決して偶然ではないのだろう。神の化身が現われるのは、人々の無意識がそれをどれだけ望んでいるかによるのだと思う。たとえば、日本にもぽつりぽつりといろいろな新しい教祖が出てくるが、これも日本人の無意識の結晶だと思って、そう間違いではないだろう。そして、現われる教祖の質は、人々の無意識の質によってある程度決まってくるといえるかもしれない。

** 以上で、春の旅の記録を終わります。

春の旅(13)

2007-09-02 19:26:54 | インド旅行記
ブリンダバン
アグラからデリーに帰る途中、マトラーという駅に降りる。
マトゥラーはクリシュナの生まれた場所とされているところだ。クリシュナという名が耳に懐かしいのは、「ハレー クリシュナ ハレー クリシュナ・・・」の歌のせいだろう。
インドでよく見かける、神様のポスター売りの店先に並んでいるクリシュナの絵には、少し青黒い肌をしたふくよかな子供の姿と、牧女に囲まれ横笛を吹く美青年の姿とがある。どちらもインドの物語「バガヴァッド・ギータ」に登場するクリシュナである。天真爛漫で誰もが愛さずにはいられない存在がクリシュナのイメージである。
マトラーは外国人向けの観光地ではないから、駅に英語の表示はほとんどない。待合室の壁に書かれている時刻表にも英語は併記されていない。町に入ってみてもやはり、デリーやアグラに比べれば外国人ずれしていない感じだ。こういった町に入るのは、興味はあるが不安もある。

そもそもマトラーに来る事を薦めてくれたのは、アスィーガートのホテルの屋上で会ったドイツ人だった。「自分はなぜかよく日本人に間違えられるが、日本人と話すのは初めてだ。」と言うそのドイツ人は、シタールを買って予算オーバーしてしまい、部屋代を節約するために屋上のベッドを借りていた。その彼が「アグラは1日で十分だから、ぜひブリンダバンに行った方がよい。」と薦めてくれた。ブリンダバンはマトラーの郊外の地名で、そこにはクリシュナが牧女と踊りを踊った森があったという。
もともと、クリシュナの物語はフィクションのはずなのだから、生誕地にしても、ブリンダバンの森にしてもあまり意味があるとも思えない。しかしクリシュナの話は仏陀よりもさらに以前の話だから、真実はもう誰にもわからない。この目で直接見たり感じたりした事以外は、結局憶測にすぎないのである。もちろん、憶測すること自体は悪い事ではないのだが。

観光案内所に行き、地図があるかとたずねてみるが、あいにく地図は置いていないと言う。
とにかく、そこで教えてもらったホテルの名前をたよりに、ブリンダバンに行ってみた。ブリンダバンまではマトラーの市街から10Kmくらいである。
行ってみると、紹介されたゲストハウスは満室だと断られ、そのゲストハウスで紹介された安宿に落ち着いた。部屋はあまりきれいではないが、家庭的な雰囲気の宿である。まあ宿といっても民家の敷地に貸し部屋が並んでいるといった方がよい。
その宿の造りは、周囲が塀で囲まれており、その塀で囲まれた敷地の、門から見て右奥に母屋があり、左側の塀に沿って貸し部屋が並んでいる。貸し部屋には自炊設備もあった。
庭では主人が縁台の上で昼寝しており、側に飼い猫が2匹いる。日本猫と同じような猫で、毛が短かく、しっぽは長い。インドで猫を見るのは初めてである。
インドの町には、当然の事ながら牛があふれているし、犬やヤギも多くみかける。それから野生の動物では、シマリスや猿が町なかにもいた。
猿には2種類あって、バラナスィやアグラの町で建物の屋根を渡り歩いていたのは茶色い毛をした日本猿のようなタイプだったが、公園など樹木のある所には尾も手も長い黒っぽいタイプがいた。
しかしそれまで猫は見かけなかった。

スチューデントガイドだという10才くらいの少年に案内されて、有名らしい寺院を見て歩いた。この少年は、ブリンダバンの町にオートリクシャで入った時に、「僕はスチューデントガイドです。」と言うので、お願いしたのだが、なかなかよく案内してくれた。この辺りの寺院の周辺には、巡礼宿らしい建物が並んでいて、そこからはクリシュナをたたえる歌が聞こえてきたりした。この町は、観光の町ではなくクリシュナを信仰する人々の巡礼の町なのだろう。

宿の前の通りは夕方近くからホリーの粉かけ祭りになった。ホリーの祝日はカレンダーでは3月5日なのだが、ブリンダバンでは期間が長いのか、それとも違う暦でやっているのか、私にはわからなかった。通りに出るとピンクの粉が飛び散るので、宿の周辺を見学して歩く事もできそうにない。それでも恐いもの見たさで、何回かは通りに出てみた。通りを歩いていると2階の窓から粉や粉を水で溶いたものが降ってくる。粉の色は主にピンクだが、黄色や緑などもある。
さらに夕暮れ近くになると、山車が出て来て、通り一面に粉が撒き散らされた。粉にはいくらか香料が入っているらしく、華やいだ感じになった。粉が付くのは縁起の良い事らしいので、また通りに出て少しばかり粉をかぶった。
その日の夜、宿の周りは夜遅くまでとてもにぎやかで、歌声やざわめきが部屋の中まで押し寄せてきた。

翌日、クリシュナの生誕地にある巨大な寺院に行った。タジ・マハルの時と同じように入り口で厳しい検査があって、手荷物は一切持ち込ませない。ここは寺院の境内の要所要所にも警官が立っていて、ずいぶん監視が厳しかった。
寺院の中のクリシュナの像は、色黒の小柄な男ではなくて、宝塚の舞台から抜け出てきたような、女性的な感じさえする背の高いすらっとした美男だった。現在のインドで信仰されている寺院の神様の像には、ここのクリシュナの像のように色白面長できらびやかな衣装を身につけたものが多く見られた。また、ビシュヌ神やここのクリシュナのように夫婦一対でにこやかに並んでいるものも多い。はじめてこういった像を見た時には、いわゆる宗教とは異質のものを感じたものだが、考えてみれば、磔にされた男の像よりも精神的に良い事だけは間違いない。

**** 写真は、バラナシのヴィシュワナート寺院の神像 ****

春の旅(12)

2007-09-02 18:41:47 | インド旅行記
バーラトプル
サイババのいるプッタパルティを出てから、北インドの観光地を巡って、アグラまで来た。もうすぐデリーである。しかしまだ帰国までには数日ある。観光ルートとしては、アグラからジャイプルに行くのが筋なのだが、観光地にも飽きてきたので、少し目先を変える事にする。
それで行く事にしたのが、バーラトプル鳥獣保護区。
日本から小型の双眼鏡を持参しているし、野鳥の図鑑『COLLINS BIRDS OF INDIA』をカジュラホで買っていたから、バードウオッチングくらいはできそうだ。この鳥獣保護区はアグラからそれほど遠くない。
とりあえずバーラトプルの地図を手に入れようと、政府観光局の事務所を訪ねてみた。すると対応してくれたりっぱなお役人が、しきりにタクシーのチャーターを勧める。タクシー代は1日チャーターして700RSだが、インドルピーの感覚では高額である。その金額で今の宿には6日泊まれる。しかし、タクシーだと帰りに他も見られるとか言われて、結局タクシーを使う事にした。
ITDC御用達のタクシーの運転手は精悍でまじめな感じの男であった。バーラトプルへ向かう道路は真っ直ぐな良い道で、しかも空いていたので、運転手は80キロくらいのスピードで飛ばした。
車から見える風景は、乾いた感じの穀倉地帯で、このような土地にどんな鳥獣保護区があるのだろうかと考えたりした。しかし、一時間も走ったところで、ちょっと森らしい所に入ったら、もうそこがバーラトプル鳥獣保護区の入口だった。

入口の事務所で、ガイドを付けた方が良いと説明を受けた。ガイドがいないとどれほど危険かを係りの人は説明しているらしいのだが、あいにくよくわからない。チャーターのタクシーで行ったものだから、それなりに、余分にお金がかかる事になる。しかし、これも経験と思って、ガイドに案内してもらう事にした。ちなみにこのガイド氏は、1時間当たり75RSだった。学者さんのような?雰囲気の本格的なガイドである。
バーラトプル鳥獣保護区は、森で囲まれた広い湿地帯である。観察のための道が整備されていて、自転車が借りられるので、ひとりでものんびり見てまわる事ができる。ただし、自転車のサドルの高さは、日本のそれに比べてだいぶん高いものだった。またボートを使えば、さらにたくさんの鳥を見る事ができる。
優秀なガイド氏のおかげで、野鳥の図鑑には、すぐに20を超えるマークが付いた。私一人では、とてもそれほどたくさんの種類を見つける事はできなかったはずである。したがって、もし本当に鳥を見るのであればガイドに付いてもらうべきなのだろうと思った。
ガイド氏に2時間ほど案内してもらって、公園のだいたいの雰囲気も分かったので、その後はひとりで自転車を使って公園の中を見て歩いた。森の中の道を行くと孔雀がいた。また、池の水面を見下ろす木の上には、大きなカワセミがいた。日本でたまに見かけるカワセミはすずめくらいの大きさだが、インドのカワセミはヒヨドリくらいの大きさである。ブルーの羽に透き通るような大きな赤いクチバシが魅力的だ。私はカワセミが好きなので、カワセミを見かけるたびに興奮してしまったが、インドでは割にポピュラーな鳥らしい。
インドに住む鳥の色彩は日本に比べるとずいぶんあざやかで、ここが南の国である事を実感させてくれた。
このバーラトプル鳥獣保護区はインドの自然というには、あまりにも手軽だが、それでも、かなり満足のゆくバードウォッチングができる場所だった。

バーラトプルの帰りにファテープル・スィークリーに寄った。この遺跡はタジ・マハルを作った皇帝よりさらに2代前のアクバル大帝が作った都だ。せっかく作ったのに、水不足のため14年使っただけで、別の場所に遷都したらしい。今から400年前の話である。日本であったら400年もたてば「その石垣に当時の面影を残すのみ」になってしまうのだが、全て石造りだから400年くらいでは、つい10年ほど前に作ったかのように残っているのである。だから、これから100年たち200年たちして周囲が変わっていっても、14年しか使われなかったこの都はこのまま変わらずにここにあり続けるのだろう。
このファテープル・スィークリーの礼拝堂にはモスリムの聖人の墓があった。信仰されているらしく、たくさんの人が堂の中に入って墓の周りを回ったり花をあげたりしている。案内してくれたガイドさんに聞くと私が入っても大丈夫らしい。それで、その堂に入って薄暗い墓の周りを回ってみた。
小さいお堂なのだが、タジ・マハルとは全く違ったゾクッとするような雰囲気があった。その違いは、観光地と今現在信仰を集めているものとの差だろうと思った。信仰を集めている場所にただよう霊気のようなものは、そこに祭られている神のものというよりは、そこに集まってくる人々の想念が作り出すもののような気もする。

タクシーは午後3時頃にはホテルに到着してしまったので再びタジ・マハルに行く。南門の外のホテルの屋上でお茶を飲みながら見ていると、何十羽もの鷹が白いドームの金色に輝く尖塔の上をゆっくり旋回しながら上がっていった。それから、前日とは歩くコースを変えてタジ・マハルを楽しんだ。夕方、西日がタジ・マハルの中に差し込むと、内壁の象眼細工や棺を囲む大理石の格子の象眼細工が、その時だけ生き生きと色彩を放って素晴らしかった。