これから、秋の旅を載せてゆく事にする。
旅行した期間は、10年位前の9月の終わりから12月はじめまで。
期間は長いが、その半分くらいはプッタパルティに滞在していた。
この旅行のあとしばらくは、長期の旅行はできそうもなかったので、少し欲張った計画を立てた。
計画といっても、あってないようなものだが、航空券をカルカッタイン・デリーアウト・バンコクストップオーバーにしたので、それで一応大筋は決まってしまった。
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バンコク
彼岸を過ぎて朝晩だいぶん涼しくなってきた9月の終わりに出かけた。
南アジアはまだ暑いかもしれないし、雨季が明けていないかもしれないが、あまり出発を遅らせることもできなかった。
例によって少し風邪気味である。
春の旅を反省して、今回の旅はとにかくのんびりゆっくり動くこうと思った。しかし、それも成田にいる内だけの話で、いざ海外に出れば、たぶんそううまくはいかないのだろうが。
バンコク到着は意外に早く、明るい内に空港に着いた。時差が2時間あるから6時間くらいかかったのだが、ずいぶん早く感じた。
バンコクには1週間滞在する。1週間後のおなじ便に乗ってカルカッタに行くのである。
空港から安宿のあるというカオサン通りに行く事にして、エアポートバスを探しに外に出たが、大雨である。夕立という感じの降り方だ。
ガイドブックによると、カオサンに行くにはエアポートバスA2に乗ればよいらしいが、そのバスは見あたらない。何人かに聞くと皆59のバスに乗れという。それで、高速道路の下のバス停まで行って、59のバスに乗った。大きな荷物を抱えて雨の日にバスに乗るのは楽しいものではない。
バスの乗客の服装も顔立ちも日本と大差ない。小銭入れをカシャカシャ鳴らして乗車券を売る車掌がいなければ日本と錯覚してしまう。
成田を昼に発ったのに、まだバスの外は明るいのである。
しばらく走ると、乗っていたバスは終点になった。しかし、降ろされた場所は、まだだいぶん郊外らしい。
雨は上がったが、6時を過ぎて町は暗くなってきた。
それで、しかたなくタクシーを使いカオサン通りに到着。
しかし、私の入った宿はカオサン通りではなく、そのはす向かいの路地を入った先である。少しはずれである分静かな感じである。
カオサン通りは、旅行者にとっては便利な場所である。博物館や観光スポットの王宮に近く、水上バスの行き来するチャオプラヤー川の船着き場にも歩いて行ける。それに旅行者が多いから、独特の開放的な雰囲気がある。話をしてもしなくても、やはり旅行者は旅行者の中にいると落ち着くようである。カオサン通りの欠点は、駅まで少し遠い事くらいである。
バンコクでの1週間の内、後半の3日間はジム・トンプソンハウスの隣の路地の小さな宿に移った。こちらはエアコン付き。その分宿代は高いが、交通の便もよい。
タイの仏教
日本の仏教が大乗仏教であるのに対して、タイの仏教は上座部仏教であるという。簡単に云えば、使われている教典がより古い、釈尊の説いたものに近いということだ。
日本の仏教経典は漢文でとっつきづらいものである。その口語訳も分かりやすいとは言えない代物である場合が多い。
それに比べれば、パーリ語から直接口語に訳した上座部の教典は、ずいぶん読み易くはるかに親しみが持てる。したがって、私にとっての仏教とは、中村元先生の訳により岩波文庫に入っている上座部の教典の世界である。
私が『私は仏教徒である。』と云うときに、私がイメージしているのは上座部の経典の中にある釈尊の人格である。
それはたとえば、キリスト教徒の場合で言えば、福音書の中のイエスの人格に共感するという事である。
文化としての仏教やキリスト教は、地域や時代によって変わってしまうが、釈尊やイエスの人格は、文章にされてからは、それほど大きく変わってはいないはずである。
宗教の本質は、たぶんそのような人格に対する共感にあるはずである。釈尊のように生きる、あるいはイエスのように生きる事が、仏教徒やキリスト教徒の目的であってもよいはずだ。釈尊やイエスを現実離れした別世界の存在にしてしまったら、その宗教の意味の多くは失われてしまうのではないかと思う。
それにしても、タイの仏教寺院はハデで豪華である。そして、安置されているのは、ゴールドの仏像であったりエメラルドの仏像であったり。たぶんこう云ったものは権力の象徴であって、宗教の本質とは別物のようである。ただ、タイランドが豊かな国であり、仏教やその僧侶が大切にされているあかしではある。
上座部仏教であるから、日本のような不動明王や観音様はほとんどないようである。そのかわりに、どの寺院にも同じような形の仏陀の像がいくつも置いてあるようだった。
ワットスタットの近くを歩いていたら、仏具屋さんと花火やさんの並んだ通りがあって、等身大かそれ以上大きい黄銅色に輝く同じような仏像がたくさん置いてあった。売っていると云うことは需要があると云うことだ。つまり、タイでは、現在も新しい仏像がどんどん供給されていると云うことなのだろう。
カルカッタ
カルカッタに着いてからの計画など考えながらバンコクの空港で待っていると、同じ飛行機に乗る二人の日本人と会った。一人はカルカッタを知っているという28歳くらいの小柄な男性。もうひとりは30歳くらいでアメリカに1年くらいいたことがあるという女性。ふたりとも南インド方面へ行く予定らしい。期間もずいぶん長そうだ。半年くらいは考えている。
他に、関西の40歳くらいの女性は、これからボンベイ経由でアフリカ、ケニアのナイロビに行くのだという。この人は半年は日本、半年は外国生活だという。
さて、飛行機には、大きな同じような荷物を持ったインド人の大人数のグループが乗っていて、なかなか楽しかった。ランディングカードをリーダー格の人がまとめて書いたりしているが、観光の帰りと云った雰囲気でもない。いかにもインド人的に行動して、スチュワーデスを困らせたりしていた。しかも、私の隣に座った人はたばこが嫌いときている。自分が座っている席が喫煙席だという事が分かっていないらしい。
フライトの時間は2時間半くらいで、しかも時差が1時間半あるから、カルカッタは非常に近く感じた。しかし空港で手間取ったから、空港の外に出たときは、もう夜になっていた。
フライト時間はたかだか2時間半でもバンコクとカルカッタでは雰囲気が全く違う。東京からバンコクに入ってもほとんどカルチャーショックはないのだが、やはりインドは別の世界と云う印象が強い。
空港の外の薄暗いオレンジ色の照明に浮かぶオンボロのタクシーの群。 「また、来てしまった。」と口に出してみたが、別に来た事を後悔しているわけではない。
泊まる場所はサダルストリート。安宿街と云われる所である。飛行機で一緒だった三人もサダルストリートに行くということで、カルカッタを知っているという男性が手続きしたプリペイドタクシーでサダルストリートに向かう事になった。空港はまだそれほどでもないが、タクシーが走り出すといかにもインドらしい風景になってくる。カルカッタはすごいと聞いていたが確かにそのようだ。オンボロのバスや車、薄暗くほこりっぽい道、クラクションの音、何のために歩いているのか大勢の人たち。タクシーのヘッドライトは薄暗くて、危ないようである。
さて、タクシーは無事にサダルストリートまで来たが、ここで、お金を払った、いやお金を受け取っていないで、もめることになった。
プリペイドタクシーのシステムはいまだによく分からないのだが、少なくとも運転手は一枚運転手用の紙を持っていなければ、お金はもらえない。ところが運転手はそれを持っていないし、だいいちこの運転手達がプリペイドタクシーのシステムを知っているのかさえ疑わしくなる。さいわい同行の二人は英語ができるので、言い合っていると、通行人も話しに加わってきて、少しいやな雰囲気になる。
それでは空港のプリペイドタクシー窓口に電話してみようという事で、電話を捜して歩き始める。するとポリスマンらしき人がいるので、ちょうど良いとひとりが説明してみるが、警官も面倒には巻き込まれたくはないらしい。それで仕方なく電話をしても、電話はつながらない。
それで、私はもう充分だと思ったから、100Rsを運転手に渡して話を終わらせた。結局、中年のおじさんはそういう役回りになるのだと思う。
インドというのはこういう場所なんだと、インドが初めての人にわかってもらえれば、100Rsは安いものだ。
タクシーの一件が落着したところで、私は彼ら3人と別れた。どうも若い人と一緒ではついていけないような気がするのだ。
それで、私はひとりでホテルを探し始めたが、バンコクの時ほど簡単ではなかった。まず、ガイドブックを見て予定していた宿は見つからず、その後あたった二つのホテルは満室だと断られ、探すのが面倒になって客引きに案内してもらった宿は、サダルストリートから離れた裏町の古びた宿屋。窓はないし暑いしうるさい。しかし、一晩だけとあきらめて泊まることにする。
翌朝、その宿の周囲を歩いてみた。
昨夜は暗かったので、すごく場末の感じがしたが、実際にはそれほどでもない。場所はニューマーケットの裏手で、近くには映画館があったりする。宿の辺りは、いかにも市場と言った感じで、荷物を積んだトラックが出入りしている。
だからといって、このホテルにもう一晩泊まる気は全くないので、サダルストリートから博物館あたりに適当な宿を探して歩いた。
それで見つけたのがホテル・クリスタル。外から見るとしゃれた感じの白い外壁に緑のツタが少し掛かっていて、いい感じである。フロントも現代的なゲストハウス。しかし、よく見れば、階段の絨毯ははがされて、部屋の手入れもあまり良くない。が、なんといっても静かで、3階の部屋は風通しが良く、窓からの景色も悪くない。250Rsでここに泊まることにした。博物館まで10分以下、地下鉄の入り口までも10分以下。
さてカルカッタの博物館は、ずいぶん大きな建物である。中庭を取り巻いて2階建ての石造りの立派な建物。考古学の展示品はデリーに比べても引けを取らない。東インドらしくJAVAの遺跡から持ってきた物なども多数あった。イギリスが植民地支配していた時代にあちこちから運んできた物だろう。
博物館の中庭の噴水は盛大に水を吹き上げていて、風もあって涼しい。10月はじめのカルカッタは結構暑いから、こういった場所はのんびりするにはよい。
地下鉄
地下鉄でカーリーガート駅まで行き、カーリー寺院を見学する。地下鉄は、全線が開通しているようで,DUMDUMまで行けるらしい。しかしDUMDUMと云っても、空港からはずいぶん遠いようだ。駅には切符の自動販売機もあるが、だいたい故障しているから、窓口で切符を買う事になる。
地下鉄は、バスや路上電車に比べるとずっと空いているし、路線が一本しかないので、初心者向きで便利。
カーリー寺院は、カーリーガート駅から西に1kmほどの所にあるこじんまりした寺院だ。ヒンドゥー教の寺院というのはバラナシの有名な寺院もそうだったが、わりに小さい。権威を誇示するために巨大な寺院を建てる必要がないのだろう。土着の信仰であり、国家宗教と云った感じではない。
寺の周囲には花を売る店や、土産物の店などあってにぎわっている。寺の入り口に近づくとバラモンらしい人物がうるさい。うるさいというのは、アーしろコーしろと云って私を案内しようとするのである。その人は身なりも恰幅もよく、あるいは本当にバラモンなのかもしれないが、あとでガイド料を要求されても困るので、一切無視して、自分のペースで参拝する事にする。
まず靴を預ける場所を探すが、履物の預かり場所はあまり良い雰囲気の場所ではないので、花を売る店で5Rsの花を買って靴を預かってもらう。花屋は、外国人相手に金儲けをするバラモン氏?があまり好きではないらしく、私に好意的だったように思う。私が10Rs出したら5Rs返してくれたくらいだし、私の手を水で洗ってくれた。
それから寺院に入って他の人がするように花を投げ入れて、神様を拝んだ。バラモン氏が手首にひもを巻こうとするがそれは断った。インド人でもそんなひもをしている人は少ない。
皆が押し合うようにして拝んでいる神様の像は以外にかわいい顔をしていた。威厳とか厳めしさとか、そういったモノとはずいぶん違った雰囲気である。しかし、愛される感じはある。昔、だっこちゃん人形があったが、そんなかわいらしさである。とにかく、本来のカーリーの恐ろしい女性のイメージとは遠く離れている像であった。
それから、インディアンエアラインにいってカトマンドウのチケットを購入する。案外簡単に翌日のチケットが手に入った。
カルカッタにはあまり興味がなかった。
次にジャイナ教の寺院に行くことにした。しかし、地下鉄の駅はどこで降りたらよいのかよく分からない。適当な駅に降りて歩き始めたが、道を聞いても明確な答えは得られないし、どうもずいぶん遠回りしていたようである。それでも30分以上歩いたあげくにあきらめて、オートリクシャを頼んだら、ほんの少し走った所が目的の寺院だった。
ジャイナ教の寺院もカーリー寺院と同様、こじんまりした感じだが、なかなかお金のかかったきれいな寺院である。これはつまり信者が裕福な階層の人々だという事だろう。
寺院の入り口まで近づくと、例によってガイドらしき若者が寄ってくる。ガイドはお金を要求すると分かっているので、断りながら、適当にあしらって見学させてもらう。
よい大理石をふんだんに使った立派な寺院で、前に見たタイの寺院のような装飾感覚である。しかし、タイよりも仕事はずっと丁寧だ。銀などもふんだんに使われ、宝石も使われているという。
それにしても、像の表情の漫画的にかわいいこと。このようなかわいらしい優しい感じというのはどこから来るモノなのだろうかと思った。
ガイドの若者は断っても付いてくる。あまり悪い奴でもないらしいし、私も勝手が分からないので、適当につき合ってもらう。観光客は少なくて、はっきり観光客と分かるのは私一人くらいだから、写真を買ってくれとかいう男もつきまとうが、それほどしつこくはない。どちらかというと余裕のある穏やかな感じである。私と彼らのやりとりを聞いていて、笑っているおじさんもいて、なごやかである。カーリー寺院の周辺とはすこし土地柄が違うように感じた。
ここにはジャイナ教の寺院が四つあって、当然ながらそれぞれ少しずつ様子が違う。ガイドの青年のおかげで一人では入れそうもない所まで入ることもできたのはラッキーだった。
結局そのガイドは私を地下鉄の駅まで送ってくれて、私はいくらかの金を彼に渡すことになったが、良いガイドだったように思う。
旅行した期間は、10年位前の9月の終わりから12月はじめまで。
期間は長いが、その半分くらいはプッタパルティに滞在していた。
この旅行のあとしばらくは、長期の旅行はできそうもなかったので、少し欲張った計画を立てた。
計画といっても、あってないようなものだが、航空券をカルカッタイン・デリーアウト・バンコクストップオーバーにしたので、それで一応大筋は決まってしまった。
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バンコク
彼岸を過ぎて朝晩だいぶん涼しくなってきた9月の終わりに出かけた。
南アジアはまだ暑いかもしれないし、雨季が明けていないかもしれないが、あまり出発を遅らせることもできなかった。
例によって少し風邪気味である。
春の旅を反省して、今回の旅はとにかくのんびりゆっくり動くこうと思った。しかし、それも成田にいる内だけの話で、いざ海外に出れば、たぶんそううまくはいかないのだろうが。
バンコク到着は意外に早く、明るい内に空港に着いた。時差が2時間あるから6時間くらいかかったのだが、ずいぶん早く感じた。
バンコクには1週間滞在する。1週間後のおなじ便に乗ってカルカッタに行くのである。
空港から安宿のあるというカオサン通りに行く事にして、エアポートバスを探しに外に出たが、大雨である。夕立という感じの降り方だ。
ガイドブックによると、カオサンに行くにはエアポートバスA2に乗ればよいらしいが、そのバスは見あたらない。何人かに聞くと皆59のバスに乗れという。それで、高速道路の下のバス停まで行って、59のバスに乗った。大きな荷物を抱えて雨の日にバスに乗るのは楽しいものではない。
バスの乗客の服装も顔立ちも日本と大差ない。小銭入れをカシャカシャ鳴らして乗車券を売る車掌がいなければ日本と錯覚してしまう。
成田を昼に発ったのに、まだバスの外は明るいのである。
しばらく走ると、乗っていたバスは終点になった。しかし、降ろされた場所は、まだだいぶん郊外らしい。
雨は上がったが、6時を過ぎて町は暗くなってきた。
それで、しかたなくタクシーを使いカオサン通りに到着。
しかし、私の入った宿はカオサン通りではなく、そのはす向かいの路地を入った先である。少しはずれである分静かな感じである。
カオサン通りは、旅行者にとっては便利な場所である。博物館や観光スポットの王宮に近く、水上バスの行き来するチャオプラヤー川の船着き場にも歩いて行ける。それに旅行者が多いから、独特の開放的な雰囲気がある。話をしてもしなくても、やはり旅行者は旅行者の中にいると落ち着くようである。カオサン通りの欠点は、駅まで少し遠い事くらいである。
バンコクでの1週間の内、後半の3日間はジム・トンプソンハウスの隣の路地の小さな宿に移った。こちらはエアコン付き。その分宿代は高いが、交通の便もよい。
タイの仏教
日本の仏教が大乗仏教であるのに対して、タイの仏教は上座部仏教であるという。簡単に云えば、使われている教典がより古い、釈尊の説いたものに近いということだ。
日本の仏教経典は漢文でとっつきづらいものである。その口語訳も分かりやすいとは言えない代物である場合が多い。
それに比べれば、パーリ語から直接口語に訳した上座部の教典は、ずいぶん読み易くはるかに親しみが持てる。したがって、私にとっての仏教とは、中村元先生の訳により岩波文庫に入っている上座部の教典の世界である。
私が『私は仏教徒である。』と云うときに、私がイメージしているのは上座部の経典の中にある釈尊の人格である。
それはたとえば、キリスト教徒の場合で言えば、福音書の中のイエスの人格に共感するという事である。
文化としての仏教やキリスト教は、地域や時代によって変わってしまうが、釈尊やイエスの人格は、文章にされてからは、それほど大きく変わってはいないはずである。
宗教の本質は、たぶんそのような人格に対する共感にあるはずである。釈尊のように生きる、あるいはイエスのように生きる事が、仏教徒やキリスト教徒の目的であってもよいはずだ。釈尊やイエスを現実離れした別世界の存在にしてしまったら、その宗教の意味の多くは失われてしまうのではないかと思う。
それにしても、タイの仏教寺院はハデで豪華である。そして、安置されているのは、ゴールドの仏像であったりエメラルドの仏像であったり。たぶんこう云ったものは権力の象徴であって、宗教の本質とは別物のようである。ただ、タイランドが豊かな国であり、仏教やその僧侶が大切にされているあかしではある。
上座部仏教であるから、日本のような不動明王や観音様はほとんどないようである。そのかわりに、どの寺院にも同じような形の仏陀の像がいくつも置いてあるようだった。
ワットスタットの近くを歩いていたら、仏具屋さんと花火やさんの並んだ通りがあって、等身大かそれ以上大きい黄銅色に輝く同じような仏像がたくさん置いてあった。売っていると云うことは需要があると云うことだ。つまり、タイでは、現在も新しい仏像がどんどん供給されていると云うことなのだろう。
カルカッタ
カルカッタに着いてからの計画など考えながらバンコクの空港で待っていると、同じ飛行機に乗る二人の日本人と会った。一人はカルカッタを知っているという28歳くらいの小柄な男性。もうひとりは30歳くらいでアメリカに1年くらいいたことがあるという女性。ふたりとも南インド方面へ行く予定らしい。期間もずいぶん長そうだ。半年くらいは考えている。
他に、関西の40歳くらいの女性は、これからボンベイ経由でアフリカ、ケニアのナイロビに行くのだという。この人は半年は日本、半年は外国生活だという。
さて、飛行機には、大きな同じような荷物を持ったインド人の大人数のグループが乗っていて、なかなか楽しかった。ランディングカードをリーダー格の人がまとめて書いたりしているが、観光の帰りと云った雰囲気でもない。いかにもインド人的に行動して、スチュワーデスを困らせたりしていた。しかも、私の隣に座った人はたばこが嫌いときている。自分が座っている席が喫煙席だという事が分かっていないらしい。
フライトの時間は2時間半くらいで、しかも時差が1時間半あるから、カルカッタは非常に近く感じた。しかし空港で手間取ったから、空港の外に出たときは、もう夜になっていた。
フライト時間はたかだか2時間半でもバンコクとカルカッタでは雰囲気が全く違う。東京からバンコクに入ってもほとんどカルチャーショックはないのだが、やはりインドは別の世界と云う印象が強い。
空港の外の薄暗いオレンジ色の照明に浮かぶオンボロのタクシーの群。 「また、来てしまった。」と口に出してみたが、別に来た事を後悔しているわけではない。
泊まる場所はサダルストリート。安宿街と云われる所である。飛行機で一緒だった三人もサダルストリートに行くということで、カルカッタを知っているという男性が手続きしたプリペイドタクシーでサダルストリートに向かう事になった。空港はまだそれほどでもないが、タクシーが走り出すといかにもインドらしい風景になってくる。カルカッタはすごいと聞いていたが確かにそのようだ。オンボロのバスや車、薄暗くほこりっぽい道、クラクションの音、何のために歩いているのか大勢の人たち。タクシーのヘッドライトは薄暗くて、危ないようである。
さて、タクシーは無事にサダルストリートまで来たが、ここで、お金を払った、いやお金を受け取っていないで、もめることになった。
プリペイドタクシーのシステムはいまだによく分からないのだが、少なくとも運転手は一枚運転手用の紙を持っていなければ、お金はもらえない。ところが運転手はそれを持っていないし、だいいちこの運転手達がプリペイドタクシーのシステムを知っているのかさえ疑わしくなる。さいわい同行の二人は英語ができるので、言い合っていると、通行人も話しに加わってきて、少しいやな雰囲気になる。
それでは空港のプリペイドタクシー窓口に電話してみようという事で、電話を捜して歩き始める。するとポリスマンらしき人がいるので、ちょうど良いとひとりが説明してみるが、警官も面倒には巻き込まれたくはないらしい。それで仕方なく電話をしても、電話はつながらない。
それで、私はもう充分だと思ったから、100Rsを運転手に渡して話を終わらせた。結局、中年のおじさんはそういう役回りになるのだと思う。
インドというのはこういう場所なんだと、インドが初めての人にわかってもらえれば、100Rsは安いものだ。
タクシーの一件が落着したところで、私は彼ら3人と別れた。どうも若い人と一緒ではついていけないような気がするのだ。
それで、私はひとりでホテルを探し始めたが、バンコクの時ほど簡単ではなかった。まず、ガイドブックを見て予定していた宿は見つからず、その後あたった二つのホテルは満室だと断られ、探すのが面倒になって客引きに案内してもらった宿は、サダルストリートから離れた裏町の古びた宿屋。窓はないし暑いしうるさい。しかし、一晩だけとあきらめて泊まることにする。
翌朝、その宿の周囲を歩いてみた。
昨夜は暗かったので、すごく場末の感じがしたが、実際にはそれほどでもない。場所はニューマーケットの裏手で、近くには映画館があったりする。宿の辺りは、いかにも市場と言った感じで、荷物を積んだトラックが出入りしている。
だからといって、このホテルにもう一晩泊まる気は全くないので、サダルストリートから博物館あたりに適当な宿を探して歩いた。
それで見つけたのがホテル・クリスタル。外から見るとしゃれた感じの白い外壁に緑のツタが少し掛かっていて、いい感じである。フロントも現代的なゲストハウス。しかし、よく見れば、階段の絨毯ははがされて、部屋の手入れもあまり良くない。が、なんといっても静かで、3階の部屋は風通しが良く、窓からの景色も悪くない。250Rsでここに泊まることにした。博物館まで10分以下、地下鉄の入り口までも10分以下。
さてカルカッタの博物館は、ずいぶん大きな建物である。中庭を取り巻いて2階建ての石造りの立派な建物。考古学の展示品はデリーに比べても引けを取らない。東インドらしくJAVAの遺跡から持ってきた物なども多数あった。イギリスが植民地支配していた時代にあちこちから運んできた物だろう。
博物館の中庭の噴水は盛大に水を吹き上げていて、風もあって涼しい。10月はじめのカルカッタは結構暑いから、こういった場所はのんびりするにはよい。
地下鉄
地下鉄でカーリーガート駅まで行き、カーリー寺院を見学する。地下鉄は、全線が開通しているようで,DUMDUMまで行けるらしい。しかしDUMDUMと云っても、空港からはずいぶん遠いようだ。駅には切符の自動販売機もあるが、だいたい故障しているから、窓口で切符を買う事になる。
地下鉄は、バスや路上電車に比べるとずっと空いているし、路線が一本しかないので、初心者向きで便利。
カーリー寺院は、カーリーガート駅から西に1kmほどの所にあるこじんまりした寺院だ。ヒンドゥー教の寺院というのはバラナシの有名な寺院もそうだったが、わりに小さい。権威を誇示するために巨大な寺院を建てる必要がないのだろう。土着の信仰であり、国家宗教と云った感じではない。
寺の周囲には花を売る店や、土産物の店などあってにぎわっている。寺の入り口に近づくとバラモンらしい人物がうるさい。うるさいというのは、アーしろコーしろと云って私を案内しようとするのである。その人は身なりも恰幅もよく、あるいは本当にバラモンなのかもしれないが、あとでガイド料を要求されても困るので、一切無視して、自分のペースで参拝する事にする。
まず靴を預ける場所を探すが、履物の預かり場所はあまり良い雰囲気の場所ではないので、花を売る店で5Rsの花を買って靴を預かってもらう。花屋は、外国人相手に金儲けをするバラモン氏?があまり好きではないらしく、私に好意的だったように思う。私が10Rs出したら5Rs返してくれたくらいだし、私の手を水で洗ってくれた。
それから寺院に入って他の人がするように花を投げ入れて、神様を拝んだ。バラモン氏が手首にひもを巻こうとするがそれは断った。インド人でもそんなひもをしている人は少ない。
皆が押し合うようにして拝んでいる神様の像は以外にかわいい顔をしていた。威厳とか厳めしさとか、そういったモノとはずいぶん違った雰囲気である。しかし、愛される感じはある。昔、だっこちゃん人形があったが、そんなかわいらしさである。とにかく、本来のカーリーの恐ろしい女性のイメージとは遠く離れている像であった。
それから、インディアンエアラインにいってカトマンドウのチケットを購入する。案外簡単に翌日のチケットが手に入った。
カルカッタにはあまり興味がなかった。
次にジャイナ教の寺院に行くことにした。しかし、地下鉄の駅はどこで降りたらよいのかよく分からない。適当な駅に降りて歩き始めたが、道を聞いても明確な答えは得られないし、どうもずいぶん遠回りしていたようである。それでも30分以上歩いたあげくにあきらめて、オートリクシャを頼んだら、ほんの少し走った所が目的の寺院だった。
ジャイナ教の寺院もカーリー寺院と同様、こじんまりした感じだが、なかなかお金のかかったきれいな寺院である。これはつまり信者が裕福な階層の人々だという事だろう。
寺院の入り口まで近づくと、例によってガイドらしき若者が寄ってくる。ガイドはお金を要求すると分かっているので、断りながら、適当にあしらって見学させてもらう。
よい大理石をふんだんに使った立派な寺院で、前に見たタイの寺院のような装飾感覚である。しかし、タイよりも仕事はずっと丁寧だ。銀などもふんだんに使われ、宝石も使われているという。
それにしても、像の表情の漫画的にかわいいこと。このようなかわいらしい優しい感じというのはどこから来るモノなのだろうかと思った。
ガイドの若者は断っても付いてくる。あまり悪い奴でもないらしいし、私も勝手が分からないので、適当につき合ってもらう。観光客は少なくて、はっきり観光客と分かるのは私一人くらいだから、写真を買ってくれとかいう男もつきまとうが、それほどしつこくはない。どちらかというと余裕のある穏やかな感じである。私と彼らのやりとりを聞いていて、笑っているおじさんもいて、なごやかである。カーリー寺院の周辺とはすこし土地柄が違うように感じた。
ここにはジャイナ教の寺院が四つあって、当然ながらそれぞれ少しずつ様子が違う。ガイドの青年のおかげで一人では入れそうもない所まで入ることもできたのはラッキーだった。
結局そのガイドは私を地下鉄の駅まで送ってくれて、私はいくらかの金を彼に渡すことになったが、良いガイドだったように思う。