帰国
デリーに向かう列車で居眠りをしていたら風邪がひどくなった。終点のニザーム・ウッディーン駅に着いた頃には頭がボーとしてきたし、鼻水が止まらない。乾季の北インドのほこりっぽい風と排気ガスで喉と鼻をやられていたが、今度は、どうも本格的な風邪かもしれないと感じた。
風邪を拗らせて3日後の帰国の飛行機に乗れなくなってはたいへんだと考えて、落ち着けそうなアショック・ヤトリ・ニバスに泊まる事にした。一泊325RSだから、それ相応ではある。窓ガラスが薄いためか、外の騒音が入ってくるのが気になる。しかし、あまり値段の高くないチケット制のレストランもあるし、売店もあるので便利だ。
翌日、少し熱っぽいのだが、国立博物館に行った。インドに来て最初に見たのがここだったが、全部見たわけでもないので、もう一度時間をかけてゆっくり見てまわった。インドに来てから博物館にはずいぶん立ち寄った。主な博物館だけでもボードガヤ、サルナート、バラナスィのヒンドゥー大学の博物館、カジュラホ、マトラー。別にそこに目新しいものがあることを期待しているわけでもないのだが、それでも博物館に入るのは、たぶん博物館に入ると落ち着くからだと思う。
風邪で関節が痛くなってきたが、風邪薬は使い終わっていた。それで、解熱効果のある頭痛薬を飲んで寝たら、翌日はだいぶん回復していた。あまり食欲がないので果物などを買って来て食べた。ちなみに、その日の買い物の値段は、バナナ5本-8RS、オレンジ6個-10RS、フルーティー(紙パック入りのマンゴジュース)2パック-14RS、スナックス(塩味のクラッカー)1箱-17RS、ミネラルウォーター1リットル-12RS、計61RS。これだけ買っても200円である。
お土産でも買おうと街に出た。
ホテル前にたむろしているオートリクシャの客引きには、閉口する。
だから、オートリクシャに乗る時は、とりあえずホテルや駅から少し歩いて、それからオートリクシャを探すという習慣ができた。それの方が運転手を選びやすいのだ。ただ、オートリクシャの運転手にそう悪い人はいないようだ。中には地方から出てきたばかりで私より町を知らない運転手もいたが、それでも運転手は車を停めて道を聞きながら目的地までなんとかたどりついてくれる。
オートリクシャに比べて、はるかに胡散臭いのはやはり空港のタクシーである。プリペイドタクシーでさえも、指示と違うホテルに連れて行かれたし、昼間のうちなら土産物屋に連れて行こうとする。弱ったものであるが、強く主張すればなんとか目的地には着く。
インドの人はよく「ノープロブレム」と言うが、あの言葉の意味は、「ノープロブレム」と言っている当人にとっては「ノープロブレム」なのだと解釈した方がよいかもしれない。
「あんたにとっては問題なくても、俺にとっては問題なんだ。」と思っていれば、まず間違いはない。
帰国の日。デリーはホリーの祝日である。体調はだいぶん回復したので、タクシーを奮発して見残した名所を見て歩く。クタブ・ミーナールは、イスラムの遺跡で石造りの背の高い塔が立っている。その遺跡の中央にイスラム文化が入る以前の5世紀からあるという巨大な鉄柱が立っている。高さは7m、太さはちょうどひとかかえほどで、1500年以上屋外に立っているのにほとんど錆びていない。
露天に立っているので表面は酸化して黒くなっているのだが、赤錆はほとんど出ていないのだ。学者が5世紀というのだからたぶん本当なのだろうが、今から1500年以上も前にこんなものを作ってしまう技術を持っていたというのは不思議な事であるらしい。もっとも、考えてみれば、それよりさらに3000年前、すでに、デリーから1000Km西のモヘンジョダロには整然とした都市があったわけで、錆びない鉄の柱の一本くらいでそれほど驚く事ではないのかもしれない。
朝の遺跡には、私以外ひとりの観光客もいない。この遺跡はデリーの郊外にあるから、観光バスが来るまではひっそりとしているらしい。少し拍子抜けするくらいである。ここではサンバードやカワセミも見かけた。
それから、もう一度ヒンドゥ教の寺院を見ておこうと思い、今世紀になってから財閥が建てたという新しい寺院に行ってみた。このラクシュミー・ナーラーヤン寺院では、外国人は一度控の部屋に通され、ガイドが案内してくれた。しかし、ここのガイドも歩くのが速い。それで、ガイドについて一回りしてからもう一度ゆっくり見てまわる事にした。この寺院の内装や神像はバラナスィのヒンドゥー大学構内のヴィシュワナート寺院とよく似ていて、白い大理石をふんだんに使った素晴らしいものであった。
寺院の一番奥の美しく飾られた部屋に、すばらしいクリシュナの像があった。横笛を構えたまま、伏し目がちに小首をかしげたクリシュナは、生きているように微笑んでいた。インド人にとって、クリシュナは愛の対象なのだろうと思う。そうでなければ、なぜこのような美しい像を作り、美しい衣装を着せて花で飾るのか理解できない。
この寺院のすぐ隣には、仏陀を祭る寺院があって、参拝するインド人もかなりいた。こちらの寺院には女性の参拝が多いように感じるが、何か理由があるのかもしれない。
街はホリーである。空港に向かうタクシーからも、粉だらけになって満足そうに歩いている人達を見かけたし、空港で飛行機を待つ外国人の中にさえピンク色に染まったままの人達がいた。
北インドを回りながらも、もう一度サイババの所に行きたいという気持ちが何度か沸いた。たぶん、バンガロールがもっと近ければ戻っていただろうと思う。しかし、北インドを回る旅も決して悪くなかった。旅が思いのほか順調であったのは、やはりサイババのおかげなのだろうと思った。
帰りの飛行機は、バンコクを経由するため、乗客にはタイの僧侶の姿も多い。若い人から、年老いた人まで20人くらいいただろうか。待合室で私の前に腰掛けたのは、大柄な白人の僧と小柄な僧である。白人の僧は、60歳くらいだろうか、咳が止まらないらしい。小柄な僧は70歳くらいで、こちらも時々コホッコホッと咳をする。ふたりとも排気ガスにやられたのだろうと思う。しかし、ふたりとも、表情は穏やかで、満足げであった。それが修行によって得られた悟りなのか、仏陀の足跡をたどる事のできた満足感なのかは、わからなかった。ただ、こういった人々が乗る飛行機なら落ちる事はないだろうし、落ちたところで、成仏できそうな気がした。
サイババとはどんな人か、何も結論らしいものはない。しかし、サイババの周囲に溢れている特別な雰囲気が、人々を強く引きつけるものである事は間違いない。その雰囲気はサイババ本人が作り出しているものなのか、アシュラムに集まる人々によって作り出されているものなのか。たぶん両方の相乗効果なのだろう。強力なサイババのバイブレーションによって、そこに集まった人々も音叉が共鳴するように反応しているようだ。このバイブレーションによって人々の心は少しずつ変容してゆくだろう。
また、サイババの登場は、多くの国の人達にインドに対する興味を持たせ、さらに神的な存在について考えを巡らせる機会を与えただけでも充分に意味がある。神的な存在を理解する事はできないし、たぶん理解を超えた存在なのだろう。しかし、神的な何かが存在する事によって、我々の存在にも、単に生まれて死ぬ以上の意味が与えられるのではないかと思う。
そして、神の化身がこの時期にインドに登場する事も決して偶然ではないのだろう。神の化身が現われるのは、人々の無意識がそれをどれだけ望んでいるかによるのだと思う。たとえば、日本にもぽつりぽつりといろいろな新しい教祖が出てくるが、これも日本人の無意識の結晶だと思って、そう間違いではないだろう。そして、現われる教祖の質は、人々の無意識の質によってある程度決まってくるといえるかもしれない。
** 以上で、春の旅の記録を終わります。
デリーに向かう列車で居眠りをしていたら風邪がひどくなった。終点のニザーム・ウッディーン駅に着いた頃には頭がボーとしてきたし、鼻水が止まらない。乾季の北インドのほこりっぽい風と排気ガスで喉と鼻をやられていたが、今度は、どうも本格的な風邪かもしれないと感じた。
風邪を拗らせて3日後の帰国の飛行機に乗れなくなってはたいへんだと考えて、落ち着けそうなアショック・ヤトリ・ニバスに泊まる事にした。一泊325RSだから、それ相応ではある。窓ガラスが薄いためか、外の騒音が入ってくるのが気になる。しかし、あまり値段の高くないチケット制のレストランもあるし、売店もあるので便利だ。
翌日、少し熱っぽいのだが、国立博物館に行った。インドに来て最初に見たのがここだったが、全部見たわけでもないので、もう一度時間をかけてゆっくり見てまわった。インドに来てから博物館にはずいぶん立ち寄った。主な博物館だけでもボードガヤ、サルナート、バラナスィのヒンドゥー大学の博物館、カジュラホ、マトラー。別にそこに目新しいものがあることを期待しているわけでもないのだが、それでも博物館に入るのは、たぶん博物館に入ると落ち着くからだと思う。
風邪で関節が痛くなってきたが、風邪薬は使い終わっていた。それで、解熱効果のある頭痛薬を飲んで寝たら、翌日はだいぶん回復していた。あまり食欲がないので果物などを買って来て食べた。ちなみに、その日の買い物の値段は、バナナ5本-8RS、オレンジ6個-10RS、フルーティー(紙パック入りのマンゴジュース)2パック-14RS、スナックス(塩味のクラッカー)1箱-17RS、ミネラルウォーター1リットル-12RS、計61RS。これだけ買っても200円である。
お土産でも買おうと街に出た。
ホテル前にたむろしているオートリクシャの客引きには、閉口する。
だから、オートリクシャに乗る時は、とりあえずホテルや駅から少し歩いて、それからオートリクシャを探すという習慣ができた。それの方が運転手を選びやすいのだ。ただ、オートリクシャの運転手にそう悪い人はいないようだ。中には地方から出てきたばかりで私より町を知らない運転手もいたが、それでも運転手は車を停めて道を聞きながら目的地までなんとかたどりついてくれる。
オートリクシャに比べて、はるかに胡散臭いのはやはり空港のタクシーである。プリペイドタクシーでさえも、指示と違うホテルに連れて行かれたし、昼間のうちなら土産物屋に連れて行こうとする。弱ったものであるが、強く主張すればなんとか目的地には着く。
インドの人はよく「ノープロブレム」と言うが、あの言葉の意味は、「ノープロブレム」と言っている当人にとっては「ノープロブレム」なのだと解釈した方がよいかもしれない。
「あんたにとっては問題なくても、俺にとっては問題なんだ。」と思っていれば、まず間違いはない。
帰国の日。デリーはホリーの祝日である。体調はだいぶん回復したので、タクシーを奮発して見残した名所を見て歩く。クタブ・ミーナールは、イスラムの遺跡で石造りの背の高い塔が立っている。その遺跡の中央にイスラム文化が入る以前の5世紀からあるという巨大な鉄柱が立っている。高さは7m、太さはちょうどひとかかえほどで、1500年以上屋外に立っているのにほとんど錆びていない。
露天に立っているので表面は酸化して黒くなっているのだが、赤錆はほとんど出ていないのだ。学者が5世紀というのだからたぶん本当なのだろうが、今から1500年以上も前にこんなものを作ってしまう技術を持っていたというのは不思議な事であるらしい。もっとも、考えてみれば、それよりさらに3000年前、すでに、デリーから1000Km西のモヘンジョダロには整然とした都市があったわけで、錆びない鉄の柱の一本くらいでそれほど驚く事ではないのかもしれない。
朝の遺跡には、私以外ひとりの観光客もいない。この遺跡はデリーの郊外にあるから、観光バスが来るまではひっそりとしているらしい。少し拍子抜けするくらいである。ここではサンバードやカワセミも見かけた。
それから、もう一度ヒンドゥ教の寺院を見ておこうと思い、今世紀になってから財閥が建てたという新しい寺院に行ってみた。このラクシュミー・ナーラーヤン寺院では、外国人は一度控の部屋に通され、ガイドが案内してくれた。しかし、ここのガイドも歩くのが速い。それで、ガイドについて一回りしてからもう一度ゆっくり見てまわる事にした。この寺院の内装や神像はバラナスィのヒンドゥー大学構内のヴィシュワナート寺院とよく似ていて、白い大理石をふんだんに使った素晴らしいものであった。
寺院の一番奥の美しく飾られた部屋に、すばらしいクリシュナの像があった。横笛を構えたまま、伏し目がちに小首をかしげたクリシュナは、生きているように微笑んでいた。インド人にとって、クリシュナは愛の対象なのだろうと思う。そうでなければ、なぜこのような美しい像を作り、美しい衣装を着せて花で飾るのか理解できない。
この寺院のすぐ隣には、仏陀を祭る寺院があって、参拝するインド人もかなりいた。こちらの寺院には女性の参拝が多いように感じるが、何か理由があるのかもしれない。
街はホリーである。空港に向かうタクシーからも、粉だらけになって満足そうに歩いている人達を見かけたし、空港で飛行機を待つ外国人の中にさえピンク色に染まったままの人達がいた。
北インドを回りながらも、もう一度サイババの所に行きたいという気持ちが何度か沸いた。たぶん、バンガロールがもっと近ければ戻っていただろうと思う。しかし、北インドを回る旅も決して悪くなかった。旅が思いのほか順調であったのは、やはりサイババのおかげなのだろうと思った。
帰りの飛行機は、バンコクを経由するため、乗客にはタイの僧侶の姿も多い。若い人から、年老いた人まで20人くらいいただろうか。待合室で私の前に腰掛けたのは、大柄な白人の僧と小柄な僧である。白人の僧は、60歳くらいだろうか、咳が止まらないらしい。小柄な僧は70歳くらいで、こちらも時々コホッコホッと咳をする。ふたりとも排気ガスにやられたのだろうと思う。しかし、ふたりとも、表情は穏やかで、満足げであった。それが修行によって得られた悟りなのか、仏陀の足跡をたどる事のできた満足感なのかは、わからなかった。ただ、こういった人々が乗る飛行機なら落ちる事はないだろうし、落ちたところで、成仏できそうな気がした。
サイババとはどんな人か、何も結論らしいものはない。しかし、サイババの周囲に溢れている特別な雰囲気が、人々を強く引きつけるものである事は間違いない。その雰囲気はサイババ本人が作り出しているものなのか、アシュラムに集まる人々によって作り出されているものなのか。たぶん両方の相乗効果なのだろう。強力なサイババのバイブレーションによって、そこに集まった人々も音叉が共鳴するように反応しているようだ。このバイブレーションによって人々の心は少しずつ変容してゆくだろう。
また、サイババの登場は、多くの国の人達にインドに対する興味を持たせ、さらに神的な存在について考えを巡らせる機会を与えただけでも充分に意味がある。神的な存在を理解する事はできないし、たぶん理解を超えた存在なのだろう。しかし、神的な何かが存在する事によって、我々の存在にも、単に生まれて死ぬ以上の意味が与えられるのではないかと思う。
そして、神の化身がこの時期にインドに登場する事も決して偶然ではないのだろう。神の化身が現われるのは、人々の無意識がそれをどれだけ望んでいるかによるのだと思う。たとえば、日本にもぽつりぽつりといろいろな新しい教祖が出てくるが、これも日本人の無意識の結晶だと思って、そう間違いではないだろう。そして、現われる教祖の質は、人々の無意識の質によってある程度決まってくるといえるかもしれない。
** 以上で、春の旅の記録を終わります。