國學院大學博物館。挙手人面土器。東京都渋谷区東。
2024年3月13日(水)。
古墳時代前期の出土だが、人面土器は弥生時代の遺跡に多いので、在地の伝統を引いた系統であろう。
国立新美術館のマティス展を鑑賞後、表参道で下車して、國學院大學博物館へ向かい、卒業式らしい青山学院中等部の横を通過して20分余りで着いた。国内の遺跡を見学すると國學院大學(大場磐雄教授)が関与している事例が散見されたので訪問することにしてみた。
企画展では、埼玉県熊谷市の名家「根岸家」が収集した考古遺物の展示をしていた。昭和3年(1928)、樋口清之博士が創設した「考古学陳列室」が源流で、神道考古学、祭祀遺跡から調査研究が展開されている。大嘗祭などの神道関係の展示も興味深かった。HPにyoutubeによる解説がある。
翳(さしば)形埴輪。円筒形の細長い胴に載った星形の頭。ちょっと怪しくユーモラスなこの土の造形物は、翳形埴輪と呼ばれている。「翳」は「さしば」と読む。貴人の身辺を飾る道具立ての一つで、長い竿の先にうちわが付いた形をしている。貴人がお目見えするとき、畏(おそ)れ多いそのご尊顔(そんがん)の前に従者がそれをさしかける。そんな使い方をした道具で、ルーツは中国だという。(歴博)
エミシの蕨手刀→毛抜形太刀→日本刀。
免田式土器。熊本県球磨郡免田地方の地名にちなんだ弥生時代中期末~古墳時代前期の土器。1918年ころ免田町(現,あさぎり町)本目の源が屋敷(げんがやしき)(本目遺跡という)一帯の畑を水田にするため地下げしたところ,数十~100個余りの完形土器が発見されたという。なかでも多くの長頸壺の胴部に半円(弧)を複数重ねてできた、重弧文(じゆうこもん)の文様が描かれていたところから,重弧文土器と呼ばれていた。37年に源が屋敷から発見された鋸歯文の長頸壺と瓢形(ひさごがた)土器の2個は重要文化財になっている。そろばん形の胴部からラッパ形の長く伸びた首は美術品のような気品を感じさせる。
免田式土器の古い形式は胴部が〈く〉の字状に折れ重弧文を,新しい形式は丸みをもった胴部に鋸歯文を描き,底部はともに丸底である。壺のほか甕,鉢,高坏などの土器や蛤刃状の石斧,石庖丁などを伴い,免田町馬立原(またてばる)の市房隠(いちふさかくれ)遺跡では,小型の支石墓に免田式土器が伴った。免田式土器は免田地方など球磨川流域を中心に,熊本県南部に広く分布し,北は佐賀平野から南は沖縄本島まで及ぶ。
一説には、大和朝廷と敵対していた熊襲(クマソ)の集団が使っていた土器と言われている。
このあと、表参道から三田まで行き、慶応義塾大学博物館を見学した。