7月19日(水)と21日(金)の二日間、不忍池から流れ出ていたという忍川はどこを流れていたのかを知りたくて、東上野・元浅草・小島・鳥越など台東区南部を歩いてきた。
忍川は人工的に造られた川で直角に曲がったりする。何処を流れていたかを歩きながら探るのは難しいと判断して、出掛ける前に流路推定の為に下調べをした。コンピューターソフト「江戸・東京重ね地図」、『旅の達人 全東京地図』、『復元江戸情報地図』に拠ると、不忍池からの放水は、忍川→三味線堀→鳥越川→隅田川と流れていた。その流路のそばには「佐竹商店街」や「おかず横丁」もあることを知り、これは楽しい散歩になると予想された。今日はその見聞記。
ブログ最下段の地図a図は江戸時代の水の流れ。その下の地図b図はその現代版で、流路には青い線を付けた。忍川は不忍池から三味線堀まで流れていた。(1)不忍池の排水口
不忍池の西南に右写真の排水口があった。現在、そこから水はかっての忍川を流れているとは思えないが、ともかくこの辺りが忍川のスタート地点だった。(2)三橋
流れは池を出ると直ぐに「三橋」と呼ばれる橋が架かっていた。現在の、不忍通りと中央通りの交差点「上野四丁目」付近には三本の橋が架かり、江戸市民はその橋を渡って上野のお山へ上っていったとか。右写真の如く『復元江戸情報地図』からも三本の橋が架かっている様子が分かる。“三橋”という地名は現存しないが、上野広小路付近の和菓子処「みはし」はそこから来ている名前とか。(3)三味線掘まで
アメ横を横切り、「忍川橋架道橋」の下を通った。今回の散策で“忍川”の名前に出合った唯一の場所。川は無くなったが、その上をJR線が通っている。昭和通りを潜って抜け、直ぐを右折すると春日通りに出る。その通りを東に進み、清洲橋通りと交差し右折。この通りに沿うように忍川は流れ、三味線堀に達する。
(架道橋下より商店街を見る) (昭和通りは地下的空間を潜る)(4)三味線堀
看板には次の様に書かれていた。「三味線堀は、現在の清洲橋通りに面し、小島1丁目付近の西端に南北に広がっていた。1630(寛永7)年に、鳥越川を掘り広げて造られ、その形状から“三味線堀”と呼ばれた。・・・堀には船着場があり、下肥・木材・野菜・砂利などを輸送する船が隅田川方面から往来していた。しかし明治末期から大正時代にかけて、市街地の整備や陸上交通の整備にともない、次第に埋め立てられていき、その姿を消したのである」と。(写真:佐竹商店街のお店で撮影。三味線堀の絵)
(5)鳥越川
三味線堀から下流は鳥越川。“鳥越”の名は町名にも神社名にも残り、鳥越祭りなどビッグの名前として残っている。清洲橋通りを南下し「おかず横丁」を越えて蔵前通りとの交差を左折し、そのまま真っすぐ進んで隅田川に注いでいた。
忍川は明治年間に暗渠化された。 7月19日は蔵前橋まで歩いて散策終了。江戸の町は水の街であったと改めて思ったのでした。次回ブログは「佐竹商店街」と「おかず横丁」の予定(写真:蔵前橋より上流を望む)
地図a図
地図b図