「江戸時代の謎の絵師写楽とは一体誰であったのか?」をテーマにした、フィクション・ノンフィクションを問わず多数の著作や説があるらしい。本著は小説ながら「写楽とは徳島藩十代目藩主蜂須賀重喜(しげよし)である」との説を明白に主張している。
Wikipediaを見ると「写楽は阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者斎藤十郎兵衛とする説が現在では有力となっている」とある。本著は、東洲斎写楽はお抱えの能役者の方ではなくて、藩主の方であったとの物語である。
物語は佐竹藩留守居役平沢常富(つねまさ)が「耕書堂」の蔦屋重三郎(以下蔦重)に数枚の絵を持ち込む場面から始まる。その中の一枚の、祭りで踊り狂う男の絵に蔦重の目は釘付けになった。その構図の中の、漁師の活き活きした表情や、これまでにない迫力に驚嘆したのであった。蔦重がその絵師の名を尋ねても平沢は容易に答えてくれない。そこで蔦重は自力で、長時間かけて調べた。その結果辿り着いたのが蜂須賀重喜(よししげ)だった。
重喜は久保田新田藩(2万石)藩主佐竹義長の4男として生まれたが、17歳にして徳島藩(25万7千石)の藩主となった。理想に燃えて早急な藩政の改革を行おうとし、家臣団の猛反発を受けて政治的に失敗し、幕府から隠居を命じられていた。
蔦重が平沢を通じて蟄居中の元藩主重富に作絵をお願いすると3つの条件付きで、これを受けてくれた。その条件とは(1)絵師が絶対に重喜と分からないようにすること。(2)万一に備えてごまかしのきく隠れ蓑を作っておくこと。(3)重喜が江戸に出る理由を考えておくこと。この条件を解決する案を重喜公が納得すれば筆を揮ってもよいとの返事。蟄居中の元藩主が絵を描き、その版画が売りに出されるなどという事が公儀に知られては藩取りつぶしになるかもしれない。秘密は絶対に守られねばならなかった。
蔦重が持ち掛け、平沢が取り次ぎ、重喜が乗って来たのである。実はこの3人とも公儀により理不尽な仕打ちにあっていた。公儀に一泡吹かませんかとの蔦重の言葉に重喜は喜んで乗って来たのだ。
絵師の名は東洲斎写楽、影武者絵師は能役者斎藤十郎兵衛にし、歌舞伎役者の首絵を錦絵のみならず増し刷りで売り出すことも認めて、このプロジェクトは、寛政6(1794)年スタートする。
そして・・・。寛政6年5月、黒雲母摺りの、大判28枚の歌舞伎役者の大首絵が完成。6月中旬からは版画も耕書堂で市販され、大人気となった。次いで7月に37枚の役者絵も完成。世間では写楽の正体は分からず「謎の絵師写楽」となる一方、公儀の目は一段と厳しくなってきた。その探索の網をかい潜りながら写楽絵は作られたが、遂には寛政7年1月を境に作品は発表されなくなってしまった。何があったのか?
前半と後半では別人と思えるほどの作品の品質の違い。重喜の心境の変化とともに蔦重の方向転換が詳しく物語られる。この辺りは直接お読みください。
読み終わって感じたこと。
この物語の主人公は絵師・写楽こと蜂須賀重喜ではなく、計画を立て実行を企てた蔦重だと思う。したたかで機知に富んだ蔦重がいきいき活動する描写が素晴らしい。その蔦重「現在写楽は徳島藩のお抱え絵師斎藤重三郎とする説が有力」となっている状態を草葉の陰でほくそ笑んでいることだろう。
野口氏の小説は初めて読んだのだが、軽やかな文体で、特に会話文が軽妙だ。他の作品も読みたいという気にさせる出来栄えだった。