1884(明治17)年3月、東京大学の裏手向ヶ岡弥生町で出土したひとっの壺から「弥生式土器」、「弥生時代」という名前が誕生する。本書では名称誕生の過程が書かれていた。
発見者の1人有坂鉊蔵から向ヶ岡で発見された壺を託された坪井正五郎は、『東洋学芸雑誌』に「帝国大学の隣地に貝塚の跟跡有リ」と題する報告を行い、それから3年経った1892年には、現・西ヶ原貝塚を発掘調査した。その際に、多数出土した、縄文土器とは異なる土器の一群を発見し、それらは向ヶ岡弥生町の貝塚から出土した土器と類似するという認識が生まれ、東京大学人類学教室の面々の間で「弥生式」という愛称が用いられるようになった。(写真:1884年向ヶ岡貝塚で発見された壺)
更には、1896年になって、在野の考古学研究者の蒔田鎗次郎(まいだ そうじろう)が駒込の自宅で発掘した土器を精密に調査記録し、分析成果を『東京人類学会雑誌』に「弥生式土器(貝塚土器二似テ薄手ノモノ)発見二付イテ」の論文として発表し、「弥生式土器」という用語を初めて活字にした。それ以降、弥生式土器(現在名は弥生土器)の名称が学術用語として定着した。
やがて弥生式土器の類例は多くの場所で知られるところとなり、後に弥生式土器が使われたのは縄文時代と古墳時代の間をつなぐ期間を占めることが明らかになって、「弥生時代」の発見に繋がっていった。本書には「弥生時代」の発見は蒔田鎗次郎に負うところが大きいと書かれている。
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