マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

「熱海伊豆山」旅行2日目(瀧山寺 その2)

2019年01月20日 | 

 運慶仏は現在35体が確認されているらしい。その分布図を開きながら、瀧山寺住職から「運慶仏は彼が制作に励んだ奈良を中心とする関西圏と、その後移り住んだ鎌倉を中心とした関東圏に集中しています。そのどちらにも属さないこの瀧山寺に何故運慶仏が存在するのか分かりますか」と問いかけられた。(最下段に運慶仏の分布図)

 住職は懐中電灯で右の家系図を照らしながら語った。
頼朝の母は熱田神宮々司の娘で、頼朝は瀧山寺住職寛傳とは従兄弟の関係だ(瀧山寺には代々熱田神宮から住職が派遣されて来ていた)。頼朝は母の出自を誇りに思っていたから、僧寛傳は頼朝の3回忌に、頼朝の知遇を得ていた運慶(とその息子湛慶)に造仏を依頼した、との話を聞いて、私は瀧山寺に運慶仏が伝わって来た由来を納得した。











 更に更に続く話は、エピソードとしてまとめてみよう。
 エピソード1。真如苑がニューヨークで運慶仏を競り落とした人物が瀧山寺を訪れたことがあった。その人の語るところによれば、真如苑からは3億円で競り落とすことを依頼されていたが、オークション当日に強敵が現れ、競り値はどんどん上がっていった。どうしようか真如苑に相談すると12億円が限度とのこと。その値段より上の13億円直前で相手が降りたので、辛うじて手に入れることが出来た。
 エピソード2。X線撮影は腹部あたりが中心だつた。『瀧山寺縁起』に書かれている頼朝の歯と髪は腹部にあると確信する方が撮影の際念のためと、頭部も撮影した。撮影結果腹部にそれらしきものはなにも無く失望してしまったが、万一にと撮影しておいた頭部の方にその存在が確認された。口元に髪と歯は存在し『縁起』の正確さが確認され、運慶仏と見なされることに繋がっていった。(半蔵門ミュージアムの大日如来坐像にもX線判定が使われている) 
 エピソード3。『縁起』の写し本は一部が墨で塗られていた。そこには”式部僧都寛傳”と書かれていることが辛うじて分かる。廃仏毀釈の折、熱田神宮からみてその6文字はあつてはならい文言。多分消去を命じたことだろう。命じられた側は服さねばならなかっただろうが、必死の抵抗で、塗りはしたものの後世に、その文字が読める様な塗り方をした。(これと似たような事実を18/04/08のブロブに書いた)

 最後に住職から「この地には家光公寄進による、三大東照宮の一つがあります」との話を聞いて妻と私はビックリした。岡崎城の鬼門に当たるこの地に家光が東照宮を建立したそうな。その話を聞いて、私は寛永寺と上野東照宮との役割をこの瀧山寺と瀧山東照宮が果たしているのかと推測した。神仏習合の時代に寺と神社が並列して存在することは珍しくなかった。
 鎌倉時代に瀧山寺は四百十二石の寺領を寄進され財政裕福な一時もあったそうな。
 住職が所用で外出するのと入れ替わりにお内儀が説明をしてくれた。写真集などを買い終えて、今度は三尊を裏からも拝見した。貸し切り状態で、心行くまで拝観出来た。私が観て来た運慶仏からは力強さや意志の強さが見て取れたが、それとは別の、優雅さ漂う運慶三尊仏のあることを知った。女性的雰囲気の仏さま。
 宝物殿を後にし、初めて耳にした東照宮へと急いだ。

 


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