マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

千川上水の”水道”(その1)

2018年05月17日 | 江戸の川・東京の川

 3月28日(水)のお話会では、「六義園の水の出入りと海老床地図」との話をする機会を得た。江戸時代、柳沢邸屋敷の回遊式庭園の中心に位置した大泉水には千川上水からの水が引かれ、そこからの排水は、現在の我が家の裏あたりを流れ、最終的には小石川と合流し神田川に注いでいた、という内容の話だった。
 千川上水に付いては、玉川上水からの分水点境橋を出発点とし、現在の千川上水公園(=掘割)までの、開渠部分についての話が中心だった。掘割から先の地中に埋設された“水道”部分については六義園までで話を終えて、殆ど語らなかったに等しい。
 実はその後色々と調べると、地下を木樋(時に竹樋)で流れていった水道部分にこそ千川上水の真の目的があったことを知らされた。手元にある『千川上水三百年の謎を追う』(著:大松騏一 出版:東銀座出版社)には、千川上水が必要とされた目的が書かれ、『正徳末期の上水図』が記載されている。
 「千川水道」という言葉で掘割から下流の木樋部分を表すことにし、『謎を追う』に導かれながら、千川水道の全体像を紹介したい。今日のブログでは、千川上水の目的を明らかにし、千川水道の全体像を示しておきたい。地図は、本文中の「給水先概略図(元禄~享保期)が見易いのでこちらを用いることにし、下に掲げる。『正徳末期の上水図』は最下段に。
 
 千川上水が開削された1696年には、江戸城下には、既に神田・玉川・青山・三田が巡らされ、人々の暮らしを支えていた。何故新しい上水が必要とされたのか?『江戸上水在絶略記』には概略次の様に伝えている。
 「
初めは、小石川御殿・湯島聖堂・東叡山・浅草御殿への上水である。多摩郡保谷村から玉川上水を引き、巣鴨村まで五里五十四町を堀り割り、庚申塚通りから本郷・湯島・浅草へかかる。仙川村の太兵衛、徳兵衛に開発を仰せ付けられ、仙の字を改めて千川として、両人の姓に賜る」と。

 千川上水開設の第一の目的は幕府にとって重要な施設への給水だった。その地域一円の人々の飲料水に供給されるのは後年のことだった。
 (
A)白山御殿は綱吉公の別荘。現在の小石川公園。
   (B)東叡山は上野寛永寺。江戸城の鬼門に建てられた徳川家の菩提寺。子院三十六坊を数えた大伽藍だった。
 (C)湯島聖堂は孔子を祀る聖堂。綱吉が湯島に移し、幕府の学問所として拡充した。
 (D)浅草寺は「あさくさの観音様」で当時は幕府の祈願所があった。
 (E)六義園については『略記』は触れていない。柳沢吉保にこの地が与えられたのは1695年で、上水が作られた1年前。西巣鴨の元桝から流れ出た上水ののど首をおさえる位置にあり、綱吉お成り御殿が築かれていた。私見だが、ここへの給水も同時に開始されたと思われる。

 千川上水の地図は「東京市史稿上水篇第一」に載っている。お話会で私は「東京都水道歴史館」発行の『玉川上水』を用いたが、千川上水が対象ではないこともあり、千川水道については線が細く見易くはなかった。そこで『謎を追う』から借用した。
 下の
地図には白山御殿への水道は書かれていない。東叡山までは水道は途中で途絶えている、など不可思議に思える点もあるが、それら個別部分については、暫く時を置くことがあるが、今後順次記していきたい。

 

 


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