もう半年以上も前のことになってしまったが、その頃朝日新聞をとっていなかった私に、中学校時代からの友人馬場さんから9月26日の夕刊の切り抜き記事が郵送されてきた。“まちの記憶”と題する連載ものらしく、今回のテーマは『弥生かいわい』で、「土器も まなざしも 漂うロマン」と書かれていた。この近辺をよく散策する私へ、面白いことが書かれていますよ、と知らせてくれたのだった。記事では弥生式土器の出土場所の謎以外に、「弥生美術館」や甘味処「芋甚」なども登場してくるが、弥生式土器に関する部分が特に興味を引いた。
出土の模様については多くの方の知るところとは思うが、概略を記しておこう。
1884年(明治17)年3月、大学予備門生の有坂鉊蔵は、東京大学生坪井正五郎、井上光太郎と共に、東大裏手にあった向ケ丘弥生町の貝塚で、表面に文様のついた、ほぼ完全な赤い土器を見つけた。後に弥生式土器と呼ばれる「第1号」発見の場面だ。
その後、各地で類似の土器が見つかり、縄文土器とは明らかに異なる特徴があり、使われた年代もより新しいことから、これらの土器は、発見された地名にちなんで弥生式土器(現在は「弥生土器」)、土器が使われた時代を「弥生時代」と呼ぶようになった。土器出土の地名の弥生から「弥生時代」が導かれたのだった。 ところがである。土器の正確な出土場所が分からなくなってしまっているそうな。その候補地の5つの中でも特に東大工学部敷地内にある「弥生二丁目遺跡」の可能性が高いとされているが、明大石川日出志教授などは「異人坂」途中の、坂が二つに分岐するあたりを有力視している、と書かれていた。(写真:異人坂。坂がVターンしている箇所)
かって、何度も「異人坂」を上り下りした私は、記事を読んだ次の日の朝、有力視される現場地点を自分の目で確かめたくて、ラジオ体操終了後に異人坂を訪れた。バスを根津駅前で下車し、不忍通りを渡り、上野台地を背にして、本郷台地目指し坂を上り始める。縄文海進の頃はこの坂のどこかまでに海面は上昇して来ていただろうなと想像しながら上った。途中から坂はVターン(Uターンではない)し、根津方向へと戻るように分岐する地点に達した。そのターン場所が有力視されている場所で、本郷台地中ほどの高さにあった。
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