マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

「廓」ゆかりの地を歩く(その2)

2020年06月26日 | 東京散歩

前回からの続き。
 ②𠮷原京町一丁目

 6月20日の散策で、千束稲荷神社から一葉記念館に向おうとして、国際通りを越えた一角を歩いているととき、右写真の「よし𠮷京町一丁目」と書かれた門を見て、自分が立っている位置が𠮷原の一角と気が付いた。𠮷原は現在では台東区千束4丁目となっているが、𠮷原の地理的な面や地形的な面はほとんど知らない私は、知らず知らずのうちに𠮷原を歩いていた。(拡大した写真は最下段に)






 江戸幕府によって公認された遊廓である𠮷原は、明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転し、新吉原と呼ばれたが、今では単に𠮷原。
右の古地図が江戸時代の𠮷原で、その周囲は「お歯黒溝(どぶ)」で囲まれ、遊女たちが逃亡できないように造られていた。この溝の水は音無川から引き入れ、山谷堀へと流していたのではないかと私は推理している。その一角に「京町一丁目」や「二丁目」の文字が見える。

 ③「一葉記念館」は休館中とは知っていたが、その場所を知りたくて訪ねてみた。記念館に隣接する一葉公園ではお年寄りが日向ぼっこしていて長閑な雰囲気。記念館には休館中の張り紙が出されていたが、HPには6月26日(金)から開館とあったので、近々には訪れたいと思っている。





④「𠮷原弁財天」
 記念館のすぐ傍に「𠮷原神社」があり、神社の飛び地として「𠮷原弁財天」があった。1923年9月1日発生した関東大震災で、吉原の遊女らはこの池目指して逃げてきて、490名が焼死したという。吉原は湿地帯であったところを埋め立てて造成したが、池の一部は残され、中島には弁天祠が祀られていた。大震災によって発生した火災から逃れようとした遊女らがこの池に飛び込み、哀れなるかな溺死したそうな。
 “みちのものがたり”には「・・・遊女らの慰霊碑が建てられ、夜の街で働く女性らの参拝が今も絶えない」とあった。作家で僧侶でもある家田荘子さんが毎月供養を続けているとの新聞記事が貼られ、馬場夫妻から送られてきた朝日新聞記事も掲示されていた。
 


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