文京ふるさと歴史館発行の『近代医学のヒポクラテスたち』には文京区にゆかりの小石川養生所・順天堂や森鴎外などが紹介されていた。column記事も豊富で、その中の1つに「文京にあった温泉!?」が載っていた。学芸員・東條幸太郎氏による文で、駒込には草津温泉が、根津には「根津温泉 神泉亭」があったと書かれていた。
『新撰東京名所図会』(第50編1907年)は、駒込蓬莱町六番地(現・向丘2丁目)にあった「元祖草津浴」について、「営業主藤谷彦一郎、上州草津温泉の湯花をうつし浴槽を開く、所謂薬湯なり。客室あり、料理あり、旅館を兼業とす。庭域広大にして(中略)・・・一日の清遊足る」とあった。要するに温泉付きの料理旅館だったのだろう。
ただ当然草津から湯を運搬してきたものではない。湯の花を持ってきて湯に投入したのだろう。ここで思い出すことがある。草津温泉中沢ヴィレッジのログハウスに何度も宿泊していた頃には、この湯の花が必ず準備されていた。一袋入れるだけで湯は白濁した。それだけ草津の湯の花は濃厚で有名だった。
しかし、10数年前のことになるが、信州白骨温泉の温泉源が不都合で湯を供給出来なくなったとき、とある旅館はそれを隠すため草津の湯の花で代用し、テレビで嘘がすっぱ抜かれたことがあった。それ以降ログハウスでは湯の花は使わなくなってしまった。
明治の頃に既に草津の温泉の名前は全国区で、いとせめて湯の花を用い「草津温泉場」を名乗ったのだろう。
右写真は草津温泉場の広告。31個以上の効能や入浴等の利用料金も書かれ、藤谷の名も見える。
この温泉場付近に森鴎外が住んでいた。鴎外の弟森潤三郎著『鴎外 森林太郎伝』には「・・・郁文館の前に草津温泉があって、仕出し料理をするので私達は晩餐には度々取り寄せ、客の時は必ず此処に注文した」とも書かれている。
更には又、明治時代発行の料理店の番付資料には前頭に「コマコメ草津温泉」が入っていることから、草津温泉は料理屋としても評価されていたことが窺われる。
ふと、あることに気が付いた。草津亭のかっての経営者は藤谷氏で、駒込蓬莱町にあった草津温泉場の経営者も藤谷氏。これは偶然ではなく、両温泉場には何らかの繋がりがあったと見るべきだろ。
さて草津温泉場は現在どうなっいるのだろうと「駒込蓬莱町」を訪ねた。