物語の主人公竹内泰郎が幼馴染の北島義人に「相変わらず、逢対も毎日続けておるのか」と訊ねると、義人は「むろんだ」と答えた。
その逢対とは、登城する前の権家、つまり権勢を持つ人物の屋敷に、無役の者が出仕を求めて日参すること。まだ暗いうちから、一刻余りも門前に並びつづけ、十把一絡げに座敷や廊下に通される。そこでまた、登城前の要人が姿を現すのをひたすら待つ。ようやくそのときが訪れても黙って座りつづけ、顔を覚えられ、向こうから声がかかるのを待つのである。その辛抱を義人は十六のときからもう十二年つづけているのだった。
二人は濡れ縁に座り暫し言葉を交わした。
泰郎「まねできんな。おまえの堪え性は」
義人「さほどのことではない。これが俺の武家奉公だ。だから毎日通っている」
泰郎「ほお、武家奉公するための逢対ではなく、逢対そのものが武家奉公というわけか」
義人「当然であろう。家禄をいただいているのだ。なにかをやらねばならん」
いざというときにお役に立てるよう、義人は六阿弥陀で足腰を鍛え、それを十年を越えて続けている。義人に紛れもない武家を見た泰郎は義人の逢対に同行を頼むこととなる。
四日後、下谷山下の鰻屋で二人は会った。義人の話では、若年寄の長坂備後守秀俊がお勧め。長坂備後守は逢対へ訪れる者への応接が良い上、こちらの逢対に限っては出仕が叶うかも知れないとの噂が出ている、とのことだった。
そこで泰郎は義人ともに長坂備後守の上屋敷の門を潜り、初めて逢対を経験した。
その二日後、泰郎の屋敷に備後守からの使いが現れ、備後守が懇談の機会を持ちたいと伝えて来た。屋敷に出向くと、備後守曰く「お主を小十人組に推挙しようと考えておる」。なぜ義人ではなく自分なのだ?訝る泰郎に「お主の本差しを譲って欲しい」と。要するに本差を譲って貰うことの交換条件付き出仕なのだった。
ここからの泰郎の応対が面白い。「あの脇差は我が友北島義人からの借り物でございます。これより下がって、それがしからも伝えおきますゆえ、あらためて北島に出仕をお申し付け願えればと存じます」と、泰郎はチャンスを脇差とともに義人に譲ったのだ。
下谷に戻って、事の次第を話すと、義人は甘えるぞと言った。逢対そのものが武家奉公だと強がり言っていた義人はあつさり逢対をやめ、内心では待ち望んでいた出仕を選んだのだ。泰郎の方が立派に見えるが、著者は、義人の生き方をさもありなんと肯定している。泰郎の出仕がたった1日の逢対で叶ってしまったら、12年も逢対を続け職を得られない義人は報われなさ過ぎる、不公平が過ぎる。読み返しこの結末でホッとした。
私は義人が歩いた六阿弥陀道を歩きたいとも思った。
今日の二葉:千石駅付近のお宅のバラも素晴らしい