物言わぬ昭二の遺体の前で久遠は茫然と立ち尽くしていた。
絶えず頬を伝う涙を拭うこともしなかった。
昭二…俺に何が言いたかったんだ…? 何を知らせに来てくれたんだ…?
冷たくなってしまった昭二の傷だらけの頬を久遠の手がそっと擦った。
甲斐という刑事が久遠を呼びに来て別の部屋で事情を聞かれることになった。
警察は自分を疑っているのかもしれないと久遠は思っていた。
案内された部屋では倉吉という刑事が待っていた。
倉吉はほとんど自失状態の久遠に椅子を勧め、箱ごとティッシュを差し出した。
久遠は無意識に顔を拭き鼻をかんだ。
「お気の毒です…。 被害者とは兄弟のような関係だったそうですな? 」
倉吉は静かにそう訊ねた。
「昭二は俺の乳母の子です。母が早世したので…乳母が俺の母代わりでした。」
久遠は訊かれるままに素直に答えた。
「被害者は…最後に何を伝えたかったのでしょう…大切な兄弟のあなたに…?」
久遠は意外そうな顔をして倉吉を見た。
「俺を疑ってるんじゃないんですか? 見張りまでつけておいて…。 」
そう言って久遠は悲しげな笑みを浮かべた。
「その見張りが犯人はあなたではなかったと証言しているのです。
勿論…あなたが何者かに指示した可能性も残されてはいますが…被害者が脱走したのも殺されたのもすべて何者かがあなたを陥れようとしているのではないかと…それが私の見解です。 」
倉吉はそう言って真っ直ぐに久遠を見つめた。
久遠は目を見張った。久遠の中で何かが反応した。
「あなたは…いえ…そう考えて頂けて嬉しいです。
ずっと疑われているとばかり思っていましたから…。
昭二が何を言いたかったか…残念ながら分かりませんが…昭二のことだからきっと俺を助けようとしたんだと思います。
何からと聞かれても答えようがありませんが…。 」
久遠の目がまた涙ぐんできた。
倉吉は久遠が本当にほとんど何も知らない状態だということに気付いた。
このまま訊き続けても何も目新しいことは引き出せないだろう。
倉吉は久遠をこのまま帰宅させることにした。
護衛のためという名目で倉吉は甲斐を同行させることを久遠に承知させた。
部屋を出る際に倉吉は甲斐に何やら耳打ちした。
警察署の玄関に辿りつくまでの間、久遠は甲斐とは口をきかなかった。
玄関先にまわされた車は久遠のものではなく黒塗りの高級車だった。
久遠は驚いて甲斐を振り返った。
「車は後ほど運びます。 宗主があなたをお待ちです。 」
甲斐は無表情でそう言うと運転手によって開かれた扉の方へ手を差し向けた。
久遠は示されるままに車に乗り込んだ。その隣に甲斐が座った。
黒塗りの高級車は滑るように動き出した。
車は紫峰家の表門をを通り過ぎそのまま道なりに進んでやがて別の門から洋館のポーチのところへと到着した。
甲斐が呼び鈴を鳴らすと玄関の扉が開かれ多喜が愛想よく二人を向かえた。
居間の方へ…と多喜が言うのを聞いて甲斐は頷き久遠の前に立って進んだ。
甲斐の動きを見ればこの刑事が紫峰の手の者だということは一目瞭然だった。
とすれば…あの倉吉や岬は…?
パチパチとパソコンのキーを軽快に叩く音が響いてきた。
居間の大窓の際にある文机で仕事をしているらしい修の姿が甲斐の背中越しに垣間見えた。
「宗主…お連れしました。 お召しがあれば倉吉もすぐに参上するそうです。」
甲斐が畏まってそう報告した。
「ご苦労さま。 倉吉には後で連絡をすることにしよう。
甲斐…久遠と少し個人的な話しがしたい。 きみはしばらく席をはずしてくれ。」
パソコンから顔も上げずに修がそう答えると甲斐は丁寧に頭を下げて居間を出て行った。
修はぼーっと突っ立ている久遠にソファを勧めた。
久遠は言われるままに腰を下ろした。
テーブルの上には焼き菓子などが用意され、紅茶と珈琲がポットの中で出番を待っていた。
「どこにいても…仕事に追われる。 あの旅はいい骨休めだったよ…。 」
修は久遠に顔を向けることなくそう言った。
「毎日出勤しているわけじゃないのか…? 」
不思議そうに久遠が訊ねた。
「いつもなら当然出勤してるさ…。 時々はここで仕事することもあるけど…。
このパソコンと執務室のパソコンが組んであってどちらでも仕事ができるようにしてあるんだ。
ここに座ったら出勤しているのと同じこと…対外的な仕事がない日なら在宅勤務も可能って訳だ。
そんな日…本当はめったにないけどね…。 」
修はそう言って笑った。
「お偉いさんは椅子に座って書類に判子ついてりゃいいのかと思ってたぜ…。」
久遠は半ば冗談交じりに言った。
切りがいいのか修は立ち上がって久遠のいるソファの方へとやってきて座った。
ポットを取り上げるとふたり分のコーヒーをカップに注ぎ久遠に勧めた。
久遠は何気なくカップを口元まで運んで急にそのまま動きを止めた。
カップを持つ手が少し震えていた。
「俺も…磨いてみたかった…。」
そう呟いてひとくちだけコーヒーを飲んだ。
カップをソーサーの上に置いた途端涙が溢れ出した。
「昭二という原石を…磨いてやりたかった…。
おまえの話を聞いて思ったんだ…。
戻ってきたらあいつの夢だった星の研究を…好きなだけやらしてやろうと…。
齢だからって諦めていたあいつに…。
俺のため…俺と一緒に働いたためにこんな齢になってしまったあいつに…。
もう一度夢を追わせてやりたかった…。 」
泣いても悔やんでも…もうどうすることもできない…昭二たちの最初の動きを察した時に身体を張ってでも止めるべきだった。
城崎に帰りたい気持ちはあるけれど瀾を殺したいとは思わない。
瀾は馬鹿なやつだが俺にとってはたったひとりの弟なんだ…。
はっきり言えばよかった…。
親父の許に帰れなくても…おまえたちと暮らせればそれで幸せなんだと…。
それ以前に…どんな苦境に立たされていても城崎の家を出るべきではなかった。自分が家を出たために自分を慕ってついてきた者たちがどれほど酷い思いをしていることか…。
父親に疑われていようと…どう思われていようと…自分さえそれを堪えたなら、瀾は大切な母親を失うこともなかったし、昭二も死なずに済んだのだろう。
警察に捕まっている連中だって罪を犯す必要も無かったのだ。
「すべては俺が招いたこと…。 俺の愚かさが皆を不幸にしてしまった。 」
修に出会うまで20年近くの間、自我のすべてを抑え付け、何もかもを胸に収め、寡黙に艱難辛苦に堪えてきた男は、いま堰を切ったように本心を語り続けた。
久遠が思うことのすべてを吐き出して落ち着くまで修はじっと耳を傾けた。
何人もの久遠を大切に想う取り巻き連中に囲まれていながらも、久遠はきっと常に孤独だったのだろう。
兄弟とも思う昭二にさえ、本音を打ち明けることができなかったのだから…。
修自身を振り返ってみれば…やはり自分は本当に幸せなんだ…と感じた。
修は時々雅人に本音を吐くし…笙子に甘えもする。
誰にも言えず隠し持っているものは確かにあるけれど、修にそういう部分があるということを誰もが知っている。
何年か前までは修も孤独だった。
生き延びるために口を閉ざし、心を閉ざし、誰に何を打ち明けることもなく久遠と同じように自分ひとりの胸に収めてきた。
久遠と異なるのはそうした自分を他人には気取られないようにしてきたこと。
感情のすべてを紫峰奥儀伝授者の仮面の下に覆い隠し生身の修を眠らせた。
周りもそういう修を孤高の伝授者として扱い人間修を無視し続けた。
それを思えば久遠はあまりに純粋…生身で在り過ぎる。
口を閉ざして微笑んで見せても、不幸と逆境に健気に堪える姿を目の当たりにした兄貴想いの仲間たちの心が動じぬはずはない。
そうは言っても修も仮面と鎧を脱ぎ捨てた姿を全く見せなかったわけではない。
笙子という腹心の友の前では等身大の修に戻り…父親代理としてはいくつもの芽を温かく育み…その芽がいまや修の力となり相談相手にさえなってくれている。
他の者にだって時折は覗かせた。
但し悲劇のヒーローの姿ではなく、憎めない子供のような悪戯っぽい一面を…。
だから紫峰一族の者は修の苦労や何やらを想像して気の毒にと思いやるに止まり、修が命令しない限り感情的に勝手に先走って人を殺そうとまではしない。
「久遠…。 いつまで樋野に遠慮をしている? 長い年月を身を粉にして働いて…おまえは十分樋野に貢献してきた筈だろう? 」
久遠が吐き出したいだけ思いを吐き出させた後で修は穏やかに言った。
久遠が大きく目を見開いて修を見つめた。
「僕は…おまえと違って…多少不真面目というか…どこかずっこけたところが在るらしくてね…。
生きることには真剣だけれども…生きる姿なんて気にしない。
まともなこともすればあほなことも当然やらかす。
理想の型にはめられた好人物なんかじゃないし…それを演じるつもりもない。
僕の周りの連中は僕の強さを知っているけれど弱さも知っている。
とんでもなく馬鹿なことを突然やりたがる子供みたいな男だってことも…。
良いところも悪いところも全部ひっくるめて僕という人間を見ている。
そう…僕は完璧なヒーローには全然なれない男で…当たり前の普通の人間なんだってことを隠したりしないからさ…。 」
えっ…?と久遠は思った。
修はにんまりと笑った。
「度を越した浮気性の女房の尻に引かれている気の毒な男なんてのは僕に関する噂の中じゃ可愛い方だ。
そのせいで僕自身が何人も恋人を作ってそれが全部男ばかりってのもある。
理由は女房が怖くて他の女と遊べないからだってさ…。
お蔭で一族がわざわざ内妻を選んで派遣してきた。
笑っちゃうだろ…?
…てな具合にさんざんなこと言われても別にどうということはない。
その噂を逆手にとれば…僕はどれほど恐妻家であっても構わないわけだし…好きなだけ恋人とも楽しめる…相手が本当に男でも…。 」
修は可笑しそうに笑い続ける。
久遠は修の真意を測りかね押し黙った。
噂を逆手にとる…そのくらいの度量を持てとでも言うのか…?
いや…そうじゃない…ヒーロー像…理想の型…型…。
「俺に…俺自身を叩き壊せと…?
今まで樋野で築き上げた俺のイメージを破壊しろと言うのか…? 」
久遠は愕然とした。
真面目で努力家で働き者で役に立つ男…親切で思いやりが深く恩のある樋野のためには力を惜しまない。
そのイメージを作り上げるのにどれほどの歳月を要したか…どれほど苦汁を舐めたことか…。
樋野で得た現在の地位はその苦労がやっと実ってのこと…できるわけがない。
「そのイメージが昭二を殺した原因でもか…? 」
俄かに修の表情が厳しくなった。
今までとは打って変わって宗主の顔になっている。
「その悲劇のヒーロー然とした姿…その姿に振り回された昭二や他の仲間たちがおまえのために命懸けで馬鹿なまねをした。
おまえの苦しみも悲しみも本物だしおまえが樋野で今の地位を築くために血を吐くような思いをしたことも僕には分かる。
だからっておまえがその姿のままじゃこんな思いをして地位を得ても久遠はやっぱり帰りたいんだと思うさ…。
瀾のことが気に障ったのなら樋野に遠慮することなく瀾に会いに行くか呼び出してビンタの一発でもかまして意見してやれば昭二たちの気持ちも治まったんだ。
おまえが黙って我慢しているから変な方向へことが進んだ。 」
久遠の身体がガタガタと震えだした。
かまうことなく修は続けた。
「僕はある意味冷酷な男で必要とあればはっきりものを言う主義だ。
ただの下っ端ならともかく長たるものに対して同情からおまえのせいじゃないよなんて…いい加減なことはそう簡単には言わない。
責任の一端はおまえにある…。 だからおまえは償うべきなんだ。 その生き方で…。
利用されているのが分からないのか?
誰にだ…?って…それはまだ分からん。
それを知るためにおまえを連れてこさせたんだから。 」
責任は長たる者にある…それは幼い頃から父親に叩き込まれた心得のひとつ。
久遠は自分の中でふたつの心が鬩ぎあっているのを感じていた。
樋野の分家とは言え一家の長として責任のすべてを負う覚悟はいつでもできている…それが作り上げたイメージどおりの優等生の久遠。
違う…おまえのせいじゃない…おまえは何もしていない…これだけ苦しんだおまえに何の責めがあるというのだ…そう誰かに言ってもらいたがっているもうひとりの久遠。
どちらも本物で決して消すことのできない自分自身…。
「悩むな…。 どんなおまえもおまえなんだってことを受け入れろ。
人間な…いい面ばっかり晒してたら疲れるだけだ。
いくら他人の受けが良くったって全然幸せじゃない。
おまえが幸せなら昭二は動かなかったはずだ…。 」
優等生面した不幸せな久遠…その久遠の姿を見て仲間が動き…結果…そのことを誰かに利用されている…?
何のために…何が起ころうとしている…?
それをこれから探るのさ…。
そう答えて修は修自身の顔でにやっと笑った…。
次回へ
絶えず頬を伝う涙を拭うこともしなかった。
昭二…俺に何が言いたかったんだ…? 何を知らせに来てくれたんだ…?
冷たくなってしまった昭二の傷だらけの頬を久遠の手がそっと擦った。
甲斐という刑事が久遠を呼びに来て別の部屋で事情を聞かれることになった。
警察は自分を疑っているのかもしれないと久遠は思っていた。
案内された部屋では倉吉という刑事が待っていた。
倉吉はほとんど自失状態の久遠に椅子を勧め、箱ごとティッシュを差し出した。
久遠は無意識に顔を拭き鼻をかんだ。
「お気の毒です…。 被害者とは兄弟のような関係だったそうですな? 」
倉吉は静かにそう訊ねた。
「昭二は俺の乳母の子です。母が早世したので…乳母が俺の母代わりでした。」
久遠は訊かれるままに素直に答えた。
「被害者は…最後に何を伝えたかったのでしょう…大切な兄弟のあなたに…?」
久遠は意外そうな顔をして倉吉を見た。
「俺を疑ってるんじゃないんですか? 見張りまでつけておいて…。 」
そう言って久遠は悲しげな笑みを浮かべた。
「その見張りが犯人はあなたではなかったと証言しているのです。
勿論…あなたが何者かに指示した可能性も残されてはいますが…被害者が脱走したのも殺されたのもすべて何者かがあなたを陥れようとしているのではないかと…それが私の見解です。 」
倉吉はそう言って真っ直ぐに久遠を見つめた。
久遠は目を見張った。久遠の中で何かが反応した。
「あなたは…いえ…そう考えて頂けて嬉しいです。
ずっと疑われているとばかり思っていましたから…。
昭二が何を言いたかったか…残念ながら分かりませんが…昭二のことだからきっと俺を助けようとしたんだと思います。
何からと聞かれても答えようがありませんが…。 」
久遠の目がまた涙ぐんできた。
倉吉は久遠が本当にほとんど何も知らない状態だということに気付いた。
このまま訊き続けても何も目新しいことは引き出せないだろう。
倉吉は久遠をこのまま帰宅させることにした。
護衛のためという名目で倉吉は甲斐を同行させることを久遠に承知させた。
部屋を出る際に倉吉は甲斐に何やら耳打ちした。
警察署の玄関に辿りつくまでの間、久遠は甲斐とは口をきかなかった。
玄関先にまわされた車は久遠のものではなく黒塗りの高級車だった。
久遠は驚いて甲斐を振り返った。
「車は後ほど運びます。 宗主があなたをお待ちです。 」
甲斐は無表情でそう言うと運転手によって開かれた扉の方へ手を差し向けた。
久遠は示されるままに車に乗り込んだ。その隣に甲斐が座った。
黒塗りの高級車は滑るように動き出した。
車は紫峰家の表門をを通り過ぎそのまま道なりに進んでやがて別の門から洋館のポーチのところへと到着した。
甲斐が呼び鈴を鳴らすと玄関の扉が開かれ多喜が愛想よく二人を向かえた。
居間の方へ…と多喜が言うのを聞いて甲斐は頷き久遠の前に立って進んだ。
甲斐の動きを見ればこの刑事が紫峰の手の者だということは一目瞭然だった。
とすれば…あの倉吉や岬は…?
パチパチとパソコンのキーを軽快に叩く音が響いてきた。
居間の大窓の際にある文机で仕事をしているらしい修の姿が甲斐の背中越しに垣間見えた。
「宗主…お連れしました。 お召しがあれば倉吉もすぐに参上するそうです。」
甲斐が畏まってそう報告した。
「ご苦労さま。 倉吉には後で連絡をすることにしよう。
甲斐…久遠と少し個人的な話しがしたい。 きみはしばらく席をはずしてくれ。」
パソコンから顔も上げずに修がそう答えると甲斐は丁寧に頭を下げて居間を出て行った。
修はぼーっと突っ立ている久遠にソファを勧めた。
久遠は言われるままに腰を下ろした。
テーブルの上には焼き菓子などが用意され、紅茶と珈琲がポットの中で出番を待っていた。
「どこにいても…仕事に追われる。 あの旅はいい骨休めだったよ…。 」
修は久遠に顔を向けることなくそう言った。
「毎日出勤しているわけじゃないのか…? 」
不思議そうに久遠が訊ねた。
「いつもなら当然出勤してるさ…。 時々はここで仕事することもあるけど…。
このパソコンと執務室のパソコンが組んであってどちらでも仕事ができるようにしてあるんだ。
ここに座ったら出勤しているのと同じこと…対外的な仕事がない日なら在宅勤務も可能って訳だ。
そんな日…本当はめったにないけどね…。 」
修はそう言って笑った。
「お偉いさんは椅子に座って書類に判子ついてりゃいいのかと思ってたぜ…。」
久遠は半ば冗談交じりに言った。
切りがいいのか修は立ち上がって久遠のいるソファの方へとやってきて座った。
ポットを取り上げるとふたり分のコーヒーをカップに注ぎ久遠に勧めた。
久遠は何気なくカップを口元まで運んで急にそのまま動きを止めた。
カップを持つ手が少し震えていた。
「俺も…磨いてみたかった…。」
そう呟いてひとくちだけコーヒーを飲んだ。
カップをソーサーの上に置いた途端涙が溢れ出した。
「昭二という原石を…磨いてやりたかった…。
おまえの話を聞いて思ったんだ…。
戻ってきたらあいつの夢だった星の研究を…好きなだけやらしてやろうと…。
齢だからって諦めていたあいつに…。
俺のため…俺と一緒に働いたためにこんな齢になってしまったあいつに…。
もう一度夢を追わせてやりたかった…。 」
泣いても悔やんでも…もうどうすることもできない…昭二たちの最初の動きを察した時に身体を張ってでも止めるべきだった。
城崎に帰りたい気持ちはあるけれど瀾を殺したいとは思わない。
瀾は馬鹿なやつだが俺にとってはたったひとりの弟なんだ…。
はっきり言えばよかった…。
親父の許に帰れなくても…おまえたちと暮らせればそれで幸せなんだと…。
それ以前に…どんな苦境に立たされていても城崎の家を出るべきではなかった。自分が家を出たために自分を慕ってついてきた者たちがどれほど酷い思いをしていることか…。
父親に疑われていようと…どう思われていようと…自分さえそれを堪えたなら、瀾は大切な母親を失うこともなかったし、昭二も死なずに済んだのだろう。
警察に捕まっている連中だって罪を犯す必要も無かったのだ。
「すべては俺が招いたこと…。 俺の愚かさが皆を不幸にしてしまった。 」
修に出会うまで20年近くの間、自我のすべてを抑え付け、何もかもを胸に収め、寡黙に艱難辛苦に堪えてきた男は、いま堰を切ったように本心を語り続けた。
久遠が思うことのすべてを吐き出して落ち着くまで修はじっと耳を傾けた。
何人もの久遠を大切に想う取り巻き連中に囲まれていながらも、久遠はきっと常に孤独だったのだろう。
兄弟とも思う昭二にさえ、本音を打ち明けることができなかったのだから…。
修自身を振り返ってみれば…やはり自分は本当に幸せなんだ…と感じた。
修は時々雅人に本音を吐くし…笙子に甘えもする。
誰にも言えず隠し持っているものは確かにあるけれど、修にそういう部分があるということを誰もが知っている。
何年か前までは修も孤独だった。
生き延びるために口を閉ざし、心を閉ざし、誰に何を打ち明けることもなく久遠と同じように自分ひとりの胸に収めてきた。
久遠と異なるのはそうした自分を他人には気取られないようにしてきたこと。
感情のすべてを紫峰奥儀伝授者の仮面の下に覆い隠し生身の修を眠らせた。
周りもそういう修を孤高の伝授者として扱い人間修を無視し続けた。
それを思えば久遠はあまりに純粋…生身で在り過ぎる。
口を閉ざして微笑んで見せても、不幸と逆境に健気に堪える姿を目の当たりにした兄貴想いの仲間たちの心が動じぬはずはない。
そうは言っても修も仮面と鎧を脱ぎ捨てた姿を全く見せなかったわけではない。
笙子という腹心の友の前では等身大の修に戻り…父親代理としてはいくつもの芽を温かく育み…その芽がいまや修の力となり相談相手にさえなってくれている。
他の者にだって時折は覗かせた。
但し悲劇のヒーローの姿ではなく、憎めない子供のような悪戯っぽい一面を…。
だから紫峰一族の者は修の苦労や何やらを想像して気の毒にと思いやるに止まり、修が命令しない限り感情的に勝手に先走って人を殺そうとまではしない。
「久遠…。 いつまで樋野に遠慮をしている? 長い年月を身を粉にして働いて…おまえは十分樋野に貢献してきた筈だろう? 」
久遠が吐き出したいだけ思いを吐き出させた後で修は穏やかに言った。
久遠が大きく目を見開いて修を見つめた。
「僕は…おまえと違って…多少不真面目というか…どこかずっこけたところが在るらしくてね…。
生きることには真剣だけれども…生きる姿なんて気にしない。
まともなこともすればあほなことも当然やらかす。
理想の型にはめられた好人物なんかじゃないし…それを演じるつもりもない。
僕の周りの連中は僕の強さを知っているけれど弱さも知っている。
とんでもなく馬鹿なことを突然やりたがる子供みたいな男だってことも…。
良いところも悪いところも全部ひっくるめて僕という人間を見ている。
そう…僕は完璧なヒーローには全然なれない男で…当たり前の普通の人間なんだってことを隠したりしないからさ…。 」
えっ…?と久遠は思った。
修はにんまりと笑った。
「度を越した浮気性の女房の尻に引かれている気の毒な男なんてのは僕に関する噂の中じゃ可愛い方だ。
そのせいで僕自身が何人も恋人を作ってそれが全部男ばかりってのもある。
理由は女房が怖くて他の女と遊べないからだってさ…。
お蔭で一族がわざわざ内妻を選んで派遣してきた。
笑っちゃうだろ…?
…てな具合にさんざんなこと言われても別にどうということはない。
その噂を逆手にとれば…僕はどれほど恐妻家であっても構わないわけだし…好きなだけ恋人とも楽しめる…相手が本当に男でも…。 」
修は可笑しそうに笑い続ける。
久遠は修の真意を測りかね押し黙った。
噂を逆手にとる…そのくらいの度量を持てとでも言うのか…?
いや…そうじゃない…ヒーロー像…理想の型…型…。
「俺に…俺自身を叩き壊せと…?
今まで樋野で築き上げた俺のイメージを破壊しろと言うのか…? 」
久遠は愕然とした。
真面目で努力家で働き者で役に立つ男…親切で思いやりが深く恩のある樋野のためには力を惜しまない。
そのイメージを作り上げるのにどれほどの歳月を要したか…どれほど苦汁を舐めたことか…。
樋野で得た現在の地位はその苦労がやっと実ってのこと…できるわけがない。
「そのイメージが昭二を殺した原因でもか…? 」
俄かに修の表情が厳しくなった。
今までとは打って変わって宗主の顔になっている。
「その悲劇のヒーロー然とした姿…その姿に振り回された昭二や他の仲間たちがおまえのために命懸けで馬鹿なまねをした。
おまえの苦しみも悲しみも本物だしおまえが樋野で今の地位を築くために血を吐くような思いをしたことも僕には分かる。
だからっておまえがその姿のままじゃこんな思いをして地位を得ても久遠はやっぱり帰りたいんだと思うさ…。
瀾のことが気に障ったのなら樋野に遠慮することなく瀾に会いに行くか呼び出してビンタの一発でもかまして意見してやれば昭二たちの気持ちも治まったんだ。
おまえが黙って我慢しているから変な方向へことが進んだ。 」
久遠の身体がガタガタと震えだした。
かまうことなく修は続けた。
「僕はある意味冷酷な男で必要とあればはっきりものを言う主義だ。
ただの下っ端ならともかく長たるものに対して同情からおまえのせいじゃないよなんて…いい加減なことはそう簡単には言わない。
責任の一端はおまえにある…。 だからおまえは償うべきなんだ。 その生き方で…。
利用されているのが分からないのか?
誰にだ…?って…それはまだ分からん。
それを知るためにおまえを連れてこさせたんだから。 」
責任は長たる者にある…それは幼い頃から父親に叩き込まれた心得のひとつ。
久遠は自分の中でふたつの心が鬩ぎあっているのを感じていた。
樋野の分家とは言え一家の長として責任のすべてを負う覚悟はいつでもできている…それが作り上げたイメージどおりの優等生の久遠。
違う…おまえのせいじゃない…おまえは何もしていない…これだけ苦しんだおまえに何の責めがあるというのだ…そう誰かに言ってもらいたがっているもうひとりの久遠。
どちらも本物で決して消すことのできない自分自身…。
「悩むな…。 どんなおまえもおまえなんだってことを受け入れろ。
人間な…いい面ばっかり晒してたら疲れるだけだ。
いくら他人の受けが良くったって全然幸せじゃない。
おまえが幸せなら昭二は動かなかったはずだ…。 」
優等生面した不幸せな久遠…その久遠の姿を見て仲間が動き…結果…そのことを誰かに利用されている…?
何のために…何が起ころうとしている…?
それをこれから探るのさ…。
そう答えて修は修自身の顔でにやっと笑った…。
次回へ