徒然なるままに…なんてね。

思いつくまま、気の向くままの備忘録。
ほとんど…小説…だったりも…します。

最後の夢(第四十八話 鬼の気持ち)

2005-12-07 23:40:29 | 夢の中のお話 『失われた日々』
 久遠はついに伯父夫婦に別れを告げ樋野での生活に終止符を打った。
もはや長年に亘って培ってきた樋野での人望にも地位にも未練はなく、ただ昭二との約束を果たすことだけが胸の内にあった。

 伯母の涙に送られて帰途についた久遠の車が自宅近くの上り坂に差し掛かったときに前方で何かが破裂するような音を聴いた。

 坂の上から自宅の方を見下ろした久遠は目の前に展開した光景に目を疑った。
車を降りた久遠はこの信じがたい状況にただ茫然と自分の屋敷を見つめていた。

 屋敷は紅蓮の炎に包まれ、まるで久遠の存在そのものを焼き尽くすかのように激しく燃え盛っていた。

 屋敷の方へ歩いていこうとする久遠を甲斐が引き止めた。
こうまで俺を踏みにじるか…。
20年近くもの間樋野のために身も心も尽くしてきた俺を…。
久遠の中に潜む夜叉が疼きだした。

 爆発音や柱の倒れる音が響く中…久遠は全身にその虐げられた記憶を呼び覚まさせた。
封印したおぞましい記憶さえ…躊躇うこともなく…再び久遠の身体に甦らせた。
昭二…俺は怒りと憎しみのすべてを俺の中に解き放つ…。

 急激に解放された記憶による衝撃からか久遠は突然その場に崩れ落ちた。
甲斐は久遠を抱き上げ車に乗せると急ぎその場を離れた。

 炎はすべてを嘗め尽くし、その勢いは天まで焦がさんばかりだったが、やがて轟音と共に久遠の住まいだった屋敷は焼け落ちて後には黒い灰ばかりが残った。
  


 庭園の添水の音が響き、梅のほころびかけた蕾が今朝ほど降った名残の雪の中から顔を覗かせていた。
時折流れてくる謡のような調べは舞の教室のものだろうか…今日は一般向けの教室の日だから…。
洋館の客間の窓を開けて大きく息を吸い込みながら修はそんなことを思った。
 この洋館は林の中に建っていて周りが静かなせいか風向きによっては時々母屋の方から音が流れてくることがある。
途切れ途切れに聞こえるあれは…史朗の声かも知れない…。

 ベッドの中で久遠が大きく動く気配がして修は振り向いた。
薄目を開けてぼんやりこちらを見ているがまだはっきりとは目覚めていないようだ。

 「ここ…どこ? 」

久遠がかすれた声で訊ねた。

 「紫峰の洋館だ…。 ひどい目に遭ったな…。 」

修は穏やかにそう答えた。

 「樋野に別れを告げたんだ…。 今までのことを考えれば当然といえば当然の仕打ちかもしれない…。 俺が樋野の酷さを忘れようとしてただけで…。 」

久遠は何を見るでもなく天井に目を向けた。

 「修…俺の中にいる鬼が…とうとう目を覚ましちまった。
生涯…眠らせておこうと思っていたが…無理だったようだ…。 」

久遠は小さな溜息を漏らした。

 「鬼は誰の心の中にもいる…。 僕も抑えるのに苦労しているひとりだ。」

ベッドの横の椅子に腰掛けながら修は言った。

 「期待なんかしていなかった…。 城崎を出て樋野に身を寄せた時も城崎の血が歓迎されるわけもないことは分かっていたんだ…。
だけど…俺という人格をあそこまで否定されるとは思っても見なかった…。

 修…おまえはどうやって克服した…あの12の時の屈辱を…?
俺は…記憶を封じ込めてしまうしかなかった…。
仲間を追い出すとまで言われれば…耐えるしかなかった。
俺もまだ子どもだったからな…。

 愛って感情があったわけじゃない。やつが男好きだったわけでもない。
城崎の血を引く俺をなぶり者にして苦しめたかっただけだ。
 辱めて服従させて自分に忠誠を誓わせたいだけ…支配したいだけ…。
やつにその趣味がない分一度だけで済んだのが幸いだった。
 昭二だけが気付いて…俺のために泣いてくれた…。 」

 久遠は淡々と甦らせた記憶を語った。
久遠があの宿の部屋で修の記憶を読んだ折に涙したのはそのせいだったのかと修は思った。

 「克服なんか…してないよ…。 未だにへこんだままさ…。
だけど…僕は僕をやった男のために人生を暗く過ごすなんて真っ平御免だね。
やつのこと考えるだけ時間の無駄…考えなきゃならんことは他に山ほどあるんだ。」

 修はそう言って笑った。
久遠はそうか…というように頷いた。

 「俺も考えないようにしていた。 生きるのに忙しくてな…。
忘れてしまえばいいことだと…そう思って封印した。

 伯父は普段は本当に優しくていい人だったが…二重人格だ。
それ以来ふたりっきりにはならないようにしていたし、伯母がずっと間に入って護ってくれていた。

愚痴を言えば数限りないが…今はすべて過去のことだ…。 」

 久遠はそう言って起き上がった。
表面上は穏やかそうに見えて、久遠の中で渦巻いている怒りはまさに一触即発。
少しばかり余裕が必要だな…と修は感じた。

 「すぐに城崎の家に帰るのもいいが…少しここでのんびりして行け…。
今のおまえは張り詰めた糸だ。 何かあればすぐに切れる。 
そんな状態では城崎に帰っても何の役にも立たない。 
 仕事先にはここから通えばいい。 なあに鬼が引っ込むまでの少しの間…さ。
この屋敷には変わった連中が出入りするから退屈しないぜ…。 」

 修は久遠に紫峰への逗留を勧めた。
おまえが一等変わってるよ…と久遠は思った。



 謡の調べがひと際大きく聞こえるようになった。
教室を終えて史朗が戻ってきたのだろう。部屋で稽古を始めた気配がする。
その節まわしから修がまだ見ていない舞のように思える。

 そっと部屋に入っていくと史朗は春の舞を復習っているところだった。
雪解け水…蕗の薹…猫柳…そんな情景が浮かんでくる。

 「これは…『萌え』…春の舞です…。 」

史朗は修に一礼してそう言った。

 「新しい生命の息吹…雪解けの朝の穏やかな春陽の中に芽生えた命の強さと輝かしさを詠ったものです。 」

 春の舞か…春を舞うにしては今日の史朗の表情が何処となく翳りを帯びているのはなぜなのか…。

 「眠ってないのか…史朗…? 仕事との両立が大変なのは分かるが…眠る時間もないのか…? 」

そう訊かれて史朗は首を横に振った。

 「時間のこともありますが…祭祀舞の文書化が上手くいかなくて…。
現代の人に伝えやすくするにはどうしてもマニュアルが必要なのに…。

 舞って表現するのはできるけれど…この舞を文書に表すことが僕には…。
祭祀の文書化を続けている本家の孝太さんの努力には心から敬意を表しますよ。」

史朗は溜息をつきながら長椅子の上に腰を下ろした。

 「彰久さんが映像化を考えているよ。勿論撮影のプロの腕を借りてのことだ…。
信頼できる人に仕事を任せるのは恥かしいことじゃない。

 その仕事…隆平にやらせてみなさい。
あいつは学者志望だからな…文書化はお手の物だ…舞の腕はいまいちだが…。 」

 そうか…隆平がいたか…と史朗は思い当たったように頷いた。
そうだ…瀾と隆平にやらせてみよう…。
瀾が祭祀舞を覚えていく過程がいい意味で役に立つだろう…。
史朗の表情が華やいだ。

 その笑顔…たまらないねぇ…と修はわざとからかうように言った。
赤くなって俯いた史朗の唇が微かに淫を帯びた笑みを浮かべた。



 少しだけ乱れた髪を手櫛で直しながら居間の方へと降りてきた史朗は、ソファのところで自分に冷たい視線を向けている久遠と出くわした。

 「男となんざ気味悪くねえか? 」

久遠はストレートに訊いた。

 「あなたに抱かれたら吐くね。 他の男なら願い下げだよ。 」

史朗も冷たく言い放った。

 「何だ…おまえそっち系じゃないのか? 」

久遠が戸惑ったような顔をした。

 「全然…。 もともと僕は奥さんの愛人…本来なら修さんとは敵同士ってわけ。
それがひょんなことから修さんに心底惚れちゃって…惚れちゃったからにはどうしようもないから時々遊んで貰ってる。
それだけ…。 」

 そうとしか言いようがないと史朗は思った。まさか千年前の閑平との因縁とは言えないし言っても伝わらないだろう。
久遠が明らかに困惑しているのが分かった。

 「理解できねえな…。 」

 久遠はやれやれ…とでも言いたげに首を横に振った。
あなたに理解して貰おうとは思わないよ…と史朗は胸の内で呟いた。

 「強要されたにせよ…承諾したのはあなた自身…。
一旦覚悟を決めたんだから開き直っちゃえば…? 嫌なやつと遊んじゃったくらいに思っときなよ。
 あなただってこれ以上昭二さんを泣かせたりしたくないでしょ?
あなたがいつまでもあのことを引きずってると亡くなった昭二さんが安心して御大親のもとへ逝けないし…。 」

 史朗には久遠がなぜ不躾にも自分に下らない質問を浴びせたのかが分かったような気がしていた。
 史朗は祭祀によって知り得た久遠の過去にそれとなく触れた。

 胸の内を見透かされたように感じて久遠は言葉に詰まった。
不思議な力を持つこの史朗という男は、まるで昭二の気持ちを代弁しているように久遠には思えた。

 「嫌なやつと遊んじゃった…か。 それ…案外いいかもな…。 」

 久遠の中でほんの一瞬だけ鬼が欠伸をした。
怒り狂う鬼の気持ちが揺らぐまでには及ばなかったけれども…。
 



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