何処かの屋敷の西日の射す部屋で敏はぼんやりと空を見つめていた。
昭二を殺してしまった…。
城崎を出て以来ずっと久遠と苦楽を共にしてきた男を…。
敏にとっても昭二はかけがえのない仲間のはずだった。
暴れ者の3人組をほど良く抑えて城崎出の者が不当に不利益を被らないように上手く立ち回ってくれた。
今度のことだって昭二は、敏にこれ以上の罪を犯させないように考えてくれていたのに…。
昭二の顔の傷は樋野に来てから何度も起きた3人組と樋野の乱暴者たちとの小競り合いを身体を張って止めてきた証でもある。
久遠があらゆる屈辱に耐えてきたその傍で、昭二もまたその身を擲って仲間を護ってきたのだった。
敏は昭二の血を浴びたその手を見た。
なぜ…殺してしまったのだろう…。
昭二はただ久遠の幸せを願っただけだった。
別段…敏に敵意があったわけでも敏を裏切ろうとしたわけでもない。
なのになぜ…。
敏は後悔の念に責め立てられた。
それにここは何処だろう…?昭二を殺して逃げる途中、いきなりあいつに車に乗れと言われてそのまま言うなりにここへ連れてこられた。
あいつ…正体の分からないやつ…あいつが俺にずっと命令を下している。
あいつが久遠のためと言ったんだ…。
城崎の家と久遠を護りたければ家を危険に晒している瀾を消せと…。
瀾を操っている母親も一緒に…。
生活に必要なものは全部揃っていて食事も出てくる。
ただ…外には出られない。
きっちりと締め切られた扉の向こう側で誰かがひそひそと話している。
小さな声だが聞き覚えのある声がする。
樋野の圭介…紫峰へ進入した時に母屋に忍び込んで鈴に飛ばされた男だ。
圭介は久遠の屋敷に居るはずだが…?と敏は怪訝に思った。
とんとんと扉を叩く音がした。
「食事だ…。」
扉の一部が開いて食事を載せた盆が差し出された。
「圭介…だな? 」
敏が問うと声の主は一瞬戸惑ったように黙りこんだ。
「敏か…? そこに居るのは敏なのか…? 」
圭介は部屋に閉じ込められている者の正体を知らなかったようだ。
「圭介…なぜここに? 久遠さんは…? 」
敏がそう訊ねると圭介は悲しげな声で昭二が殺された話をした。
敏がやったとは知らない様子だった。
狙われているのが城崎の者の命だということが分かって、久遠が皆を巻き添えにしないために一家を離散させたこと…。
ひとり残った久遠が樋野に迷惑をかけないように出て行こうとしたところ屋敷が焼き討ちに遭ったこと…。
それ以来久遠が行方不明になっていて経営している店には代理人から連絡があるものの、本人の足取りがつかめないこと…。
「とにかく…城崎の家にも帰っていない…。
俺たちも心配してはいるんだが…何しろ俺たち自身が樋野に戻ってきてしまったもので城崎には近づけなくてな…。 」
圭介は済まなそうに言った。
何てことだ…と敏は嘆いた。家まで焼かれるとは…。
つらかったろうなぁ…久遠さん…。
それにしても圭介がいるということはここは樋野の屋敷のひとつだな…。
「圭介…ここは樋野の誰の屋敷だ? 」
敏は圭介に訊いた。
「ここか…ここは誰の屋敷って訳じゃない…。 樋野の祖先を祀ってある所さ。
俺はここに新しい祭主がいるから世話を頼むと言われてきたんだ。
まさかおまえだとは思わなかったが…。 」
樋野の祭主は鬼面川とは違い本人に祭祀ができるできないは関係なく、感受性が強くトランス状態に陥りやすい者がその都度選ばれる。
だから本来ならここに常時寝泊りする必要はないのだ。
にもかかわらず敏がここで暮らしていることを圭介はなんとも思わないのか?
しかも半ば閉じ込められたようにして…。
「しかし…祭主という名目で匿われているなんざ…おまえはよっぽど樋野の上層部に気に入られているんだな…。
ここに居れば絶対に警察も気が付かないぜ…。 」
敏は呆気にとられた。
屋敷を焼き払うまでして久遠を追った樋野が久遠の配下の敏を匿う…?
冗談だろう…。
樋野の連中はいったい俺に何をさせる気なんだ?
樋野に好意を持たれているとは思えないだけに、敏は胸の中に湧いてくる不安を抑えることはできなかった。
「だからねぇ…修。 ちょっとお付き合いするだけでいいのよ…。 」
笙子の甘えたような声が居間の方へ聞こえてきた。
「嫌だ。 絶対にだめ。 いい加減にしてくれよ。 」
修が珍しくグレートマザーに抵抗している。
雅人たちは互いに顔を見合わせくすくすっと笑った。
久遠だけが何事かと怪訝な顔をした。
「修…ねぇ…修に本気で惚れてくれてるのよ。 可愛いじゃないの…。 」
笙子がそう言いながらにっこりと笑った。
少しだけ目立ってきた御腹でいつもの笙子よりさらに存在感を増している。
「可愛くても何でもだめなものはだめ。勝手に僕の愛人を増やさないでくれ。」
修は不機嫌そうな顔をして居間に姿を現した。
すぐ後から笙子が上機嫌な顔でついて来た。
「笙子さん。 またなの? 愛人の押し売り。 」
雅人がからかうように言った。
「あら…押し売りじゃないわよ…雅人くん。
すごくいい子だから修にどうかなぁってお勧めしてるだけよ。 」
笙子は艶然と微笑んだ。
「でも…お試し済みでしょ…? 」
透が笑いを堪えながら言った。
笙子はさらににっこり笑って頷いた。
何の話だ?と久遠がこっそり瀾に訊いた。
「この奥さん大変な人でさ。 さすがの修さんもお手上げ状態。
自分の愛人を修さんにも無理やり押し付けるらしいんだ。
史朗さんも元はそのひとりだったらしいよ。 」
瀾は雅人から聞いた話を久遠に聞かせた。
化け物の女房はやっぱり化け物…さすがの修も敵わないってわけか…。
「あ…でも笙子さんは人を見る目は確かだから…。
史朗さんはすごく優しくてほんと心根のいい人だしね。 」
慌てて隆平が笙子を庇った。
確かに…あの男はいいやつかも知れんが…俺なら断るね…と久遠は思った。
「修…頼ちゃんのもとのお仕事が気に入らないんでしょ?
あれは家の借金のために仕方なく…よ。 」
お仕事…と思った瞬間修は思わず口を押さえた。
深呼吸して堪えた。
「あの子の過去はどうでもいい。 そんなこと問題じゃない…。
愛人は間に合ってるから…いらないっての。
雅人…胃にきた…。 」
雅人は慌てて立ち上がって修の背中を擦りだした。
「大丈夫…? 部屋へ行く…?
笙子さん…その話はだめだよ。 頼子さんの酷い写真見ちゃったんだから…。 」
笙子が仕方がないわねぇというように肩を竦めた。
何がどうなったんだ…?と久遠はまた瀾に訊いた。
修さんはどうやら健康お色気系以外は体質的に受け付けないらしいんだ…頼子のエロ写真見ただけでゲロゲロになった…と瀾は答えた。
健康お色気系じゃなきゃだめなくせして嫁さんから押し付けられた愛人が男…?
訳が分からん…やっぱりおまえが一番変だ。
久遠は顔を顰めた。
久遠が紫峰家に逗留していることは城崎には知らされていた。
久遠の屋敷が焼かれたという情報を耳にしていたので、おそらく直では戻っては来れまいと予知していた城崎は、身を寄せた先が瀾と同じ紫峰家で頗る安心した。
紫峰家なら何が起ころうとめったなことはあるまいと思った。
ちょくちょく頼子を使いに出して頼子自身にも大切なお友達ゲットのチャンスを与えてやることもできる…とひとりほくそ笑んでいた。
不思議なことに、妻が殺されたり久遠や瀾が攻撃を受けているにも関わらず、城崎自身にはただの一度も何事も起こっていなかった。
理由は分からないが見えない敵はどうやら城崎本人を避けているようだ。
「久遠や瀾に無くて…私にあるもの…思い当たらんがなぁ…。
力から言えばあのふたりはすでに私を越してしまっただろうからね。 」
城崎はそんなことを頼子に話して首を傾げた。
「旦那さん…。 ただいま帰りました。 」
佳恵が店回りから帰ってきた。城崎が佳恵に久遠の代理として店回りをするように言っておいたのだ。
それは久遠から佳恵に伝えてくれるようにと頼まれてのことだった。
当初は紫峰家から久遠自身が店回りに出るつもりだったが、急に佳恵のことを思い出した久遠は佳恵に新しい仕事を与えてやりたくなった。
頼子を頼って城崎の家に身を寄せているはずだった。
佳恵は屋敷にいた時に久遠に勧められて昭二について幾度か店回りをしたことがある。
佳恵ひとりでも店を回れるようにするために昭二はいろいろなことを教えてくれて佳恵も一生懸命覚えた。
その時はこんなことになるとは夢にも思っていなかっただろうが、若い佳恵の先のことを考えて、ただの賄いとしてだけでなく、何かの時には久遠の仕事の手助けができるようにと昭二も気を入れて指導していた。
昭二の努力が実って佳恵は何とか誰の手も空いてない時などにはひとりで店を回れるようにはなった。
久遠はその昭二の努力に報いるつもりで佳恵を自分の代理に任命したのだった。
勿論自分もすぐに動き始めるつもりでいるのだが…。
「お疲れさま…佳恵ちゃん。 久遠さんへの報告は済んだの? 」
頼子が訊くと佳恵は嬉しそうに笑って頷いた。久遠と一緒に働けることが佳恵には幸せなことらしい。
齢もずいぶんと離れているし出自も違うから久遠には決して届くことはないだろうけれど、佳恵の想いも相当深いものなんだろうなと頼子は思った。
久遠が城崎の後を取ることになれば久遠はそれ相応の家から嫁を迎えることになるだろう。
佳恵の気持ちに気付きもしていない久遠はともかく旦那はどう出るだろう…。
旦那はずいぶんとこういうことには敏感だから…佳恵を追い出すだろうか?
それともこのまま久遠の傍に置いてやるだろうか?
旦那自身は平気で奥さんと同じ屋敷にあたしを置いてたけどね…。
そんなことを考えながらチラッと城崎の方を見た。
何だね…?と城崎も頼子を見た。
何でもありゃしませんよ…ただちょっと見てみただけ…あんまりいい男なんでね。
そう答える頼子に城崎は満更でもなさそうな笑みを浮かべた。
次回へ
昭二を殺してしまった…。
城崎を出て以来ずっと久遠と苦楽を共にしてきた男を…。
敏にとっても昭二はかけがえのない仲間のはずだった。
暴れ者の3人組をほど良く抑えて城崎出の者が不当に不利益を被らないように上手く立ち回ってくれた。
今度のことだって昭二は、敏にこれ以上の罪を犯させないように考えてくれていたのに…。
昭二の顔の傷は樋野に来てから何度も起きた3人組と樋野の乱暴者たちとの小競り合いを身体を張って止めてきた証でもある。
久遠があらゆる屈辱に耐えてきたその傍で、昭二もまたその身を擲って仲間を護ってきたのだった。
敏は昭二の血を浴びたその手を見た。
なぜ…殺してしまったのだろう…。
昭二はただ久遠の幸せを願っただけだった。
別段…敏に敵意があったわけでも敏を裏切ろうとしたわけでもない。
なのになぜ…。
敏は後悔の念に責め立てられた。
それにここは何処だろう…?昭二を殺して逃げる途中、いきなりあいつに車に乗れと言われてそのまま言うなりにここへ連れてこられた。
あいつ…正体の分からないやつ…あいつが俺にずっと命令を下している。
あいつが久遠のためと言ったんだ…。
城崎の家と久遠を護りたければ家を危険に晒している瀾を消せと…。
瀾を操っている母親も一緒に…。
生活に必要なものは全部揃っていて食事も出てくる。
ただ…外には出られない。
きっちりと締め切られた扉の向こう側で誰かがひそひそと話している。
小さな声だが聞き覚えのある声がする。
樋野の圭介…紫峰へ進入した時に母屋に忍び込んで鈴に飛ばされた男だ。
圭介は久遠の屋敷に居るはずだが…?と敏は怪訝に思った。
とんとんと扉を叩く音がした。
「食事だ…。」
扉の一部が開いて食事を載せた盆が差し出された。
「圭介…だな? 」
敏が問うと声の主は一瞬戸惑ったように黙りこんだ。
「敏か…? そこに居るのは敏なのか…? 」
圭介は部屋に閉じ込められている者の正体を知らなかったようだ。
「圭介…なぜここに? 久遠さんは…? 」
敏がそう訊ねると圭介は悲しげな声で昭二が殺された話をした。
敏がやったとは知らない様子だった。
狙われているのが城崎の者の命だということが分かって、久遠が皆を巻き添えにしないために一家を離散させたこと…。
ひとり残った久遠が樋野に迷惑をかけないように出て行こうとしたところ屋敷が焼き討ちに遭ったこと…。
それ以来久遠が行方不明になっていて経営している店には代理人から連絡があるものの、本人の足取りがつかめないこと…。
「とにかく…城崎の家にも帰っていない…。
俺たちも心配してはいるんだが…何しろ俺たち自身が樋野に戻ってきてしまったもので城崎には近づけなくてな…。 」
圭介は済まなそうに言った。
何てことだ…と敏は嘆いた。家まで焼かれるとは…。
つらかったろうなぁ…久遠さん…。
それにしても圭介がいるということはここは樋野の屋敷のひとつだな…。
「圭介…ここは樋野の誰の屋敷だ? 」
敏は圭介に訊いた。
「ここか…ここは誰の屋敷って訳じゃない…。 樋野の祖先を祀ってある所さ。
俺はここに新しい祭主がいるから世話を頼むと言われてきたんだ。
まさかおまえだとは思わなかったが…。 」
樋野の祭主は鬼面川とは違い本人に祭祀ができるできないは関係なく、感受性が強くトランス状態に陥りやすい者がその都度選ばれる。
だから本来ならここに常時寝泊りする必要はないのだ。
にもかかわらず敏がここで暮らしていることを圭介はなんとも思わないのか?
しかも半ば閉じ込められたようにして…。
「しかし…祭主という名目で匿われているなんざ…おまえはよっぽど樋野の上層部に気に入られているんだな…。
ここに居れば絶対に警察も気が付かないぜ…。 」
敏は呆気にとられた。
屋敷を焼き払うまでして久遠を追った樋野が久遠の配下の敏を匿う…?
冗談だろう…。
樋野の連中はいったい俺に何をさせる気なんだ?
樋野に好意を持たれているとは思えないだけに、敏は胸の中に湧いてくる不安を抑えることはできなかった。
「だからねぇ…修。 ちょっとお付き合いするだけでいいのよ…。 」
笙子の甘えたような声が居間の方へ聞こえてきた。
「嫌だ。 絶対にだめ。 いい加減にしてくれよ。 」
修が珍しくグレートマザーに抵抗している。
雅人たちは互いに顔を見合わせくすくすっと笑った。
久遠だけが何事かと怪訝な顔をした。
「修…ねぇ…修に本気で惚れてくれてるのよ。 可愛いじゃないの…。 」
笙子がそう言いながらにっこりと笑った。
少しだけ目立ってきた御腹でいつもの笙子よりさらに存在感を増している。
「可愛くても何でもだめなものはだめ。勝手に僕の愛人を増やさないでくれ。」
修は不機嫌そうな顔をして居間に姿を現した。
すぐ後から笙子が上機嫌な顔でついて来た。
「笙子さん。 またなの? 愛人の押し売り。 」
雅人がからかうように言った。
「あら…押し売りじゃないわよ…雅人くん。
すごくいい子だから修にどうかなぁってお勧めしてるだけよ。 」
笙子は艶然と微笑んだ。
「でも…お試し済みでしょ…? 」
透が笑いを堪えながら言った。
笙子はさらににっこり笑って頷いた。
何の話だ?と久遠がこっそり瀾に訊いた。
「この奥さん大変な人でさ。 さすがの修さんもお手上げ状態。
自分の愛人を修さんにも無理やり押し付けるらしいんだ。
史朗さんも元はそのひとりだったらしいよ。 」
瀾は雅人から聞いた話を久遠に聞かせた。
化け物の女房はやっぱり化け物…さすがの修も敵わないってわけか…。
「あ…でも笙子さんは人を見る目は確かだから…。
史朗さんはすごく優しくてほんと心根のいい人だしね。 」
慌てて隆平が笙子を庇った。
確かに…あの男はいいやつかも知れんが…俺なら断るね…と久遠は思った。
「修…頼ちゃんのもとのお仕事が気に入らないんでしょ?
あれは家の借金のために仕方なく…よ。 」
お仕事…と思った瞬間修は思わず口を押さえた。
深呼吸して堪えた。
「あの子の過去はどうでもいい。 そんなこと問題じゃない…。
愛人は間に合ってるから…いらないっての。
雅人…胃にきた…。 」
雅人は慌てて立ち上がって修の背中を擦りだした。
「大丈夫…? 部屋へ行く…?
笙子さん…その話はだめだよ。 頼子さんの酷い写真見ちゃったんだから…。 」
笙子が仕方がないわねぇというように肩を竦めた。
何がどうなったんだ…?と久遠はまた瀾に訊いた。
修さんはどうやら健康お色気系以外は体質的に受け付けないらしいんだ…頼子のエロ写真見ただけでゲロゲロになった…と瀾は答えた。
健康お色気系じゃなきゃだめなくせして嫁さんから押し付けられた愛人が男…?
訳が分からん…やっぱりおまえが一番変だ。
久遠は顔を顰めた。
久遠が紫峰家に逗留していることは城崎には知らされていた。
久遠の屋敷が焼かれたという情報を耳にしていたので、おそらく直では戻っては来れまいと予知していた城崎は、身を寄せた先が瀾と同じ紫峰家で頗る安心した。
紫峰家なら何が起ころうとめったなことはあるまいと思った。
ちょくちょく頼子を使いに出して頼子自身にも大切なお友達ゲットのチャンスを与えてやることもできる…とひとりほくそ笑んでいた。
不思議なことに、妻が殺されたり久遠や瀾が攻撃を受けているにも関わらず、城崎自身にはただの一度も何事も起こっていなかった。
理由は分からないが見えない敵はどうやら城崎本人を避けているようだ。
「久遠や瀾に無くて…私にあるもの…思い当たらんがなぁ…。
力から言えばあのふたりはすでに私を越してしまっただろうからね。 」
城崎はそんなことを頼子に話して首を傾げた。
「旦那さん…。 ただいま帰りました。 」
佳恵が店回りから帰ってきた。城崎が佳恵に久遠の代理として店回りをするように言っておいたのだ。
それは久遠から佳恵に伝えてくれるようにと頼まれてのことだった。
当初は紫峰家から久遠自身が店回りに出るつもりだったが、急に佳恵のことを思い出した久遠は佳恵に新しい仕事を与えてやりたくなった。
頼子を頼って城崎の家に身を寄せているはずだった。
佳恵は屋敷にいた時に久遠に勧められて昭二について幾度か店回りをしたことがある。
佳恵ひとりでも店を回れるようにするために昭二はいろいろなことを教えてくれて佳恵も一生懸命覚えた。
その時はこんなことになるとは夢にも思っていなかっただろうが、若い佳恵の先のことを考えて、ただの賄いとしてだけでなく、何かの時には久遠の仕事の手助けができるようにと昭二も気を入れて指導していた。
昭二の努力が実って佳恵は何とか誰の手も空いてない時などにはひとりで店を回れるようにはなった。
久遠はその昭二の努力に報いるつもりで佳恵を自分の代理に任命したのだった。
勿論自分もすぐに動き始めるつもりでいるのだが…。
「お疲れさま…佳恵ちゃん。 久遠さんへの報告は済んだの? 」
頼子が訊くと佳恵は嬉しそうに笑って頷いた。久遠と一緒に働けることが佳恵には幸せなことらしい。
齢もずいぶんと離れているし出自も違うから久遠には決して届くことはないだろうけれど、佳恵の想いも相当深いものなんだろうなと頼子は思った。
久遠が城崎の後を取ることになれば久遠はそれ相応の家から嫁を迎えることになるだろう。
佳恵の気持ちに気付きもしていない久遠はともかく旦那はどう出るだろう…。
旦那はずいぶんとこういうことには敏感だから…佳恵を追い出すだろうか?
それともこのまま久遠の傍に置いてやるだろうか?
旦那自身は平気で奥さんと同じ屋敷にあたしを置いてたけどね…。
そんなことを考えながらチラッと城崎の方を見た。
何だね…?と城崎も頼子を見た。
何でもありゃしませんよ…ただちょっと見てみただけ…あんまりいい男なんでね。
そう答える頼子に城崎は満更でもなさそうな笑みを浮かべた。
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