久遠は翔矢が自分よりも年上だと思い込んでいた。別に誰に聞いた覚えもないがひょっとしたら何かの折にそう吹き込まれたのかも知れない。
いつも久遠に対して落ち着いた態度で穏やかに微笑みかける翔矢を知らず知らずのうちに年上と勘違いしていたのかも知れない。
何れにせよ久遠は今まで一度足りとも翔矢を血の繋がった者だと認識したことはなかった。
「まさかとは…思うが…。 」
久遠は力なくまた腰を下ろした。
「翔矢を久遠の兄弟だと考えると樋野にはほとんどメリットのない瀾を殺すことへの異常なまでの拘りや城崎の家への執着心などの説明がつくんです。
翔矢は久遠の城崎家への想いに自分の想いを重ねている…。 」
修にそう言われて城崎は唸った。
何ということだろう…もし本当なら義兄はずっと城崎を欺いてきたことになる。
こんなにも長い間…いったいどうして…?
城崎家の長年に亘る樋野に対する差別への仕返しか…それとも単に子どもが欲しかっただけなのか…。
「あくまで僕の推測ですから…真実は分かりません。
僕が去年子どもを亡くしたときに状況が似ていたものですから…。
陽菜さんとは違って笙子の場合は8ヶ月までは何ともなかったのですが…やはり早産で…男の子ふたりでした…。
笙子だけは無事でいてくれましたが…。 」
城崎は痛ましそうに修を見た。
久遠のことで修は亡くした子どもたちのことを思い出してしまったに違いない。
申し訳ないことをした…と城崎は思った。
「もし…この推測が中っているなら翔矢は必ず何かを仕掛けてくるでしょう。
間をおくことはあっても絶対に諦めることはないはずです。
瀾と久遠については紫峰が力を尽くしますが…城崎でもくれぐれも警戒を怠らないようにしてください…。
城崎さんご本人よりも…城崎では頼子さんや佳恵さんが的になってしまう可能性の方が強いでしょう。 」
城崎は心得たというように頷いて見せた。
そろそろお暇を…と城崎は駐車場で待たせてあった車をポーチまで呼び出し、頼子を促して立ち上がった。
それでは玄関までお見送りを…と修も立ち上がった。
城崎の陰から頼子が微笑みかけたが修は気付かない振りを決め込んでいた。
退室する城崎の後について一歩踏み出した途端…急にめまいがして目の前が真っ暗になった。
勢いよく仰向けにその場に崩れ落ちそうになった修を雅人が慌てて支えた。
修の真っ青な顔色を見て周りは騒然となった。
雅人が考えていた以上に症状が重い…。
修はゑずいているわけではなく、パニック障害のような状態…。
何か修の中でいつもとは違うトラブルが発生しているに違いない。
「透…黒ちゃんを呼んで…。
いつもの症状じゃない…。 これは僕の手には負えない…。 」
黒田が飛んできたのはそれからしばらくしてだった。
幸いなことに黒田は今日オフィスではなく家の方にいて、透からの連絡を受けるとすぐに駆けつけた。
突然の騒ぎを丁寧に詫びながら、心配する城崎と頼子を久遠や瀾と一緒に玄関先で見送って、透と隆平は修の寝室へ戻ってきた。
「雅人…どこかいつもと変わった様子はなかったか? 」
黒田は修の着ているものをゆるめながら訊ねた。
「頼子さんと戯れてる最中にゑずいて飛び出してったけど…後はみんなの前では普通にしていたよ…。
顔色は確かに悪かったけど…。 」
雅人は見たままを報告した。
「女か…。
何か修が強い衝撃を受けるような…トラブルが起こったんだ。
客がいたので無理してパニック起こしそうなのを我慢していたに違いない…。
修…いい子だ…落ち着いて…ゆっくり深呼吸。
そう…話せるかい? 」
黒田がそう訊ねると修は頷いた。
「…身体が…勝手に…動く…。
止められないんだ…どちらも僕なのに…止められないんだ…。 」
困惑した様子で黒田に症状を訴える修をいったん黙らせておき、黒田は子どもたちに部屋の外へ出ているように言った。
雅人を始めみんな素直に黒田に従った。
「修…大丈夫だ…。心配ない…。
おまえの理性がちょっと勝ち過ぎてパニックを起こしただけだ。
ほら…何か馬鹿なことをやっている自分を冷静に見つめている自分…そんな感覚が極端になっただけだよ…。
おまえは後遺症を気にして女に対しては少し臆し気味だし…女に手を出しちゃいけないとどこかで思っているから…さ。
いくらおまえでも男だから…そりゃあ耐えられない時もあるぜ…。
聖人じゃないんだから時には解放してやらないとな…。
あの娘が望んでいて…おまえにもその気があるならそれは悪いことじゃない。
自然に任せてしまえばいいことだ。 」
黒田は小さな子どもにするように修の頭を撫でてやりながらそう諭した。
自然に任せることが修にとってはどれほど苦痛を伴うことか…黒田にも分からないわけではなかった。
突発的に顔を覗かせる拭っても拭っても拭い去れない性行為への嫌悪感と罪悪感…心と身体の分裂はそこに起因するのだろう。
普段は胸の奥底にしまわれていて、表向きあっけらかんとしているだけに誰も気付かない。
可哀想に修…ここまでおまえを追い詰めた者を殺してやりたいよ…。
おまえから…こんなにも心と身体の自由を奪ったやつを…。
黒田は唐島の顔を思い浮かべた。しかしすぐに訂正した。
いいや…修を精神的に追い詰めたのはあいつだけではない…透を修に任せきりにしていた俺もそのひとりだ…。
あの頃まだ幼かった修に負わせた荷の重さを黒田は今更ながらに痛感した。
修が寝息を立て始めたので黒田は居間の方へやってきた。
黒田の姿を見るとみんな一様に心配そうな目を向けた。
「黒ちゃん…修さんは? 」
雅人が不安げな顔で訊いた。
「大丈夫…落ち着いた。 今は眠っているよ。
雅人…今夜は修についていてくれ。
修がこれほどの症状を起こしたのは初めてだから…な。 」
雅人は分かった…と頷いた。
「親父…修さんはなぜ急に発作を?
症状は治まってきてるって笙子さんは言ってたのに…。 」
透が怪訝そうに訊ねた。
「女にゃ分からんこともある…修は黙って我慢してることが多いから余計にな。
冬樹を亡くした時にも…軽い症状はあったんだ。
去年こどもを亡くしたことが相当つらかったんだろう…。
あいつは母親以上に母親的なところがあるからな…堪えたんだ。
そんな時に長老衆が鈴を連れてきて内妻にしろと言うわ…今度は笙子が頼子を嗾けたりするわ…で修は心身ともに疲れきってしまったんだ。
ただでさえ…身体が思うようにならないのに…どうしろってんだってね…。
それでも誰にも何も言えずに我慢していたから…こんなことになったのさ。」
黒田は大きく溜息をついた。
「黒ちゃん…今日は彰久さんの当番だから史朗さんはいないんだけど…史朗さんについててもらった方がいいのかな…? 」
雅人が思いついたように言った。
「いいや…史朗じゃだめだ…。 修が気を使う。 おまえの方が適任だ。 」
そうか…と雅人は納得したように頷いて急ぎ修の部屋へと戻っていった。
黒田はもう一度溜息をつくとどさっと音を立ててソファに腰を下ろした。
「透…決して忘れるな…。
おまえを育ててくれた父さんが…おまえたち紫峰のこどもらを護り育むためにどれほどの犠牲を払ってきたか…。
修がこれほど苦しむのは単に唐島がしたことの後遺症というだけではない…。
この紫峰家を護り抜くために…おまえたちを生き延びさせるために修が自分の何もかもを犠牲にして戦ってきた結果生じた後遺症でもあるんだ。
透…おまえの父さんは紫峰歴代の宗主の中でも最高の宗主だ。
おまえは修の息子だということを誇りに思え…。 」
実の父親の息子を諭す言葉に透はただ頷いた。
実父でありながら決して名乗ろうとしない黒田…透を捨てたわけではない…透は胎児のまま母親と共に紫峰本家に奪われたのだ。
30年近くも一左を封じ込めたあの悪魔のような三左の企みで…。
だが黒田はその透を我が子のように愛し育んでくれた修の手から今さら奪い返そうとは考えていなかった。
黒田たちの様子を見ていた久遠は紫峰家の人々を巡るおぞましくも悲しい過去を彼らの心から垣間見た。
酷い思いをしてきたのは自分だけじゃない…生きることは多かれ少なかれ苦しみや悲しみを伴うものなのだと改めて思い知らされた。
俺は…確かに他人にその苦しみも悲しみも話しはしなかったが、仲間がそれと簡単に気付いてしまうような隠し方をしていたのかもしれない…。
修は…いかにも人生を謳歌しているような姿を見せることですべてを覆い隠し、周りを安心させようとする。
そのことが逆に自らの身体と心とを蝕んでいっても他人に気取られまいとする姿勢を崩さない。
どちらがいいとか悪いとかという問題ではないけれど長としては見習うべきものがあるような気がする…身体や心の崩壊を招くのは避けるべきだと思うが…。
修の記憶の中のあの樹という男が早死にしたのも修のように自らを犠牲にし続けた結果なのだろうか…?
久遠はふと…そんなことを思った。
次回へ
いつも久遠に対して落ち着いた態度で穏やかに微笑みかける翔矢を知らず知らずのうちに年上と勘違いしていたのかも知れない。
何れにせよ久遠は今まで一度足りとも翔矢を血の繋がった者だと認識したことはなかった。
「まさかとは…思うが…。 」
久遠は力なくまた腰を下ろした。
「翔矢を久遠の兄弟だと考えると樋野にはほとんどメリットのない瀾を殺すことへの異常なまでの拘りや城崎の家への執着心などの説明がつくんです。
翔矢は久遠の城崎家への想いに自分の想いを重ねている…。 」
修にそう言われて城崎は唸った。
何ということだろう…もし本当なら義兄はずっと城崎を欺いてきたことになる。
こんなにも長い間…いったいどうして…?
城崎家の長年に亘る樋野に対する差別への仕返しか…それとも単に子どもが欲しかっただけなのか…。
「あくまで僕の推測ですから…真実は分かりません。
僕が去年子どもを亡くしたときに状況が似ていたものですから…。
陽菜さんとは違って笙子の場合は8ヶ月までは何ともなかったのですが…やはり早産で…男の子ふたりでした…。
笙子だけは無事でいてくれましたが…。 」
城崎は痛ましそうに修を見た。
久遠のことで修は亡くした子どもたちのことを思い出してしまったに違いない。
申し訳ないことをした…と城崎は思った。
「もし…この推測が中っているなら翔矢は必ず何かを仕掛けてくるでしょう。
間をおくことはあっても絶対に諦めることはないはずです。
瀾と久遠については紫峰が力を尽くしますが…城崎でもくれぐれも警戒を怠らないようにしてください…。
城崎さんご本人よりも…城崎では頼子さんや佳恵さんが的になってしまう可能性の方が強いでしょう。 」
城崎は心得たというように頷いて見せた。
そろそろお暇を…と城崎は駐車場で待たせてあった車をポーチまで呼び出し、頼子を促して立ち上がった。
それでは玄関までお見送りを…と修も立ち上がった。
城崎の陰から頼子が微笑みかけたが修は気付かない振りを決め込んでいた。
退室する城崎の後について一歩踏み出した途端…急にめまいがして目の前が真っ暗になった。
勢いよく仰向けにその場に崩れ落ちそうになった修を雅人が慌てて支えた。
修の真っ青な顔色を見て周りは騒然となった。
雅人が考えていた以上に症状が重い…。
修はゑずいているわけではなく、パニック障害のような状態…。
何か修の中でいつもとは違うトラブルが発生しているに違いない。
「透…黒ちゃんを呼んで…。
いつもの症状じゃない…。 これは僕の手には負えない…。 」
黒田が飛んできたのはそれからしばらくしてだった。
幸いなことに黒田は今日オフィスではなく家の方にいて、透からの連絡を受けるとすぐに駆けつけた。
突然の騒ぎを丁寧に詫びながら、心配する城崎と頼子を久遠や瀾と一緒に玄関先で見送って、透と隆平は修の寝室へ戻ってきた。
「雅人…どこかいつもと変わった様子はなかったか? 」
黒田は修の着ているものをゆるめながら訊ねた。
「頼子さんと戯れてる最中にゑずいて飛び出してったけど…後はみんなの前では普通にしていたよ…。
顔色は確かに悪かったけど…。 」
雅人は見たままを報告した。
「女か…。
何か修が強い衝撃を受けるような…トラブルが起こったんだ。
客がいたので無理してパニック起こしそうなのを我慢していたに違いない…。
修…いい子だ…落ち着いて…ゆっくり深呼吸。
そう…話せるかい? 」
黒田がそう訊ねると修は頷いた。
「…身体が…勝手に…動く…。
止められないんだ…どちらも僕なのに…止められないんだ…。 」
困惑した様子で黒田に症状を訴える修をいったん黙らせておき、黒田は子どもたちに部屋の外へ出ているように言った。
雅人を始めみんな素直に黒田に従った。
「修…大丈夫だ…。心配ない…。
おまえの理性がちょっと勝ち過ぎてパニックを起こしただけだ。
ほら…何か馬鹿なことをやっている自分を冷静に見つめている自分…そんな感覚が極端になっただけだよ…。
おまえは後遺症を気にして女に対しては少し臆し気味だし…女に手を出しちゃいけないとどこかで思っているから…さ。
いくらおまえでも男だから…そりゃあ耐えられない時もあるぜ…。
聖人じゃないんだから時には解放してやらないとな…。
あの娘が望んでいて…おまえにもその気があるならそれは悪いことじゃない。
自然に任せてしまえばいいことだ。 」
黒田は小さな子どもにするように修の頭を撫でてやりながらそう諭した。
自然に任せることが修にとってはどれほど苦痛を伴うことか…黒田にも分からないわけではなかった。
突発的に顔を覗かせる拭っても拭っても拭い去れない性行為への嫌悪感と罪悪感…心と身体の分裂はそこに起因するのだろう。
普段は胸の奥底にしまわれていて、表向きあっけらかんとしているだけに誰も気付かない。
可哀想に修…ここまでおまえを追い詰めた者を殺してやりたいよ…。
おまえから…こんなにも心と身体の自由を奪ったやつを…。
黒田は唐島の顔を思い浮かべた。しかしすぐに訂正した。
いいや…修を精神的に追い詰めたのはあいつだけではない…透を修に任せきりにしていた俺もそのひとりだ…。
あの頃まだ幼かった修に負わせた荷の重さを黒田は今更ながらに痛感した。
修が寝息を立て始めたので黒田は居間の方へやってきた。
黒田の姿を見るとみんな一様に心配そうな目を向けた。
「黒ちゃん…修さんは? 」
雅人が不安げな顔で訊いた。
「大丈夫…落ち着いた。 今は眠っているよ。
雅人…今夜は修についていてくれ。
修がこれほどの症状を起こしたのは初めてだから…な。 」
雅人は分かった…と頷いた。
「親父…修さんはなぜ急に発作を?
症状は治まってきてるって笙子さんは言ってたのに…。 」
透が怪訝そうに訊ねた。
「女にゃ分からんこともある…修は黙って我慢してることが多いから余計にな。
冬樹を亡くした時にも…軽い症状はあったんだ。
去年こどもを亡くしたことが相当つらかったんだろう…。
あいつは母親以上に母親的なところがあるからな…堪えたんだ。
そんな時に長老衆が鈴を連れてきて内妻にしろと言うわ…今度は笙子が頼子を嗾けたりするわ…で修は心身ともに疲れきってしまったんだ。
ただでさえ…身体が思うようにならないのに…どうしろってんだってね…。
それでも誰にも何も言えずに我慢していたから…こんなことになったのさ。」
黒田は大きく溜息をついた。
「黒ちゃん…今日は彰久さんの当番だから史朗さんはいないんだけど…史朗さんについててもらった方がいいのかな…? 」
雅人が思いついたように言った。
「いいや…史朗じゃだめだ…。 修が気を使う。 おまえの方が適任だ。 」
そうか…と雅人は納得したように頷いて急ぎ修の部屋へと戻っていった。
黒田はもう一度溜息をつくとどさっと音を立ててソファに腰を下ろした。
「透…決して忘れるな…。
おまえを育ててくれた父さんが…おまえたち紫峰のこどもらを護り育むためにどれほどの犠牲を払ってきたか…。
修がこれほど苦しむのは単に唐島がしたことの後遺症というだけではない…。
この紫峰家を護り抜くために…おまえたちを生き延びさせるために修が自分の何もかもを犠牲にして戦ってきた結果生じた後遺症でもあるんだ。
透…おまえの父さんは紫峰歴代の宗主の中でも最高の宗主だ。
おまえは修の息子だということを誇りに思え…。 」
実の父親の息子を諭す言葉に透はただ頷いた。
実父でありながら決して名乗ろうとしない黒田…透を捨てたわけではない…透は胎児のまま母親と共に紫峰本家に奪われたのだ。
30年近くも一左を封じ込めたあの悪魔のような三左の企みで…。
だが黒田はその透を我が子のように愛し育んでくれた修の手から今さら奪い返そうとは考えていなかった。
黒田たちの様子を見ていた久遠は紫峰家の人々を巡るおぞましくも悲しい過去を彼らの心から垣間見た。
酷い思いをしてきたのは自分だけじゃない…生きることは多かれ少なかれ苦しみや悲しみを伴うものなのだと改めて思い知らされた。
俺は…確かに他人にその苦しみも悲しみも話しはしなかったが、仲間がそれと簡単に気付いてしまうような隠し方をしていたのかもしれない…。
修は…いかにも人生を謳歌しているような姿を見せることですべてを覆い隠し、周りを安心させようとする。
そのことが逆に自らの身体と心とを蝕んでいっても他人に気取られまいとする姿勢を崩さない。
どちらがいいとか悪いとかという問題ではないけれど長としては見習うべきものがあるような気がする…身体や心の崩壊を招くのは避けるべきだと思うが…。
修の記憶の中のあの樹という男が早死にしたのも修のように自らを犠牲にし続けた結果なのだろうか…?
久遠はふと…そんなことを思った。
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