5 月1 日の改元を控えて世の中が賑やかな頃、対馬、釜山への自転車旅に出た。大陸との交流地点に興味がある。
4月6日 新千歳空港から福岡まで飛行機輪行。国内線はJet Star以外は輪行袋に入れれば無料で運んでくれる。
昼に福岡空港で息子と食事をして、22:00のフェリーで博多港を出発した。途中、2015年に一周している壱岐島に寄港し、それから船が揺れ始め時々目が覚めた。対馬暖流は流れが速いのか。
翌5:00に対馬南部の厳原港に到着。予約していた港の近くの民宿に直行した。今は韓国からの観光客が激減しているが、道を尋ねると韓国人ばかりだった。宿にも5人ほどがいた。港の周辺は大陸からの風が強いらしく、家々の囲いは堅牢だ。
その夜は美味しい地魚料理で鋭気を養い、対馬北部の比田勝港までの800Kmの自転車旅に備えた。土木工事で長期滞在している長崎の若者に出会った。日曜日には岸壁で釣りをするそうで、この夜のお汁は釣果だった。
対馬はリアス式海岸が美しい島だが、元寇の防波堤となり、秀吉の朝鮮出兵基地となり、日露戦争ではロシア艦隊の防衛線となるなど、常に日本が外敵の脅威にさらされる時に最前列にあってこの国を守る役割を果たした。それらの遺跡、痕跡を探し、巡りながら北上を続けた。
そして忘れてならないのが大陸の文化や政治制度、仏教を持ち帰った遣隋使、遣唐使の中継地であったこと。その名も「西漕手ニシノコイデ」という小さな入江だった。
遣唐使、遣隋使は九州北部から壱岐島を経て対馬中央の東にある三浦湾に面した「小船越」から船とともに丘を越えて西側の浅茅湾の「西漕手」から中国を目指した。
彼らは文人であるとともに命懸けの"探検家"だったのだと思う。
厳原を4月7日にスタートして3日目の4月10日の11:00に無事、島の北端の比田勝港に到着。この日だけ小雨が降っていた。手前に「日本最西北端の碑」(桿崎公演)があった。これで突端は稚内岬、納沙布岬、立待岬、大間岬、野母岬に続いて6箇所目となった。
夕方にフェリーで亘る韓国・釜山は濃い霧の中だった。
比田勝港から釜山へはジエットフェリーで50分だ。出港する夕方まで港の近くの温泉に浸かった。釜山は自転車無しの2泊のプチ観光だし、博多への帰路は比田勝からフェリーなので気分的にのんびりした。
釜山はソウルに次ぐ韓国第二の都会だが、市街地から一歩露地に入ると昔ながらの商店が軒を連ねていた。日本語の通じる市街地のビジネスホテルを取ったが、食事は屋台で済ませた。2017年の台湾一周もそうだったが、旅では地元の生活に触れるのが好きだ。たまに利用するパックツァーではこうは行かない。
比田勝港の通関は簡単だった。
韓国の皆さんは親切だった。大きな地下鉄駅では日本語の出来るガイドさんが行きたい観光ポイントまでの道順をメモにしてくれた。それを通行人に見せると指さして道案内をしてくれた。繰り返しているうちに目的地に着くことが出来た。
中・日・韓、戦争もあったけれど古の昔から日本は大陸と交流し発展してきた長い歴史がある。ほんの一時期の一片の外交文書を盾に定規で線を引くようなことを繰り返しても蟠りは融けない気がしている。人間同士の付き合いはやはり『心』の積み重ねしかないのでは。