季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

巨匠

2008年03月02日 | 音楽


めずらしく手許にあるのが15ヶ月ほど前の新聞評だ。「若き巨匠」たちと題した記事。

これは(たぶん)記者がいろいろな方面から聞いてきた話をざっとまとめたものだろう。別段なんの感想もいう必要がない。

ただし、取り上げられた批評家、音楽家の説には異論がある。

記事は、最近の若手演奏家に対する売り文句や論評に「若き巨匠」や「次世代の巨匠」といったふうな表現が多いことに関しての考察、といったところ。

この現象に関してのクリスティアン・ツィメルマンの見解は以下の通り。「今の若い世代には、巨匠にひけをとらない技術がある。そのうえ過去の録音も映像も豊富。模倣しようと思えば、意外に安易に模倣できてしまう」

技術に関して、また模倣に関して、これほど馬鹿馬鹿しい言葉を吐く人とは思わなかった。この人自身は質のよい技術を持ち合わせていた。ただ、演奏は入力したデータを読み取るだけのようで(歌手のペーター・シュライアーが、質こそ違え、そうだった。はじめてマタイ受難曲の福音史家を聴いたときはその密度の高い表現に驚いたが、毎年ほぼ同じ繰り返しを聴かされて辛かった)どれもが薄っぺらくなる。その性質はこうしたコメントにも出るのだ。

技術に関しては僕の処で学ぶ人は理解しようし、言葉を重ねるのは誤解を重ねるだけだから措いておこう。

しかし真似する、ということをこれほど浅薄に考える演奏家がいることは看過できない。誰がコルトーの真似をできる?彼の「解釈」とやらを真似してみればよいが、音自体を「真似」しないかぎりそこから何も生じないのである。フィッシャーにしてもシュナーベルにしてもしかり。真似というものはそういうものだ。徹底的に真似をしてもなおほんの少しずれる、そのずれを個性というのかもしれない。若いモーツァルトが嘆いているのを知って欲しい。自分はもうだれの真似もできてしまう、いったいこれからどうしたらよいか、と。その時の響きだってすでにモーツァルト独自の世界を造っている。

ツィメルマンがこうした次元でものを言っているのでないことだけは確かだ。しかも、自分は真似はしないというプライドすら感じてたまらない。だからこそ、上記のことばとともに、内容はともかく「巨匠然」としたスタイルの演奏が増えたのはたしかだ、等の寝言を言えるのだ。

吉田秀和さんがブレンデルの録音を聴いて「あっ、これはフルトヴェングラーのやりかただ」と思ったとどこかで書いていた。それは何かの曲の第2テーマでテンポを落としたとかいう話だった。そんなことで良いなら誰でもフルトヴェングラーのやり方ができるさ。演奏にはやり方などないのだ。そこがこの人にはまったく理解できないのだろう。これなどもツィメルマンと同じような理解の仕方だ。

ブレンデルはたしかにフルトヴェングラーから多くの影響を受けていようが、たったひとつ決定的なものが欠落している。彼の音は持続という質をもたない。これは純然たる技術の問題なのだ。音楽を川の流れに例えたフルトヴェングラーの例えをそのまま流用しようか。ブレンデルの演奏は模型でできた川だ。

ただ付け加えておけば、その模型はじつによくできている場合もある。自らが川だと思える人は彼から面白いアドヴァイスを貰えるかもしれない。

「巨匠」に関しての他の論評はあまりにくだらないから取り上げない。でももしかしたら書くかもしれない。これらの論評でも影響力があるかもしれぬ、という恐怖心から。