季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

2/2

2008年03月16日 | 音楽


ブレンデルによるベートーヴェンのピアノ協奏曲は、おそろしく速いテンポで弾かれているそうだ。

僕はその演奏を聴いていない。この情報は吉田秀和さんの「時の流れのなかで」のなかの「テンポのとり方 その1」と題する文章中に見つけたものだ。

ブレンデルはなんでも、ボンのベートーヴェンハウスで刊行された新判の資料を実際に見せてもらって確認したそうだ。

それによると、第一協奏曲の普通流布しているものは4/4拍子だが、もともとは2/2で書かれていたというのだ。そこから考えた結果、吉田さんのことばによれば、速いの何の!という演奏に相成った次第らしい。

ここで問題にしたいのは、この演奏が良いか悪いかといったことよりも、次のことである。

2/2で書かれていたというのはきっと、いやぜったいにそうなのだろう。その点では最近の研究はとても進んでいるから。(ちなみにこの文章が書かれたのは1984年のことだ)

ブレンデルにかぎらず、演奏家達はこうした言い方をする。「これは2/2で書かれているから云々」「こちらは2/4だから云々」ハンゼンも時々そんな説得の仕方をした。たとえば別れの曲などで「テンポが遅すぎる。この曲は2/4だ、」といったぐあいに。

しかし僕はそこで示されるテンポ自体よりも、その説明の仕方に、素直にそうかと言えないのである。そこでこうしてブレンデルの説明に疑問を投げかけているわけだ。

実例を挙げるのが一番だろう。ベートーヴェンのOP.51のハ長調のロンドは2/2で書かれているが、ではこれも速く弾くのだろうか。この曲の場合、二分音符を感じて弾くとグラチオーソという指示が良く理解できるけれども、少なくとも普通弾かれているより速いテンポをとるのは無理だろう。

Op.51にはもうひとつト長調のロンドがあるが、2/4である。これは素直に四分音符を単位に取っていって支障はない。しかし2/4という表記は必ずしも四分音符を最小単位でとっていくということではない。第3交響曲の第2楽章の葬送行進曲は2/4であるが、ためしに四分音符単位で弾いてみたらよい。どんなことになるか。

ブラームスのヴァイオリン協奏曲のフィナーレや二重協奏曲のフィナーレも2/4だったと記憶するが、これらでは八分音符を単位としたテンポの設定が行われているではないか。

つまりテンポ表示も、他のすべての表示も、作曲者が他者へ伝える手段のひとつであって、演奏者はそこから直感的に作曲家の、作品の意図をくみ取る以外にないのだ。作曲家も人間である、指示をするのもやはり自身の勘に頼るしかないだろう。こう書いたらどうか、いやこれでは伝わらないのでは、などと、何度も悩んだに違いない。ベートーヴェンも第1協奏曲を、はじめは4/4で書いたのかも知れない。(これは研究の結果ではない。あくまで可能性がなかったとは言い難い、と簡明に受け取って欲しい)

ブレンデルは第1協奏曲を速く弾きたければ速く弾けばよい。ただし、その根拠は彼の感覚の中にしか有りようはない。2/2だから、ではないのだ。僕はすでに書いたように、この演奏を聴いていないから、そこでのブレンデルの「感覚」に賛意を表明できるかは知らない。ただ、外側の世界に根拠を探そうという考え方に反対の態度をとりたいのである。

この曲に関して言えば、2/2であっても四分音符を最小単位と取りたいが、同時に2/2と書くことによって重い感じから抜け出すことは確かなのである。楽譜とはそう読むべきだと僕は思っている。拍子は音楽全体の表情を暗示する一助ではあるが、規定するものではあるまい。

さらに付け加えるならば、重苦しさを排除するのは(排除したいとして)テンポだけではあるまい。むしろ、音の質そのものによるところが大きいのかも知れないではないか。

非常に簡単に言えば、演奏するということは演奏者の勘にのみ委ねられている。その勘を磨く以外あるまいということだ。そのうちあるものは目で追って「解釈」もできようが、論理的に近づこうにも近づけないものもいっぱいあるのだ。このことも繰り返し書くことになるだろう。