カラヤンはある時期から燕尾服を着ないで、カラーの立った、何ていうのかな、ファッションに暗すぎる僕にはよく分からないが、僧服のような格好で演奏していた。そうそう、リストが着ているでしょう、あれです。
ドイツ人の友達が、あれはなぜだろう、と結構話題にしていた。僕が「難しく考えるな、そういう宗教的境地に達したのだとみんなに知って欲しいのさ」と答えると、そんな単純な理由があるだろうか、と信じなかった。
カラヤンとベルリンフィルはどうしても最後まで聴き通すことができなかった。何ともいえぬ、のっぺりした豊堯さ。むかし山本直純さんという人がコマーシャルで「大きいことはいいことだ~」と歌って、それが時代の空気そのものであるような注目をされていたが、カラヤンの音は、とにかく豊かに豊かに、豊かなことはいいことだ、といった感じなのだ。ブラームスのチクルスでも、フォルテでもピアノでも常に壁土を丁寧に塗りつけたようで、豊かさに意味がないのだ。一晩聴き通す必要もなく、チケットは買えずに僕のような変人が現れるのを、入口で辛抱強く待つ人がいて、あっという間に売れたのである。
客席で(僕は立ち見席が指定位置だったが)ヴァイオリンを抱えた男がいて、自分のことのように得意満面の笑みを浮かべて「全員がソリストの力量を持っているんです」と話しかけてきたことがある。「いや、僕はそう思いませんね」(実際、あるコンサートマスターの主宰するカルテットなど、もうひどいものだった)件のヴァイオリニストはびっくりして僕を見て「あなたはヴァイオリニストですか」「いや、ピアニストです」「私はそうなんです」(Aber ich!)馬鹿じゃなかろうかと思ったが、日本人はただでも黙っていて何を考えているか分からないと批判されてばかりいるから、それは本当のことみたいだが、癪に障って「僕は音楽家だ」(Ich bin doch ein Musiker)と言った。返す言葉が無くて目を白黒させておかしかったなあ。
生前すでに、テールヒェンというティンパニー奏者が「フルトヴェングラーかカラヤンか」という本を出した。これは、2人の間のゴシップの寄せ集めではない。この手の本は多かれ少なかれゴシップ集の域を出ないけれど、この本はそれらと趣をまったく異とする。
一見楽員に自分の楽想を命じているかに見えるフルトヴェングラーを「反応」reaktつまり、音楽への、音への反応と呼び、一見オーケストラの前で敬虔に耳を澄ましているかに見えるカラヤンを「行動」aktの人と呼んでいるのは卓見である。
あるいは、どの指揮者も(音楽家も)内面にいくらかのフルトヴェングラー(音楽への情熱的な没頭)といくらかのカラヤン(なによりも自己愛)を持っていると言う。こうした記述全体にこの人が並の演奏家ではないことがうかがえる。
僧服についての直感と演奏への感想を、僕はこの本で確かめることができた。つまり、もっとも近くにいながらほぼ同じ感覚で見ていた人がいた、という意味である。だれもが同じであったなどと言っているわけではない。どうにも言いようのない、あの空しい豊かさがどこからやってくるのか、それを確認しただけで充分だ。