ある国立大学の教授とちょっと話を交わした。
「あなた、信じられますか!私の学校では学生に教員の評価をさせるんですよ。まったく世も末です。私ら教員が学生の胡麻をすらなければいけない時代になったのですよ」
僕はなんと答えて良いか分からなかった。たしかに世も末だとは思った。この男とは違った意味で。
この人は最初から学生からマイナス評価をされると決めてかかっているのだ。あれ、待てよ、そうするととても謙虚な人なのか。日本の美風は健在か。
冗談を言っている場合ではない。僕は仕事柄若い人たちと付き合うことが多い。すべての人がというわけではもちろんないけれど、考えられているよりはるかに多くの人が、いつの間にか、深い情感と、好奇心と、そう言ってよければ正義感を持った人に成長する。
べつに音楽に接したからではない。イチロー選手にしても、中田英寿選手(この人は残念ながらもう選手ではないけれど)、またどの道であれ、その成果がどうであれ、一心に続けていると一種の情緒とでも呼ぶしかないものに突き当たるのが面白い。有名人を挙げたのも、無名人を挙げても誰も分からぬからである。ほかに理由はないのである。
さて、そうしたことを毎日のように体験していると、若い人への見方が他の人とずいぶん違っていくものなのだろう。
僕は、僕の処へ通ってくる若い人たちが、より年上の人たちと同様、真剣でものに感じやすいことをよく知っている。常識もわきまえ、ただただ音楽をしたい一心でやって来ることをよく知っている。
上記の大学教授と、そうした若い人とどちらが正しいか。訊ねるまでもないだろう。また、真剣な人は、なにも僕の処にだけいるはずがない。
ただ、率直に言ってしまうが、そうした真剣な気持ちに応える覚悟がある人は驚くほど少ないのである。みんな、かつては自分も未熟であった、おそらくは現在も未熟であることを、あっけらかんと忘れている。
だから、自分の前にいる男が、まったく違った意見を持っているとは夢にも思わず、「世も末だ」などとのたまうのだ。
学生による教員評定も大いにやったら良いだろう。もちろん学生もそうしたことに対応できるほど成熟していないだろう。しかし教員自らが、高い評価を受けるためにごまをする、といった未成熟では、ちと困るではないか。