数年前アルフレッド・コルトーのマスタークラスでのレッスンをCDが出た。2枚組である。
これは実に面白い。演奏家に不可欠の独断に満ちていて、それにもかかわらず、あるいはそれゆえに強い説得力がある。
レッスンする曲目はモーツァルト!あり、ベートーヴェンあり、といったぐあいで、ふだんコルトーの演奏でお目にかかりにくいものもあって、その点でも興味深い。
いうまでもなく全編フランス語で、フランス語をまったく理解しない僕にとっては小さく小さく印刷された全訳だけが頼りだ。
喋っている内容は格別新しいことでも、僕には、ないのであるが、その言葉からわき出る音の世界ともなると話はまったく違ったものになる。たとえばモーツァルトのソナタで、オペラの登場人物を引き合いに出す。かつての演奏家なら、それも一流とは限らない、だれでもがやってきたことだが、日本の現代のピアノ学習者には耳新しいかもしれない。それに、デフォルメされた演奏でだが彩りを添えてゆく。
コルトー流の、修辞過多と言われかねない勢いのあることばが続く。
聴いていてとにかくスリリングなのである。愚にもつかぬ解説書もついていて、衰えが目立つ云々とあるが、いったいピアノのレッスンというものを経験したことがあるのか、疑わしい。きわめて雄弁で(演奏がですよ)コルトーがなにを伝えようとしているかはよく分かる。
ひとつ残念なことがある。コルトーの演奏および言葉はすべて入っていると思われるのに、生徒の音は一音たりとも入っていない。「そうではない」「君の弾いたようではなく、こんなふうに」と言われたところで、なにがそうではなくなのか、皆目見当がつかない。
愚にもつかぬといったが、その愚にも付かぬ解説によると、ピアニストのマレイ・ペライアがこの講義のテープの編纂を任されたそうだ。僕は、この間抜け、と叫んでしまいそうだ。解説者の愚は今に始まったことではないが、こちらの愚は放っておけない。
ペライアは曲がりなりにもピアニストだ。しかも、この役を引き受けたというからには、コルトーの講義が少なくともある種の価値があると見なしたわけだろう。レッスンというものは説の一方的な押しつけではないはずだ。ある(生徒の)演奏があり、それに対するコルトーの、また他の先生の「反応」のはずだ。
それをわきまえず、記録としてのコルトーだけを考えると、生徒の演奏はどのみち大したことはない、カットしても構わないだろう、となるのである。これなども僕流にいえば「観念」化した音楽のひとつの現れなのだ。
コルトーを評価しない人はもちろん大勢いる。それは一向に構わない。そういう人たちもいる、というのは健全な証なのだ。ただ、信奉者を装って実は人間の全体像を損なうような真似をして欲しくないだけだ。それは否定するものよりずっとたちが悪い。
生徒達の音源はあるのだから、CDを聴いた人たちが販売元に要望を出してくれたらと願う。どれだけ面白いものになるだろうか。販売元は結構そうした生の意見に反応するものです、役所とちがって。