友人から聞いた話でしかないが、ふだんは下らぬ事しか言わない男だが。
某音楽大学では以下のような会話が交わされているという。
「○○の演奏は心を打つけれど評価はできない」等々。
何というなまくら腰だ。どちらにも取れる、まるで政治の答弁のようだ。解説しておきましょう。その演奏を高く「評価」するひとに対しては「たしかに私もそう思います、心を打たれました」と手形を切り、低く「評価」するひとに対しては「その通りですね、心は打たれるのですがね、評価となると」まあ、良くてそんなところか。
ひとつ景気よく言い切ってみればいいじゃあないか。「ベートーヴェンの音楽には心を動かされるが、評価はできない」とか。いちど言ってみたらよい。そうしたら「評価」とかいう言葉がいかに虚しく空の彼方へ飛んでいくかを知るだろう。それとも、そこで気付く奴はそもそもこんなたわけたことを言いはしないか。
もっと実体に近くいえば、これらの発言は発言している当の本人も何を言っているか分かっていやしないのだ。
「○○の演奏は悪くなかったですね」「そうね、ただ、評価ともなるとね。心動かされますが」「そうですね、グローバル化した音楽市場の現実を見ますとね」「そこなんですね、問題は」「結局社会が音楽になにを求めているかを知ることでしょうかね」「そうね、グローバル化は多様性と相関関係ですからね」「マーケティングリサーチの重要性ですか」「あっ、それはもう一番の重要課題です」「自己をアピールできることも大事でしょう」「それと好感度の釣り合いですよ」「ホントにそうですね」
口から出任せに書いてみるとこうなる。でもこれらの言葉は全部新聞評、コンクール、学校、その他で実際に耳にした、それでいて僕には何のことやらさっぱり分からない言いぐさを抜き書きしたものだ。だいたいこのような感じの会話が(良くても)交わされているわけだ。
友人は芸術に評価ということばを使うのはけしからん、と怒り心頭であった。しかし考えてみれば、評価自体が悪いわけではあるまい。ベートーヴェンも評価されたりされなかったりしてきたのだ。
ただ、感動するが評価しない、などの寝言が悪いのだ。評価するが感動しない、ということはあるだろう。あまり厳密に気持ちを探ったらちょっと分からない気もするが。うん、ある。僕の場合だが、ギーゼキングの演奏は評価する。とにかくうまい。しかし感動しない。そうそう、ラフマニノフの演奏もそういった種類のひとつだ。
では反対のこと、感動するが評価しない、というのはどうだろう。素直に考えればこれはあり得ない。感動というものがすでに一種の評価を含んでいるから。いや、感動しても下手な演奏はある、という人は、どこかでありもしない標準的な技倆とかいった観念を作り上げて、自分が感動したことを信じようとしないのだ。
それよりもなによりも、音楽家達の会話は、本人さえも分からない言葉を延々と受け渡し合うだけだという情けない現実だ。そこでは音楽も自己も信じられてはいないだろう。信じられていないところには、疑いも生じまい。