季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

課題曲

2009年05月02日 | 音楽
どのコンクールもどの音大の入試も、ショパンの練習曲が1次審査にある。だれも疑問にすら思わないようだが、これも一度見直しても良いのかもしれない。

生徒が受験したり、コンクールを受けたりする。1次2次と分かれていると(もちろん3次以上あってもね)最初の練習曲でおしまいになることも多い。

そのあとの曲ではとてもよい演奏をしていても、1次を通過しない限りは意味を成さない。といって練習曲でまずい演奏をしたというわけではない。そんな経験をいやでもたくさんする。僕の生徒に限ったことではない。たいていのピアノ教師が経験しているだろう。

いかにも楽そうに弾く、いかにもゆとりありそうに弾く、あるいは誰にでもわかるようなミスをしないようにする。

たとえば講評用紙から読み取れるのはそんな消極的な態度ばかりである。その結果はどうかといえば、2次以降の演奏はどうも低調だ、といった感想がもれたりする。

ショパンの練習曲が弾けないと困るという意見ならばそれはそうと認めても良い。
でも、そもそも練習曲は曲を的確に弾くための練習でしょう、理屈をこねれば。
曲が美しく弾けているならばそれで良いではないか、という意見だってあり得るわけである。

いや、そもそもが講評用紙に堂々と!ショパンの練習曲は練習曲ですからそれらしく、なんて意味不明の文言を見かけたことだってある。

昔シュナーベルはショパンの練習曲を認めなかったそうだ。彼がどんなことを言っても彼の演奏が立派である限り頷くしかあるまい。

たとえばショパンの練習曲とバッハの平均率がセットになっているのが定番だが、バッハがどんなに上手でも、ショパンでちょっとオタオタしたら問答無用、落とされる。

はっきり言ってしまえば、バッハはお飾りなのだ。明らかな失敗は許されない、その程度。工夫に工夫を凝らせるような「無駄な」努力はしないほうが賢い。そう言いたくなる。

2次以降が今ひとつ低調だと嘆いている人たちには、せめて練習曲を弾かせる順番を変えてみるくらいの工夫をしたらどうかと提案したい。1次はまあ何でも良いから、そこで各人が音楽的だと感じる人を通してみればよい。

本当は音楽的だと感じたからには技術もそれなり以上にはあると判断するくらいの度量が欲しいけれど、音楽家はみんな臆病だからそこまでは言わない。

そのあとで、1次を通った人の中でやや覚束ない人がいないかをショパンなり誰なりの練習曲でもう一度「確認」すれば良いではないか。

僕はそれが唯一の方法だと力説しているのではない。

しかし、毎度お決まりのように「音楽的な人がいなかった」と嘆いてみせるより、なにかちょっとでも違った方法を試してみれば結果自体ずいぶん違うものになりはしないか、そう思う。

この程度の変更ならば明日にでもできる。そうではないか。


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5 コメント

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同じように思います。 (やまかた)
2009-05-08 17:51:22
 自分は演奏家ではないので演奏家の内面は想像できませんが、非常に興味深いところです。憧れのような思いも強くあります。
 音楽言語を解さない自分には分かり得ない領域が音楽の世界にはあまりにありすぎるのです。
 以前ある演奏会でメシアンの「世の終わりのための・・・」を聴いていたときには本当に、「一刻も早くこの世が終わって欲しい!」と思ってしまいました。なんで席にじっと座ってこの拷問に耐え続けなければいけないのか、と。しかし、同席していた知人は同じ演奏にいたく感激していました。もちろん演奏している方々はその曲に感銘を受けるからこそ選んで演奏しているはずです。いったい、音楽家も含めてどれくらいの人間がこの曲に深く感銘を受けるのだろうか、もしかして苦痛に思うのは自分だけなのだろうか?とステージよりもまわりの客席を観察してしまいました。
 そうかといって悩んだり落ち込んだりはまったくせず、能天気な私は演奏会後は苦痛から開放された喜びで満たされていましたが。
 メシアンはさておき、ロマン派でもいくつかの曲は私には耐えがたいものがあります。正直に申し上げますとベートーベンのいくつかの曲も・・・こんなことを音楽家が発言したら「奴は音楽を解さない似非音楽家だ」などと言われてしまいそうですね。しかし、フランソワは冗談半分か知りませんが「ベートーベンの曲は生理的に受け付けない」という過激な発言をしたとか。そう言えばグールドもポリフォニー以外は見向きもしない。しかしフランソワのベートーベンやグールドのショパンのワルツの演奏があったらそれはやはり素晴らしいのだろうと想像します。彼らは音楽を表現するための素晴らしい技術を持っているので。

※ 自分は感動できないというだけで、決してかの曲を批判しているわけではありません。同じ曲や演奏をある人は良いと言い、別の人は最悪だという、よくある話です。
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嫌いな音楽 (伊藤治雄)
2009-05-06 22:32:38
やまかたさんのコメントを拝読しました。そのジョークが興味深かったので、感想をひとこと。  
 「この音楽がたまらなく嫌いなのです」ということが意外にあり得るかもしれないとのことですが、私はプロの音楽家ならば、それはあり得ないのではないか、と考えます。何であれ、依頼されたり、指揮者などが選んだ曲を弾きこなせなくては、プロとは言えないでしょう。ここがアマチュアとの違いで、アマなら嫌いなものは無視することができますね。
 音楽家でも好き嫌いがある、というのは分かります。ソロのリサイタルでは嫌いな曲は決してプログラムに入れないでしょう。
 しかし、ソロ演奏会では絶対弾かなくても、弾ける技術をもっているのがプロではないでしょうか。プロになるために、嫌いな曲も含めて一通り広範囲の作品をさらってきているわけですね。嫌いになったのは繰り返し練習した結果かもしれませんが…。
 ある曲が嫌いでたまらないなら、その曲を(音楽的に美しく)演奏できないのではないか、というのが私の疑問です。逆に、その曲をともかく普通に演奏できてしまうならば、ただ嫌いなだけではない。作品への共感や感情移入が、どこかにあるはずでしょう。
 私の言っていることが屁理屈に聞こえたら、お許しください。音楽家の実感とは違うかもしれません。でも、こういう風な言い方をしたい、という思いがあります。(むしろ言葉の問題です。)それは、音楽家は曲に好き嫌いがあったとしても、私のようなアマチュア愛好家のそれとは違うだろう、とやっぱり考えたくなるからです。
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コンクール (やまかた)
2009-05-06 18:34:43
各々のコンクールの本来の目的がどこにあるかがよくわからないようですね。主催する側も審査する側もわからないし受ける側もわからない状態なのかもしれません。
いっそのこと、新しいコンクール・・・「コンクール」という名前から変えた方がよいかもしれませんが・・・を創ってしまうと面白そうです。
以前、アマチュアピアノコンクール入賞者のコンサートを聴きに行きました。第2回の1位受賞者の筒井一貴さんのピアノ演奏はそれは素晴らしく、また抜きん出て個性的で大変感動しました。プロの演奏家の色々な演奏会にも行きましたが、あの時ほど感動した演奏会は非常に少ないように思います。ただ、漠然と何の根拠もなく次のように思いました。一般のコンクールであの演奏は、特に見た目でひっかかるかもしれない。グリーグの小品の演奏中、身体がタコのようにぐにゃぐにゃと見たこともない不思議な動きを続けているのですが、聞こえる音楽は本当に素晴らしいのです。その動きはよく見かける演技派、自己陶酔派の動きではなく、グールドのような、自分には分かりませんが恐らく音を出すために必然的に生じる身体の中の動きなのだろうと想像します。

ちょっとそれますが、ユダヤジョークでこんなのがあります。

オーケストラのコンバス奏者がリハーサル中にたいそう苦しげでうなりながら演奏している。
指揮者は止めて、「具合が悪いのか?」と聞くと、「いいえ、大丈夫です。」と答えるのでリハーサルを再開した。
するとまた、例のコンバス奏者がさっきよりいっそう苦しげに演奏している。
指揮者は再び演奏を止め、「どうしたんだ?何か心配ごとでもあるのか」と聞くと、彼は答えた。
「心配事はありません。ただ、私は音楽がたまらなく嫌いなのです。」

これはジョークですが、「音楽」の前に「この」を入れたら意外にあり得る話ではないかと思ってしまいます。音楽家って大変ですね。コンクールでも色んな曲をまんべんなく課題にさせられた日には、自分がちっとも感動しない、価値を感じない曲もいかにもそれらしく弾かなくてはいけない。オケの団員も。

予選は全部自由課題曲、もしくは作曲家限定で曲はすべて自由にするなどすると色々な人材を発掘できる可能性が高そうですね。
既存のものを変えるよりも新しく作ってしまった方がずっと簡単だとよく言いますが、趣旨に賛同する人が何人か集まれば、そして運営面の創意工夫次第では実現できるかもしれませんね。
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審査 (重松 正大)
2009-05-04 20:19:47
まあ、技術と内容を分けて考えては何も始まらない。でも今はそこに深入りはしない。

審査員はね、伊藤君が言うように何も感じてはいない、たいていの場合。辛いというより退屈しているのさ。

コメントや判断が主観的になるのは構わない。むしろ客観的な判断とはいったい何だ、と思う。主観的に書かれたものから主観的に冷たさを(例えばね)受け取ればよいのだろう。

まあ、本文で僕が書きたかったのは、すべてを練習曲だけでふるいにかけるような一面的なやり方はそろそろ卒業したほうがよろしかろうということだけです。
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審査 (伊藤治雄)
2009-05-03 23:23:55
「ミスをしない」で弾くということと、「音楽的」に弾くということは、同じでないでしょうね。技術と音楽性のどちらを重んずるか、という問題かな。いや、音楽的に弾くのが技術だ、と重松君は言うかもしれないが…。
 難曲を美しく演奏しなければならない受験する人たちも大変だが、課題曲を何十回と続けて聞かなければならない審査員は何を感じているのだろう。ひどく辛い思いをしているのではなかろうか…。それは同情するにしても、講評が重松君が挙げているような、ひとこと、ふたことの主観的なコメントで済むのかな、とも思う。
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