このブログを読んだり、レッスンを受けている若い生徒から「先生の言っていることは時々分からない」と正直な感想をきく。僕はそういう正直な感想を言う人は好きである。
難しい理由は、第一に僕がうまく表現できないことにある。もうひとつは、世の中には問題自体が難しくて、説明しようとするとどうやっても難しくなる場合がある。
ある人と地方で講座をたのまれて行ったことがある。対象は小学生から高校生あたりだった。同行した人はある大学の教授である。なめらかな口調と慣れた話題のさばき方であった。
淀みない口調で言われたことがらのうちに、次のようなのがあった。「音楽は時間芸術です。みなさん、どうか時間芸術の範疇内で弾いて下さい」
僕は何のことやら分からなかった。正直に言えば、僕は見当がつくものの、聞いている人のだれ一人分かるまいと思った。「僕は馬鹿だから君の言ったこと分からないよ、簡単に言ってくれないか」後でそう訊ねた。
何があっても演奏を中断しては、弾き直してはいけないということだ、と彼は説明した。
では、そう言った方がよっぽど分かりやすいだろう。なぜ時間芸術の範疇という難解な表現をするのだ。そもそも時間芸術なんていう言い方からして怪しげだ。
弾き直したらまずいくらい、子供でも知っている。それをわざわざ分からなくするとは、その了見が分からない。それとも子供でも知っていることを、子供にも分かる言い方をするにはプライドが許さないか。
亡くなった園田高弘さんと数回一緒に仕事をしたときも似たような経験をした。園田さんは自分にも他人にも厳しい人だったようだが、僕のような素性の知れぬ、上昇志向のまったくない人間に対しては、結構気を遣って、冗談のひとつも言ってくれた。
ある時「君、ショパンのスケルツォは拡大方で書かれていますからね」と言った。これもコンクール審査の折りで、そこでの受験者の演奏に関してだった。これにも見当はつく。僕もアマチュアとはいえ、音楽についてはプロ並みに、あるいはもっと真剣にやった部分もあるのさ。しゃくに障ったというより、僕の冗談好きゆえ「拡大コピーなら知っていますが」とまぜっかえした。
「一小節を一拍にとることですよ」芸術院会員は重々しく答えた。浅学な僕はそれが拡大方という立派な名前をもった学術用語であることを知らなかった。きっと素性の分からぬ奴は知識の方も大したことはないと軽蔑しただろう。でもスケルツォは一小節を一拍にとるくらいのことは知っている。
この調子なら、人間は何のために生きるのか、とかミミズと人間は何が違うのかとかいった大問題についての言い回しは、とてつもないことになりそうだ。