江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

新説百物語巻之四 10、渋谷海道石碑の事  渋谷街道の石碑

2023-05-08 21:32:31 | 新説百物語

新説百物語巻之四 10、渋谷海道石碑の事   渋谷街道の石碑

                            2023.5

京の東山の渋谷街道(しぶたにかいどう)の側にひとつの石碑がある。
洛陽牡丹新吐蘂(らくようの ぼたん あらたに ずいを はく)と七文字が彫り付けられていた。
名もなければ、何の為に立てたのかも、判らなかった。
或いは、遊女の塚ともいい伝えられてもいたが、本当のことを知っている人はいなかった。

すこし前に、知恩院町古門前に黒川如船と言う人がいた。
風流の楽人であって、茶香あるいは鞠楊弓に日を送っていた。
八月の事であったが、湖水の月を見ようと友達をかれこれと誘い合って、石山寺にいった。

そして、一宿し、又あすの夜の月の出てくるのを見て、京のかたへ帰っていこうとした。

もと来た道を戻るのも、つまらないだろうと、渋谷街道をつたって帰って行った。
最早、夜も子の刻過ぎて、そろそろ丑の刻にもなろうかと思う時刻であったが、街道のはたに、石に腰かけている80代位の老翁が一人で、たばこをくゆらせていた。
その火をかりて、たばこに火をつけ、
「どちらの人でございますか?」と尋ると、
「私は、このあたりの者ですが、月のあまりに美しいので、このように眺めています。」と答えた。

「そらならば、尋ねたい事がございます。ここの石碑は、誰の石碑でございますか?」と尋ねた。
すると、老人はほほ笑んで、懐中より書いたものを取出して、如船に与えた。
「持ち帰って、これを見なさい。」と言って、たちまちに姿が見えなくなった。

持ち帰って見れば、詩と発句とであった。
  牡丹開尽帝城外 花下風流独倚欄    (牡丹 開き尽くす 帝城の外。 花下の風流 ひとり欄による)
  老去枝葉埋骨後 人間共是夢中看  (老い去りて 枝葉 埋骨の後。 人間 共に是 夢中に看る)
                
それと名を  いはぬ(言わぬ)や 花の  ふかみ草

詩のうらに牡丹花老人と書かれていた。
又、発句(俳句)にも、ふかみ草とあった。
それで、もしかしたら、その老人の石碑ではないのか、と如船は言った。

その詩句を書いたものを、まさしく黒川氏が所持している、とのことである。

 

 


新説百物語巻之四 9、碁盤座印可の天神の事 

2023-05-08 21:29:30 | 新説百物語

新説百物語巻之四 9、碁盤座印可の天神の事

                     2023.5

又、京の五条の東に手習いの指南をする何某と言う者がいた。

いつも、大いに天満宮を信仰していた。

ある夜の夢に、正しく天神様が現れて、こうおっしゃった。
「我は、これ天満天神である。明日、高辻の柳馬場に来なさい。」と、言うかと思えば、夢からさめた。

ありがたく思って、未明に高辻の柳馬場に至ったが、まだ、どの家の表の戸も開いてなかった。

しばらく休んでいると、ようやく角の家一軒が戸をあけた。
ふと見入ると、夢に見たのとすこしも違わない立像の天神様の像があった。
高さは、壱尺ばかりであって、碁盤の上に立っていた。

それを買って帰って、猶々信心をしたが、霊験いちじるしく、そのあらたかな事は度々であった。

手に巻物一巻を持っているので、碁盤座印可の天神と名付けて奉っていた。

普通の民家に置いておくのも畏れ多いと考えて、大龍寺の辻子の寺へあづけ奉った。

先年、開帳があった天神様の尊像は、この天神の事である。


新説百物語巻之四 8、仁王三郎脇指の事

2023-05-08 21:14:49 | 新説百物語

新説百物語巻之四 8、仁王三郎脇指の事

                       2023.5
京の西洞院に小林良清と言う人がいた。

裕福な人であって、方々の御大名がたの御用等をうけ給わっていた。

常々江戸へ通っていたが、ある年、御出入りしている御大名に、このように言われた。
「いかに良清、男と生まるたからには、武士であれ、町人であれ、たしなむべきは刃物である。
お前が、いつも持っている脇ざしは、どんなものだ?」と御尋ねがあった。

良清が答えた。
「私風情の者の脇ざしですので、特別高級な刃物も持っておりません。
しかしながら、先祖代々相伝わっている一尺六寸の刀がございます。
ほそ身で、銘は仁王三郎と御座います。」と。

「それを見せよ」と言って、殿様が直(じか)に御らんになった。
成程、正真正銘の仁王三郎で、見事なものであった。

「これで、ためし切りした事があるか?」と質問された。
「いいえ、試したことは、ございません。」と答えた。

それでは、試させてあげようと、
「幸いに罪人がいる。刀をおいて行け。
その代わりに、帰り道には、この刀をもっていけ。」と言った。
殿様から、御脇指(わきざし)を拝領して、自分の脇ざしは、預けて、宿所に帰った。

良清は、宿へ帰って寝た。
夢に不動尊が、目の前に現れて、
「我は、汝が信心して常に懐中する所の一寸三分の目黒不動のうつしの金仏である。
お前が、脇指(わきざし)を試し斬りしよう、と預けた所の罪人は、たいして切るべき程の罪ではない。
そこの物を逢う下女が、小袖の綿に針を忘れたのを、主人が怒って、押しこめ置いたものである。
この女は、特に信心深いものであって、長年、我をうやまってきた。
願わくは、明日の朝早く行って命を救って来てほしいものだ。
これは、大いなる善根である。
その代わりに、お前に降りかかる災難をのがれさせてあげよう。
脇ざしは、試し斬りしてはいけない。
大事な名作である。
かならず、秘蔵せよ。」
と、言い終わろうとするかと覚えて、夢からさめた。

良清は、朝早く起きて、すぐに御出入りしている殿様の所へ参上した。
そして、夢のお告げなどを話し、さまざま御わびをして、その女をもらい帰った。

そして、その女を知っている者に、嫁にやった。

その年も過ぎて、明年五月の頃、又々江戸へ下った。

四五日してから、不動尊が夢枕に立って、
「去年は、思いもよらぬ善根をしたので、
お前に災いが来るのを教えよう。
明日の夕方、ここに火事がおこり、類焼が多く大火となろう。
その備えをしておきなさい。」
と、言われてから夢がさめた。

今日は、どうしても外出しなければならない日なので、近所の親しい人にも、夢のお告げを話して、道具などをかたづけさせ、自分もその用意をして、朝早くから出かけた。

夕方、御出入りのお屋敷で御咄しなどをしていたが、火事が起こった、との連絡がきた。
よくよく聞いてみると、宿所の近所との事であった。馬を拝借して、すぐに帰ったが、最早火事は終わっていて、宿の近所は、一軒も残らず焼けうせていた。
しかし、十分に準備していたので、良清の荷物はひとつも焼け失せなかった。
知人達は、怪我もしていなかった。

近所の者も、夢のお告げを信用しなかった者は、家財を失って損をした、とのことであった。

仁王三郎の脇ざしと金仏の不動尊は、今に至っても、その家では持ち伝えている。

この話を伝えた人は、まさしくその脇差しを手に取った見た、とのことである


新説百物語巻之四 7、火炎婆々といふ亡者の事

2023-05-08 21:12:47 | 新説百物語

新説百物語巻之四 7、火炎婆々といふ亡者の事

                     2023.5
北国に何寺とか言う寺があった。
その檀家に角山何某と言う者があった。

その母親は普段から、ケチで欲深で無慈悲であった。六十をすぎたが、世間を恐れず、慈悲善根(よいこと)をしなかった。
ただ欲ふかく、わづかづつのお金を貯める事をのみ一生の楽しみにしていた。

しかし、ある時、
「昨夜は、ふしぎな夢を見て、今も体が痛み、起きあがることも出来ない。」と話した。
「その夢の様子は、このようでした。
死んだとは、思わなかったが、正しく絵に描かれた地獄の様な所に行った。
そして、鬼のような蛇のような、恐ろしいのが出てきて、私をひったてた。
それで、その時はじめて仏の事を思い出して、『南無最上寺の阿弥陀如来たすけ給え』と言うと、かの恐ろしい者が、こう言った。
『いくら仏を念じても、お前の罪は、とても重いのだ。せめて貪欲の罪を軽くしてやろう。』と言って、舌を抜けば、舌は金貨と成り、目をほじくり出せば、目は銀子(ぎんす:銀貨または通貨一般)となった。
平たい板で、体の前後ろをはさみ押しつけられると、全身から、はらはらと金銀が落ちて来た。
その苦しみは、たとえようも無かった。
それでも、猶々 阿弥陀如来を信じると思えば、夢がさめた。」と、ふるえながら話をした。

それより病みついて、なにも食べず、日夜、最上寺へ行きたい行きたい、とばかり言って、西の方の窓をあけて顔をつき出し、亡くなった。

その夜、最上寺の納所坊の御堂に、灯明をつけに行くと、東の方から火炎のようなものが飛んで来て、堂の庭にとどまると見えた。
その中に白髪の老女の首が、火のように成って、口から火炎を吐きながら飛ぶのをみて、納所坊は、わっと言って倒れた。

しばらくして、老女が死んだ様子を最上寺へつたえに来た、と栂井(とかい)という姓の人が語った。


新説百物語巻之四 6、長命の女の事

2023-02-27 23:29:26 | 新説百物語

新説百物語巻之四 6、長命の女の事

                     2023.2

京都四条に檜皮屋(ひわだや:ヒノキの皮の屋根葺き職人)がいた。
近江の者であって、京へ奉公に出て、年季奉公を無事に終えて、帰郷した。

その父親は、近江に住んでいたが、六十歳の時に五十歳になる女房をむかえた。
女房が五十四歳で初産をした。
その産まれたのが、この檜皮屋(ひわだや:屋根職人)である。
それより段々と十人の子を設けた。

宝暦十二の年、この長男である檜皮屋は、八十四歳であった。
父はすでに亡くなり、母は百三拾七歳で、存命であった。
しかし、六十歳ばかりに見えた、とのことである。