檮原(ゆすはら)の河童
2020.3
(原題は、「檮原の猿猴=えんこう」)
今は昔、高岡郡檮原村(ゆすはらむら:今は、町)の山中で、庄屋の下男が小川の縁(へり)の柳の樹に馬を繋いでおいた。
その間に、小川より一匹の猿に似た化物があらわれた。
馬の綱を解いて、自分の体に巻き付け、そろそろと川の中へ引込んで行こうとした。
すると、馬は驚いて、一声高くいななき、躍り上がったが、その際にその化物も川から引き上げられ、そのまま引摺られて庄屋の屋敷まで来た。
庄屋の屋敷で大勢で、怪物を捕えた。
良く見ると体は猿に似て茶褐色で、皮膚はぬめっていて、左手が非常に長く、頭の鉢が窪んでいて、目が光り、聞いたことも無い化物であった。
庄屋は、怒って、一刀のもとに切り殺そうとしたが、化物は人の言葉を話した。
平謝りにあやまり、
「私は、この川に棲む河童でございます。
今後は、決して悪事を致しません。
御許し下さい。」と詑びいった。
それで、一札の詑証文を書かせて、放してやった。
その翌朝、不思議にも、庄屋の門のカギに、沢山の川魚がかけてあった。
その翌朝も同じように、沢山の川魚がかかっていて、毎朝欠かさなかった。
遂には、ある朝にはあまりに重くて、カギが折れて魚は地面に散乱していた。
庄屋は、これはカッパの恩返しであろうと、推察した。
その次の晩は、鹿の角のカギを作り、之なら大丈夫と思って用意した。
しかし、夜が明けて見ると、魚は一もかかっていなかった。
それ以来、この小川には、溺死者や種々の怪異は跡を断った。
猿猴が鹿の角を嫌っているので、川へ入るのに鹿の角を持っていると、猿猴に引きずり込まれる憂いがない、という風習も、このことから始まった、と伝えられている。
2020.3
(原題は、「檮原の猿猴=えんこう」)
今は昔、高岡郡檮原村(ゆすはらむら:今は、町)の山中で、庄屋の下男が小川の縁(へり)の柳の樹に馬を繋いでおいた。
その間に、小川より一匹の猿に似た化物があらわれた。
馬の綱を解いて、自分の体に巻き付け、そろそろと川の中へ引込んで行こうとした。
すると、馬は驚いて、一声高くいななき、躍り上がったが、その際にその化物も川から引き上げられ、そのまま引摺られて庄屋の屋敷まで来た。
庄屋の屋敷で大勢で、怪物を捕えた。
良く見ると体は猿に似て茶褐色で、皮膚はぬめっていて、左手が非常に長く、頭の鉢が窪んでいて、目が光り、聞いたことも無い化物であった。
庄屋は、怒って、一刀のもとに切り殺そうとしたが、化物は人の言葉を話した。
平謝りにあやまり、
「私は、この川に棲む河童でございます。
今後は、決して悪事を致しません。
御許し下さい。」と詑びいった。
それで、一札の詑証文を書かせて、放してやった。
その翌朝、不思議にも、庄屋の門のカギに、沢山の川魚がかけてあった。
その翌朝も同じように、沢山の川魚がかかっていて、毎朝欠かさなかった。
遂には、ある朝にはあまりに重くて、カギが折れて魚は地面に散乱していた。
庄屋は、これはカッパの恩返しであろうと、推察した。
その次の晩は、鹿の角のカギを作り、之なら大丈夫と思って用意した。
しかし、夜が明けて見ると、魚は一もかかっていなかった。
それ以来、この小川には、溺死者や種々の怪異は跡を断った。
猿猴が鹿の角を嫌っているので、川へ入るのに鹿の角を持っていると、猿猴に引きずり込まれる憂いがない、という風習も、このことから始まった、と伝えられている。
土佐風俗と伝説 より