天狗にさらわれて、帰ってきた話
原題「天狗に雇われる」江戸 諸国里人談
2024.5
正徳のころの事である。江戸神田鍋町の小間物を商う家の十四五歳の調市(でっち:丁稚)は、正月十五日の暮がたに銭湯へ行くと言って、手拭などを持って出て行った。
少しして裏口にたたずむ人がいた。
誰だ、ととがめると、かの調布(でっち)であった。
股引、草鞋(わらじ)の旅すがたで、物入れ袋を杖にかけて、室内に人って来た。
主人は賢い男であって、おどろく体はなくて、
「まづ草鞋をぬいで、足を洗え。」
と言った。
すると、丁稚は、かしこまって足を荒い、台所の棚より盆を出し、袋をから山芋を取り出した。
これを、「土産です」と言った。
主人が言った。
「今朝は、どこから来たのか?」
「秩父の山中を今朝出ました。永々の留主、ご迷惑をかけました。」と言った。
「いつ家を出たのか?」と問うと、
「去年の十二月十三日に、年末の媒はらいをした夜に、秩父の山に行って(さらわれて)、昨日までそこに居りました。
御客に、毎日給仕をしていました。
さまざまの珍しい物を頂きました。
お客は、みな御出家(坊さんなど)でした。
昨日、こう言われました。
「「明日は、江戸へ帰してあげよう。手みやげに、山芋を掘って行け。」」と言われましたので、山芋を掘って、持って来ました。」などと語った。
その家には、この丁稚が、師走に出ていった事を知っている者がいなかった。
彼の代わりに、何者かが丁稚に化けていたことになるが、今になってそのことが知れた。
その後は、何の事もなく、それきりですんだ。
「諸国里人談」巻之二 妖異部 より