100歳になるおばあさんの葬式がありました。
昨日、火葬出棺の時、花が入れられ蓋を閉めようとすると、喪主の長男さんが
「おばあさん(お母さん)あの世でおじいさんが待ってるよ」
「迷わずにたどり着いてね」
この言葉に周りの身内は思わず涙ぐみました。
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これから、おばあさんは長い死出の旅に旅立ちます。
棺に入るときには死に装束、お遍路さんのような格好をします。
死出の山、三途の川、閻魔さんのところで審判され次の生が決まると言われます。
つまり、そのような物語を作って、亡き人が今どこまで行ったか、
無事についただろうかと、こちら側(生)にいる人が、想像してあげることは
豊かな精神文化が基板となっているからできることです。
死出の旅路は一人の旅路。苦しく長い旅路です。
その背中を押してあげたり、暗い足元を照らしてあげるのが
追善供養のチカラです。
そして49日間の旅を終え、無事おじいさんの待っているあちらの世界にたどり着くことができた時、そこに感動の再会が待っています。
オーよく来たなー(おじいさん)
ようやく着きましたよ。お待たせしましたね。(おばあさん)
のような会話が交されるのでしょうか?
ただひとつ、つじつまが合わない部分が出てきます。
このおじいさん、亡くなったのは40年前。60才くらいでしょうか。
その年令に100歳のおばあさんが「お待たせしました」と現れるわけですから、
おじいさんにとっては、未来から来た年をとった妻ということになります。
この人ダレ?と思うかもしれません。
この矛盾を払しょくするため、私はこのように考えるのです。
感動の再会を果たす直前、おばあさんは浦島太郎のように煙が足元からモクモク
わき起こり、あっという間に40年若返る。
どうですか。これで感動の再会が実現できるのです。
このように想像してあげることが、亡き人を偲び冥福を祈ることにつながる。
それはそのまま、生きている人の安らぎにも通じるのだと思います。
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