(内容は自宅介護2の続きです)
全面的な介護が必要になった母親と、その介護の中心的な役割の父親も78才。
典型的な老老介護です。
そんな両親の生活は、なんとか綱渡り状態ながら2年程はそれなりに進んだが・・。
父親の気力が段々と落ちてくるのを感じるようになり、大阪から実家に帰って、月に一週間程度いてる私に愚痴るように・・・。
その原因は母親の変化だった。
私がいてる時に父親は自分の健康診断や、チョットした買い物に出かけます。
その父親が留守の時に母親が私に言うのです。
「お父ちゃんに女の人が居る。時々帰ってこない。あんた、知ってるだろ???」
確かにベットで寝たきりになると壁の向こうの事さえ解らない。全てが想像の世界です。
自分が生きて行くには絶対に欠かせない亭主(父親)、誰かにとられてしまったら生きて行けない。
そんな不安にかられるのだろうか・・・・。
もちろん、くたびれた爺さんの父親に女が出来るわけも無い。
父親にしてみれば・・・こんなに頑張ってるのに、なんでそんな事を言うんだ・・・。
横から見ていると、嫌だろうがそんなに気にすることでも無いんじゃないか・・・と思いますが・・。
夫婦とか親子とか関係が近いほど些細な事に腹が立つ と言う事をイヤと言うほど経験する事になります。
そんな状態の両親をどうするか・・・子供4人の話しあいは毎日の様に。
あって話をするには距離がありすぎる、そんな時に役に立ったのがメールでした。
全員に同時に発信することで、考え方など情報を共有できる事が出来た。
私以外はそれぞれ家を持ち、その子供たちもそれぞれの地で活躍している。
長男も長女も自宅のすぐ近くにマンションを借りて、そこに両親を住ませれば見ることが出来る・・・そんな感じの話です。
私の両親は絶対に今の地を動く事はしないと確信していたが、誰かが実家に帰って両親の面倒を見るなんて事は現実的に無理な話だと言う事も解っていた。
しかし、私は兄弟の意見を否定はしなかった。それは父親が先に亡くなったら、母親は子供の所に行く可能性が有ると思っていたからです。
父親は友人知人も多く、今の地を離れたくないし。兄嫁や娘婿と言う義理の子供たちに迷惑をかける事を嫌っていた。
その点に関してはかなり強固な意思を持っていましたが、その強さを他の兄弟は実感として理解できなかったようだ。
毎日メールの交換で意見を出したが結論が出ない。
そこで、今まで具体的な考えを言わなかった末っ子で一番若い私のプランです。
現状は寝たきりの母親を見ているのは・・父親・ヘルパー・看護師・かかり付けの医者。
その父親のサポートをしているのが私。
この状態にプラス・・長女が月に何日か実家に来て寝泊り出来ないだろうかと。
何故そんな提案をしたかと言うと・・
父親は長女が大好き。長女自身も話し合いの中で、その気持ちがあると感じられたからなんです。
他の兄弟は負担が増える訳じゃないので、、、それで大丈夫なら・・と同意するのは流れです。
長女も快諾してくれて、今までのスタッフに長女が加わった。
私は長女と日程を調整して、2人がかぶらないように。
もちろん今までも長女は実家に帰ってきていたのですが、それの日程を決めて長くしたのです。
決める事により、その日を当てにする事が出来るのは大きい。
長女が実家で寝泊りして両親の面倒を見る事は予想外の効果があった。
大好きな長女がいてる間に父親は心身ともに安らいだのでしょう。
付かれきっていた78才の老人が、傍目にも解るくらい元気になった。
我が親ながら、その回復力にはビックリさせられました。
兄弟4人のメール交換も続き、結果的には親のおかげで兄弟姉妹が一層解り合える様になったと思います。
兄弟の子供たちもその輪の中に入り、この両親を中心とした「家族」って感じです。
新しい文化が消えそうになった感覚を取り戻してくれました。
綱渡りのような介護生活ですが、それなりに安定した日々が続きました。
もちろん高齢者の両親、どのように変化するか解らない、その変化の内容で私達に課せられる内容も違ってくる。
色々な状況を想定して、それなりに心構えと準備をする。
母親が階段から落ちて始まった介護生活
四年が経ち父親も80才になった。
その年の12月は私も長女も忙しく、父親に「今年の年末・年始はどうかなぁ???」と・・・。
父親は世話になっていると言うのも有ったのか、快く言った。
「お父ちゃんは調子ええ、お母ちゃんも大丈夫。ヘルパーさんも来てくれるし、年末は忙しいだろうし正月もそっちでゆっくりしたらええ。」
その言葉に私も長女も甘えた・・・。
全面的な介護が必要になった母親と、その介護の中心的な役割の父親も78才。
典型的な老老介護です。
そんな両親の生活は、なんとか綱渡り状態ながら2年程はそれなりに進んだが・・。
父親の気力が段々と落ちてくるのを感じるようになり、大阪から実家に帰って、月に一週間程度いてる私に愚痴るように・・・。
その原因は母親の変化だった。
私がいてる時に父親は自分の健康診断や、チョットした買い物に出かけます。
その父親が留守の時に母親が私に言うのです。
「お父ちゃんに女の人が居る。時々帰ってこない。あんた、知ってるだろ???」
確かにベットで寝たきりになると壁の向こうの事さえ解らない。全てが想像の世界です。
自分が生きて行くには絶対に欠かせない亭主(父親)、誰かにとられてしまったら生きて行けない。
そんな不安にかられるのだろうか・・・・。
もちろん、くたびれた爺さんの父親に女が出来るわけも無い。
父親にしてみれば・・・こんなに頑張ってるのに、なんでそんな事を言うんだ・・・。
横から見ていると、嫌だろうがそんなに気にすることでも無いんじゃないか・・・と思いますが・・。
夫婦とか親子とか関係が近いほど些細な事に腹が立つ と言う事をイヤと言うほど経験する事になります。
そんな状態の両親をどうするか・・・子供4人の話しあいは毎日の様に。
あって話をするには距離がありすぎる、そんな時に役に立ったのがメールでした。
全員に同時に発信することで、考え方など情報を共有できる事が出来た。
私以外はそれぞれ家を持ち、その子供たちもそれぞれの地で活躍している。
長男も長女も自宅のすぐ近くにマンションを借りて、そこに両親を住ませれば見ることが出来る・・・そんな感じの話です。
私の両親は絶対に今の地を動く事はしないと確信していたが、誰かが実家に帰って両親の面倒を見るなんて事は現実的に無理な話だと言う事も解っていた。
しかし、私は兄弟の意見を否定はしなかった。それは父親が先に亡くなったら、母親は子供の所に行く可能性が有ると思っていたからです。
父親は友人知人も多く、今の地を離れたくないし。兄嫁や娘婿と言う義理の子供たちに迷惑をかける事を嫌っていた。
その点に関してはかなり強固な意思を持っていましたが、その強さを他の兄弟は実感として理解できなかったようだ。
毎日メールの交換で意見を出したが結論が出ない。
そこで、今まで具体的な考えを言わなかった末っ子で一番若い私のプランです。
現状は寝たきりの母親を見ているのは・・父親・ヘルパー・看護師・かかり付けの医者。
その父親のサポートをしているのが私。
この状態にプラス・・長女が月に何日か実家に来て寝泊り出来ないだろうかと。
何故そんな提案をしたかと言うと・・
父親は長女が大好き。長女自身も話し合いの中で、その気持ちがあると感じられたからなんです。
他の兄弟は負担が増える訳じゃないので、、、それで大丈夫なら・・と同意するのは流れです。
長女も快諾してくれて、今までのスタッフに長女が加わった。
私は長女と日程を調整して、2人がかぶらないように。
もちろん今までも長女は実家に帰ってきていたのですが、それの日程を決めて長くしたのです。
決める事により、その日を当てにする事が出来るのは大きい。
長女が実家で寝泊りして両親の面倒を見る事は予想外の効果があった。
大好きな長女がいてる間に父親は心身ともに安らいだのでしょう。
付かれきっていた78才の老人が、傍目にも解るくらい元気になった。
我が親ながら、その回復力にはビックリさせられました。
兄弟4人のメール交換も続き、結果的には親のおかげで兄弟姉妹が一層解り合える様になったと思います。
兄弟の子供たちもその輪の中に入り、この両親を中心とした「家族」って感じです。
新しい文化が消えそうになった感覚を取り戻してくれました。
綱渡りのような介護生活ですが、それなりに安定した日々が続きました。
もちろん高齢者の両親、どのように変化するか解らない、その変化の内容で私達に課せられる内容も違ってくる。
色々な状況を想定して、それなりに心構えと準備をする。
母親が階段から落ちて始まった介護生活
四年が経ち父親も80才になった。
その年の12月は私も長女も忙しく、父親に「今年の年末・年始はどうかなぁ???」と・・・。
父親は世話になっていると言うのも有ったのか、快く言った。
「お父ちゃんは調子ええ、お母ちゃんも大丈夫。ヘルパーさんも来てくれるし、年末は忙しいだろうし正月もそっちでゆっくりしたらええ。」
その言葉に私も長女も甘えた・・・。