売れたら天国、売れなければ地獄。
昭和54年 1979年に入社した会社はステレオラジオカセットの訪問販売(^^)
40歳前半。私は消費者金融会社のエリアマネージャーをしていました。
その時の担当エリア内に尼崎支店もありました。
仕事上、月に一回、二回は支店へ。
阪神尼崎駅を降りると自然と営業していた頃を思い出していました。
また三宮から大阪にある支社へ行く時、時々、阪神電車も使ってましたが。
尼崎から大阪の区間で見える風景。
懐かしくもありでした。
毎日毎日。
昭和54年12月。私は阪神杭瀬駅周辺を営業していました。
年末の杭瀬商店街は人が賑わい活気がありましたね(^^)人々の顔は幸せな笑顔ばかりに見えたものです。売れないセールスマンの私は飛び込み恐怖症になってしまい。事業所を訪問することすら出来ない状態。
年末の杭瀬商店街を何度も何度も往復したり。
雨の時など。アーケードがあり。
商店街ですから風も少なく人の活気やお店から出る暖房を頼りに歩く🚶♂️歩く🚶♂️だけ。
19時になると駅まで行き営業所へ戻るんです。
もう。いいか!
何やってんねん!俺は。
もう、こんな会社辞めたらええのに!と自分に言うのですが。
なーーんか。今は辞めたらあかん!って心の声が聞こえてきて。
ここで辞めたら、これからの人生、駄目になるぞー!って。
杭瀬駅で大阪スポーツっていう新聞を買ってホームのベンチに座るんです。
電車が来ても二、三本は乗らずベンチで新聞を読むんです。
え?何でって、少しでも遅く帰社した方が
頑張ってたけど売れませんでした。って言い訳出来るから。
財布の中には小銭しかない時もありました。
梅田までの電車代金だけの時も。
ホンマ、何やってんねん!他にちゃんと給料く」る会社なんぼでもあるんですけど。
親父からも
『もうやめろ!』って何度言われたことか。
年末の杭瀬商店街はクリスマスソング♪が流れ商店街からは威勢の良い声でお客に声をかける商店のオッチャン。
普通ならウキウキなのに。
私は寂しい年末年の瀬。
あれから39年が経ちました。
でも。ラジカセ訪問販売は、その後の私の人生の糧となり基礎となりました(^^)
昭和54年 1979年に入社した会社はステレオラジオカセットの訪問販売(^^)
40歳前半。私は消費者金融会社のエリアマネージャーをしていました。
その時の担当エリア内に尼崎支店もありました。
仕事上、月に一回、二回は支店へ。
阪神尼崎駅を降りると自然と営業していた頃を思い出していました。
また三宮から大阪にある支社へ行く時、時々、阪神電車も使ってましたが。
尼崎から大阪の区間で見える風景。
懐かしくもありでした。
毎日毎日。
昭和54年12月。私は阪神杭瀬駅周辺を営業していました。
年末の杭瀬商店街は人が賑わい活気がありましたね(^^)人々の顔は幸せな笑顔ばかりに見えたものです。売れないセールスマンの私は飛び込み恐怖症になってしまい。事業所を訪問することすら出来ない状態。
年末の杭瀬商店街を何度も何度も往復したり。
雨の時など。アーケードがあり。
商店街ですから風も少なく人の活気やお店から出る暖房を頼りに歩く🚶♂️歩く🚶♂️だけ。
19時になると駅まで行き営業所へ戻るんです。
もう。いいか!
何やってんねん!俺は。
もう、こんな会社辞めたらええのに!と自分に言うのですが。
なーーんか。今は辞めたらあかん!って心の声が聞こえてきて。
ここで辞めたら、これからの人生、駄目になるぞー!って。
杭瀬駅で大阪スポーツっていう新聞を買ってホームのベンチに座るんです。
電車が来ても二、三本は乗らずベンチで新聞を読むんです。
え?何でって、少しでも遅く帰社した方が
頑張ってたけど売れませんでした。って言い訳出来るから。
財布の中には小銭しかない時もありました。
梅田までの電車代金だけの時も。
ホンマ、何やってんねん!他にちゃんと給料く」る会社なんぼでもあるんですけど。
親父からも
『もうやめろ!』って何度言われたことか。
年末の杭瀬商店街はクリスマスソング♪が流れ商店街からは威勢の良い声でお客に声をかける商店のオッチャン。
普通ならウキウキなのに。
私は寂しい年末年の瀬。
あれから39年が経ちました。
でも。ラジカセ訪問販売は、その後の私の人生の糧となり基礎となりました(^^)