世界の誰々と言えば、「世界のクロサワ」「世界の三船」「世界の王」とかがパッと浮かぶ。
他にはと考えると、黒川紀章、坂本龍一、小澤征爾、山下泰裕、などが「世界の」という形容詞をつけてもおかしくない日本人かもしれない。
最近ではイチローや北野武にも世界のとつけて表現する人がいるが、ここまでくらいはいいけどあまり「世界の」を安売りし過ぎると重みがなくなってくる。
「世界の」とは世界にも通用するとか、日本を代表するようなとかの意味が込められてそう呼ぶ分けであるが、それはあくまで第三者が呼ぶものである。
今お笑い界で人気が出て来ているのが「世界のナベアツ」。
芸名に「世界の」と付けてしまえば本来の意味とは関係なく司会者もそう呼ばなくてはならないし、新聞はじめ活字にも全部「世界の」という表記がなされる。
気づくようで誰も気がつかなかった盲点だったこのネーミング。
エドはるみ風に言えば「付けてしまえばこっちのものだわネーミングー!」
確かに3の倍数のネタは面白いし笑えるけど、何も知らないご年配の人がいきなりテレビで見たら引いてしまう様なネタではある。
しかも名前が「世界のナベアツ」
こんなのが「世界の」?
まともに考えてしまうと腹の立つ名前である。
おまけにどっちが先に付けたのか知らないが、「世界の梅沢」なんてピン芸人もいる。
まっ、勝手にやってもらいたいが、これも現在のお笑いブームの勢いなのだろうね。
よく「うちのカアチャンは世界一なんだよ」とか身内の自慢をする時に恥ずかしげもなく口にする人がいるが、実際に世界中の何万人のカアチャンと比べて言ってるんだろか聞いてみたい。
世界一というのは1人しかいないわけで、その時点で世界中のカアチャンは2位以下という理屈になる。
ということは「世界のナベアツ」同様、先に言ったモン勝ちということである。
徐々にその知名度を上げ、テレビへの露出度が増してきた「世界のナベアツ」がこれ以上有名になれば、御本家の「「世界のナベサダ」こと渡辺貞夫氏の方が恥ずかしくて、「もうそう呼ばないで」なんてことになりかねない。
他にはと考えると、黒川紀章、坂本龍一、小澤征爾、山下泰裕、などが「世界の」という形容詞をつけてもおかしくない日本人かもしれない。
最近ではイチローや北野武にも世界のとつけて表現する人がいるが、ここまでくらいはいいけどあまり「世界の」を安売りし過ぎると重みがなくなってくる。
「世界の」とは世界にも通用するとか、日本を代表するようなとかの意味が込められてそう呼ぶ分けであるが、それはあくまで第三者が呼ぶものである。
今お笑い界で人気が出て来ているのが「世界のナベアツ」。
芸名に「世界の」と付けてしまえば本来の意味とは関係なく司会者もそう呼ばなくてはならないし、新聞はじめ活字にも全部「世界の」という表記がなされる。
気づくようで誰も気がつかなかった盲点だったこのネーミング。
エドはるみ風に言えば「付けてしまえばこっちのものだわネーミングー!」
確かに3の倍数のネタは面白いし笑えるけど、何も知らないご年配の人がいきなりテレビで見たら引いてしまう様なネタではある。
しかも名前が「世界のナベアツ」
こんなのが「世界の」?
まともに考えてしまうと腹の立つ名前である。
おまけにどっちが先に付けたのか知らないが、「世界の梅沢」なんてピン芸人もいる。
まっ、勝手にやってもらいたいが、これも現在のお笑いブームの勢いなのだろうね。
よく「うちのカアチャンは世界一なんだよ」とか身内の自慢をする時に恥ずかしげもなく口にする人がいるが、実際に世界中の何万人のカアチャンと比べて言ってるんだろか聞いてみたい。
世界一というのは1人しかいないわけで、その時点で世界中のカアチャンは2位以下という理屈になる。
ということは「世界のナベアツ」同様、先に言ったモン勝ちということである。
徐々にその知名度を上げ、テレビへの露出度が増してきた「世界のナベアツ」がこれ以上有名になれば、御本家の「「世界のナベサダ」こと渡辺貞夫氏の方が恥ずかしくて、「もうそう呼ばないで」なんてことになりかねない。