南野島男のGood Times

日常感じたことを面白おかしくエッセイ風に書きつづります。
これぞ笑いと勇気の玉手箱!

本当の勇気

2007-04-27 00:00:50 | Weblog
今回の長崎市長選挙では田上富久氏から勇気ある行動を教えてもらった。 
非常事態のあの場面で自分の身を振り返らず長崎市民のために立ち上がった勇気を僕らは忘れはしないだろう。 
長崎には市議会議員に立候補しているこの道何十年のベテラン議員からバリバリの新人候補までいろんな方々がいたはず。 
これらの方々は選挙戦の演説の中で一様に「長崎の為に全力で働きます」みたいな歯の浮くようなきれい事を並べて市民に自分への指示を訴えていた。 
しかし、悲しいことに誰一人として緊急事態の長崎を救うために市長選に立候補を変更する人はいなかった。 
弔い合戦の同情票で圧勝が予想される娘婿にまざまざと負けて市議の職を失いたくなかったのだろう。 
どんなきれい事を述べていたって結局のところは自分のことが一番かわいいのが今の政治家だってことが明確にわかった今回の場面であった。 
他の県には市会議員の年金の額が減るからという理由で任期を待たずしてさっさと辞めてしまう議員がたくさんいたくらいだからね。

田上富久氏は長年勤めてきた市役所を退職し、その退職金を選挙資金に宛ててまでも長崎市のために立ち上がったのである。
「あなた、落選したら私たちの生活はどうするのよ」という奥様の心の叫びも聞こえそうな決断だったと思う。 
しかもあと3日しかないという時間の中での決断力と勇気には感動すら覚えた。 
こんな人だったらどこかの市長みたいに地震が起きてもゴルフを続け、挙句の果てに懇親会にまで出席してしまうような行動はとらないはずである。 
長崎に緊急を要する事が起こってもこの人なら大丈夫と思える。 

選挙結果を踏まえて伊藤家の娘さんが「父伊藤一長はこの程度の存在でしたか。父は浮かばれないと思います。残念です。父の愛する長崎でこんな仕打ちを受けるとは思いませんでした」と発言したがあれは言ったらいけない。
あんなこと言ったら僕らは仕打ちをした人間で恩を仇で返すひどい市民ですか?と聞きたくなる。
伊藤市長の功績は認めるし、哀悼の気持ちは当然だけどそれとこれは別物である。 
休暇を取って今日からでも仕事に戻れる他所の人と背水の陣で臨む地元長崎を愛し知り尽くした人とでは答えは明確だ。 
逆にあんな発言をしてしまう女房を持った婿さんなんかが当選しなくて本当に良かったと胸をなで下ろしたくらいである。 

とにかく田上氏の勇気ある決断と行動は我々長崎市民の心にしっかり届いた。 
長崎南高等学校の同窓生としても誇りだし大いに応援したいものである。
 



トイレでTOTO

2007-04-19 23:58:12 | Weblog
日本のほとんどのトイレで見かけるTOTOという文字は70年代にはAORのスーパーバンドまで誕生させた。 
僕ら世代から言わせるとTOTOは憧れのバンドで、スティーヴ・ルカサーのギターの音色を誰もが真似していた。 
「アフリカ」ではグラミー賞総なめでTOTO一色であった。 
TOTOはもはや便器の代名詞というよりスーパーバンドの名前として揺るぎのないものになったのがあの頃だ。 
TOTOは元々スタジオミュージシャンから結成されたが、時を同じくしてスタジオミュージシャンのプロ中のプロで作ったスタッフというバンドがいたが、僕の中ではスタッフを越えるテクニカルバンドはいない。 
キーボード(フェンダーローズ)の音色のかっこよさを初めて知ったのはリチャード・ティーだったし、革命的ドラムを聴かせてくれたのはステーブ・ガッドだった。そして忘れてならないギターのエリック・ケイルの存在。 
スタッフの存在で僕はニューヨークにとても憧れ、いつか絶対にNYに行くぞと心にきめたものだった。 
スタッフはNYの香り、TOTOは西海岸の香りがするバンドである。 
今の日本ではTOTOはトイレの香りしかしないかもしれないが、そのトイレで発火事故が起きたものだから日本中がビビッた。 
トイレの便器が燃えるからこれが本当の焼けクソだなんて冗談言っている場合じゃなく驚いたニュースが飛び込んできた。 
我が家でも早速便器を覗き込み製造番号を確認したが、対象外の便器であることで一応安心した。
安心したら久々にTOTOの曲が聴きたくなったが、残念なことにTOTOのレコードはもう手元にはなく、カセットテープもいまではどこに保存してるのか分からない。 
今年の4月に定刻になると音楽が流れる便器が発売されたとの記事を読んだことがある。
何の曲が流れるのかまではしらないが、その便器からTOTOの曲が流れようもんなら嬉しいな。 
 
 
 

生保の保険金不払い

2007-04-14 01:36:17 | Weblog
今日生保各社の経営者が首を揃えて謝罪会見をした。 
毎度お馴染みの光景で見ていて正直アホらしくなってくる。 
あのオヤジたちはいったい誰に対して頭を下げているんだろうか。 
今日の段階で不払いが32万件、総額が300億近い金額。 
これから調査が進めば今の10倍に増える見込みという。 
謝罪会見の席でN生命の社長は「お客様の立場に立った姿勢ができていなかった」とあきれた言葉を吐いていた。 
結局この12社の生保はお客のことなんてこれっぽっちも考えていないことを暴露してしまったのだ。 
国民から世界一高い保険料を巻き上げ、自らは異常なほど高い報酬を受け取り、あげくの果てに請求しないなら保険金を払いもせず、それがばれないならどこまでも黙り通して自分たちさえ儲かればいいという腐りきった体質が今日の生保の実態なのである。 
それに気が付かないで美しいイメージで作られたCMを鵜呑みにしてしまっている善良な国民があまりにも可哀想である。 

松嶋菜々子を起用して親孝行のお涙頂戴のイメージを植えつけたかと思うと、小田和正の歌でこれまた清い心の企業であるみたいに見せかけ、田口トモロヲのナレーションと谷川俊太郎の詩で日本中のお茶の間を偽善の渦に巻いたCMを作り上げた。
僕なんか前から生保のCMを見る度に気分が悪くなってたし、どこまで人を騙せばいいんだろうかと憤りすら感じる。

これはひとつにはマスコミにも責任がある。 
莫大な広告費を払えば山のようにCMを流すマスコミもおかしい。 
今の生保なんて異常な取立てと異常な融資をしたサラ金となんら変らない。 
サラ金ですらCMの中で「借り過ぎには注意を」とコメントをしっかり入れているんだから、生保のCMでもいくら偽善的なお涙頂戴の内容であっても最後の部分には「入り過ぎに注意しましょう!」のひとつくらいは入れるべきだ。 
しかも今回みたいな大々的な詐欺行為を防止させるためにもテロップでいいから【保険は請求しないと払いません】の表示は義務付けるべきである。 

ここまでの詐欺行為をぬけぬけと行ってきた今日の12社の社長は全員辞職するべきだし、12社揃って「営業停止」の裁きを真摯に受理して誠意をみせなければならないと思う。 

叩けばいくらでも埃が出てくるのが生保の裏事情で、架空契約なんて当たり前だし自分で身銭切ってノルマ達成のために作った保険契約が解約された時の「返戻金」は架空の契約者が受け取るわけないから当然「不払い」が存在することになる。 
調べ上げればこんなコンプライアンスもへったくれも無いような裏事情は恐るべき数ほど見つかるにちがいない。

6月になり最終的な不払いの数字が3000億円ほどあることが発表されても、今まで通りのテレビCMを流し続けるんであれば生保には誠意どころか「ハジ」の欠片もないということになる。 
全国津々浦々の一等地にそびえ立つ生保のビルディング。 
あれもみーんな契約者が払う保険料で建てられているのだ。 
そして保険会社は保険金は払わない。 
テレビでは谷川俊太郎の「愛する人のために」という素晴らしい詩が流れ続ける。「目に見えぬこの商品には人間の血が通っています」
それでも保険金は払わない。 

 

最近の入学式

2007-04-11 00:04:22 | Weblog
昨日今日と巷では入学式が続いている。 
前から思っていたんだけど入学式は卒業式に比べるとどうもドラマチックに欠ける。 
卒業式ではあんなに見せた涙も、こと入学式となるとよほど感激性の父母でもいない限り涙は見られない。
歌にしても「卒業」をテーマにした歌はいくらでもあるが、「入学」をテーマにした歌は思い当たらない。 
映画「卒業」はその言葉の響きだけで心にぐっとくるものがあるが、映画「入学」となるとどうもピンとこない。 
そもそも新しい出会いよりも別れの方がドラマになりやすいのだ。

最近は少子化の影響もあるんだろうけど、小学校の新入生がたった一人しかいない学校も珍しくない。 
今日のテレビでもやっていたが、たった一人の新一年生の女の子の入学式にも当たり前のように校長が祝辞を述べ、これまたたった一人の6年生が歓迎の言葉を述べていた。 
式の後のインタビューでその一年生は「運動会が楽しみです」と元気に答えていたが、いったいこの子は誰とかけっこ競争をしたり、誰と集団演技をするんだろうかと素朴な疑問を抱いてしまった。

入学式では桜の花吹雪の中を歩いて登校するのが今までの景色であつたが、ここ最近の温暖化の影響もあってか、ほとんどの桜が入学式前に葉桜になってしまう。
そして今までは恒例であったお祝いの紅白まんじゅうもいつの間にか廃止され、今や新一年生に贈られる紅白まんじゅうは防犯ベルに変った。


 
 
 
 

選挙戦略は反省

2007-04-09 16:19:56 | Weblog
統一地方選挙とやらで都知事に石原慎太郎氏が再選された。 
対抗馬に出ていた候補者の中では、あの世界の黒川紀章はよく頑張った。 
最初は最近テレビでもお馴染みの湯浅弁護士かと思ったが、よく見たら頭の振り方がちょっと違うし。 
しかしあの2人が持っている常識を超越した自己陶酔的なキャラは、全く同じに感じられる。 
確かに国際弁護士としての腕前や、建築家としての才能は天才的なものがあるんだろうけれど、だからといってこの2人に、いや失礼、黒川氏に東京を委ねられるかというとそれは別問題だったのかもしれない。
 
今回の石原氏は戦略が良かった。 
「反省の石原」「謝りの石原」で先手を打って出たのが巧い。 
やっぱ何でも悪いと思ったら自己主張する前に謝った方が得策である。 
そのことに気が付かずに今でも「おふくろさん封印」を余儀なくされている森進一はまだまだ甘い。 
槙原敬之にしたって同じことが言える。 
松本零士氏は最初にマッキーが謝りさえすればそれで済ませたかったのに、変な著作権裁判なんて時間の無駄である。 
とにもかくにも反省の姿勢を上手に戦略として使った石原氏の勝利に終わったのが今回の都知事選であったが、再選された石原氏に何を望みたいかというと、お願いだからあのまばたきの回数をもう少し減らして欲しいということかな。