南野島男のGood Times

日常感じたことを面白おかしくエッセイ風に書きつづります。
これぞ笑いと勇気の玉手箱!

わたぼうしコンサート

2008-06-29 23:31:17 | Weblog
今年もわたぼうしコンサートに応募していた曲が入選した。
昨年に引き続き2年連続の出場となるが、今年も昨年組んだ『仲間たちバンド』を再結成して演奏することになった。
このコンサートは知的障害者の方々が作って応募された多くの詩の中から入選作品が決まり、その詩に対して作曲をして応募した曲の中から入選が決まり、長崎ブリックホールで行われるコンサートで発表されるものである。
自分の書いた詩が入選するのは大きな喜びや励みになるみたいで、しかもその詩に曲が付けられてひとつの歌としてみんなの前で披露されることは感動だと思う。
そのお手伝いに少しでもなれればと僕もミュージシャンの端くれとして参加している次第である。
コンサートに出演するということは、僕らにとっても嬉しいことだし、僕らも音楽を楽しみながら障害者の人たちと一緒に感動の時間を共有できることは素晴らしいことと思っている。

知的障害者の方々の書いた詩を読むと、僕らが日頃忘れてしまっているよういな感謝の心とか生きている喜びとかを改めて教えられる。
今回僕が作曲した詩は『靴と靴下』という詩であるが、作者の人が人の手を借りずに初めて靴と靴下を、自分の力ではけた時の感動を詩にしたものだった。
普通の人間にしてみれば、なんと言うこともないことが涙が出るように嬉しい体験として綴られているのだ。
我々にしてみれば当たり前のことで、そんなことに対して感謝のすることを忘れてしまっているのかも。
普通に歩けたり、普通に喋れたり、普通にいろんなことを出来ていることにももっと感謝しなくちゃいけないんだと気づかされた詩であった。
コンサート当日は長崎県内の多くの知的障害者の人が会場にやって来る。
そして多くのボランティアの方々の協力によりコンサートは開催されているが、
ぼくらも年に一度はこうして音楽を通してボランティア活動が出来ることが本当に嬉しい。
何より大きな会場で演奏させていただけるということにも心から感謝して、今年のコンサートでも精一杯歌いたいと思っている。

黄色に染まるなエド

2008-06-27 00:03:45 | Weblog
今年の24時間テレビのマラソンランナーはエドはるみに決まった。
今年最も注目されている女芸人のひとりだし、ギャグの「グー」も昨年の「関係ない」を上回る流行ぶりだし、他の芸人に比べるとキャラクター的にも安全パイだったのか、日テレは彼女に視聴率稼ぎ役の白羽の矢を立てたわけだ。
2年前のアンガールズでは思惑が外れた部分もあったし、番組の本当の体質的なものも暴露されたこともあり、今回のエドはるみでは何とかそういった事が起こらないようにしたいと思っている。

エドは今のお笑い芸人の中でもひときわ仕事に対するひたむきな姿勢に好感度が高い芸人である。
今回の大役は本人としては嬉しいんだろうが、ある意味引き受けて欲しくない思いもある。
巨額の番組制作費、謎につつまれた黄色いTシャツの金の流れ、上げるときりがないから止めておくが、一年中で最も偽善に包まれた1日がまた今年も来るわけだが、それにわざわざ身を投じてなくてもと思ってしまうのだ。
『徳光の涙やサライの曲に包まれて感動のフィナーレを迎える』ともう今年の台本にも書いてあるのだろうけれど、本当に感動しているのは何%の国民なのか実態は把握していない。
エドが走っている間中、全国から莫大な量の応援FAXやらメール寄せられるのであろうが、どれだけの通信費や紙代を使わせてしまうことになるのだろう。

「エドはるみさん頑張れ、あなたの頑張りに私たちも勇気をいただきました。苦しいでしょうがゴール目指して感動のゴールを見せてください!」
こういった類のFAXやメールが健気な子供をはじめ全国から送られてくることになるのだが、この時点ではもう手が付けられないような流れに巻き込まれてしまっている。
また応援メッセージを送る側もそこまで思っていなくてもお祭り気分がそこまで書かせているにちがいない。
現に2年前あれほどアンガールズに尊敬と感謝と応援の気持ちを伝えてきた人たちには、アンガールズに対してのいたわりの気持ち、尊敬の気持ち、感謝の気持ちなんてかけらも存在してない。

今年こそは地球環境のことを考えて「24時間テレビ」を自粛しますなんていう発表がなされるかと毎年期待しているが、やっぱり今年もだめだった。
願わくば今年のエドはるみには、番組や日本テレビには媚を売ることなく自分自身のために走って欲しい。
来年以降の自分の芸能人生のために、逆にこの番組を利用して大きくなって欲しいと思う。
「頑張れ」などという漠然とした掛け声はじゃまになるはず、ただ「あんたの走りを見せてくれ」と思うだけである。
そしてゴールしてもあの偽善的な黄色のTシャツには決して染まることなく淡々とコメントでもギャグでもたれてくれ。
ただそれを望んでいます。








新聞記事という暴力

2008-06-22 01:07:24 | Weblog
世界中の海の美しい珊瑚の映像を見る度に思い出す事件がある。
事件なんて単純な言葉では済ませられないほど世の中を馬鹿にした出来事であった。
忘れもしない1989年4月20日の新聞記事。
沖縄の珊瑚が何者かの手によってKYという文字で傷つけられていたことを写真つきで報道した。
百年単位で育ってきた尊いものを瞬時に傷付けて恥じない、精神の貧しさの、すさんだ心の持ち主である犯人に説教する記事まで載せる力の入れようだった。
しかしその犯人そのものがこの記事を書いた朝日新聞だったことが分かり当時の僕は怒りを覚えた。
以来朝日新聞を見る度にこの捏造事件を思い出す。
あの時傷つけられた珊瑚はいまだに傷は癒えていないはずだ。
どれだけ月日が過ぎて人々の記憶から消えかかろうとしても、朝日新聞は100年は償い続ける責任があるはずだ。
だって修復されるのに100年はかかるのだとご自分が正義感たっぷりに記事の中で説教たれていたし。

その朝日新聞は今度は法務大臣を死神呼ばわりして問題になっている。
鳩山法相が好き好んで死刑を執行したわけでもなく、大臣は自分の仕事を果たしただけのはず。
何の個人的恨みがあるのか知らないが、そんな憂さ晴らしを800万人もの読者が読む新聞記事の中でするんじゃないよと言いたくなる。
それよりもなにも、こんな事を平気で掲載してしまう朝日新聞のレベルの低さには驚くばかりである。
あれだけの珊瑚事件をやらかしてしまうだけの新聞社だったことがやっぱ分かる気がする。
鳩山法務大臣も「そういう軽率な文章を平気で載せる態度自身が世の中を悪くしていると思う」と述べていたが、全く同感であるというか、日本人のほとんどがそう思っている。
大臣の言うように今の歪んだ世の中をリードしているのは朝日新聞なのかもしれないね。
しかし、1国の法務大臣に向かって「死神」はないと思う。
そういえば昨日家にいたら、朝日新聞の勧誘の人が玄関先で「朝日新聞を取ってもらえませんか」と景品販売法にひっかかりそうな品物をちらつかせながら喋ってきた。
「朝日新聞が傷つけた沖縄の珊瑚が元通りになるまでは天と地がひっくり返ろうが朝日新聞なんて購読する気がないんですが」と応えたら、その人変な顔して去っていった。
そうそう、まるで死神の顔というのはあんな顔を言うのだと思ったところだった。





食糧危機と食べ物番組

2008-06-20 21:40:20 | Weblog
テレビをつけるとどこかの局で必ず食べ物番組をやっている。
ひどい時には4つのチャンネルが同時に食べ物番組だったりする。
そんな番組では必ず石塚をはじめとするいわゆるデブキャラのタレントがレポーターとして登場し、ありあとあらゆる料理を食いあさる。
それを見ながらスタジオのこれまたお笑い芸人を中心とするタレントがうらやましそうによだれをたらし悲鳴をあげる。
時にはスタジオで生のご馳走が出てきて出演者が食べまくり、その感想は決まって「おいひー!」と叫ぶことになっている。
もっとひどいのはギャル曽根などを有名にした大食い番組である。
マグロにしても焼肉にしても和食洋食を問わず異常な数の料理をテレビ局が用意し、それを誰が一番多く食べるか競うものであるが、その時の料理は味合うというには程遠く、人が生きるために食べるという意味のかけらもない。
このように今のテレビ番組にはあまりにも料理を食べる番組が多過ぎる。
視聴率が稼げるという理由がそこにはあるのだろうが、儲かりさえすれば何でもやっていいのかと言いたくなる。
いつか必ずその罰は当たることになるはずである。
現に非常に近い将来日本も食糧危機に襲われることは避けられないのである。
今の日本人は世界では特にアフリカあたりでは子供たちがお腹を空かしてるらしいの漠然とした情報しかない人間がほとんどだ。
外国ではありえてもまさかこの日本では食糧危機なんて絶対に在り得ないくらいに思ってるはずだ。
餓死してる人間が毎日4万人もいることなんて全く知りもしないはずだ。
その内、毎日毎日食べ物が食べられなくて1万人の子供たちが死んで行っていることなんてしらないのだ。
でなければ馬鹿ヅラかかえてくる日もくる日も番組の中でご馳走を食べまくらないはずだ。
もういいかげんにこんな番組はやめるべきだ。
食糧自給率がわずか39%しかない国の人間がやるような行為じゃないことは誰がみてもわかる。
石油が高騰して一般庶民がガソリンを入れきれなくなって車に乗るのをやめようかと考えていたり、燃料代高騰で全国の漁船が出漁をやめている中で、視聴率が取れるからといってガソリンや灯油を燃やして芸人たちに罰ゲームかなんかやらせる番組をやればどんだけの批判を浴びるのかは想像がつくはずだ。
先進国で金があるから自給率が低くくても買えばいいじゃんくらいの考えならそれは大きな間違いである。
世界中の国が自分らが食べないと生きて行けない状況の時に金出したって譲ってくれるはずがない。
ましてやついこの前まであらゆるテレビ番組で、馬鹿げた食べ物番組を作り続けた優しさのかけらもない国には援助の手は差し伸べられなくてもしょうがない。
現在世界中の死亡原因トップは餓死だ。
年間に1500万人以上が餓死しているのが現状だ。
日本政府首脳も世界食糧会議に出席していろんな意見を述べるのだろうが、どんな偉いこと言ったってテレビでこんなことやらせていたんじゃ矛盾している。
即刻政府命令でこれらの番組製作は中止させるべきである。
どうしてもそれが出来ないというなら番組の間中、テロップで本日の世界の餓死した子供たちの数と映像を流し続けながらやって欲しい。
それでも「おいひー!」と叫ぶタレントの顔をみて、家族団らんの気分に浸れるようならこの国ももう終わりとしか言いようがない。






自分へのご褒美

2008-06-20 16:37:32 | Weblog
最近の十八銀行のCMで「退職金は自分へのご褒美として・・・」というくだりがある。
いつもこれ見ていて思うのだけれど、ご褒美という言葉は人に対してしてあげる時に使うのであって、自分でするときは褒美と言わなきゃならない。
そんなことは本当はどうでもいいことなんだが、要するに僕はこの「自分にご褒美」という言葉が前からどうも気に入らない。
昔、オリンピックの女子マラソンで有森選手の「自分で自分を褒めてあげたい」という言葉が流行ったが、彼女があの場面で言った意味と、そこいらへんのOLが自分の行為を正当化するというか、無駄な買い物の理由付けに乱発する「自分へのご褒美」とは別物である。
欲しかったら買やいいのに、それをわざわざ私はこんなに頑張ったんだからこれくらいはしてあげなきゃとか分けのわからない理由はなんなのだろう。
ある目標を掲げてそれが達成されたならこれを買おうとかこれをしようとかいう楽しみの気持ちはわかる。
しかし、その結果が自分の努力とか頑張りによって実現できたと思い込み、その上その偉かった自分に対して丁寧にごまでつけて褒美まで与えなくちゃという考えはあまりに幼稚というか自己中心的である。
そんな人たちは何でも自分ひとりの力でやれたと勘違いする人が多い。
自分が頑張ったから出来たと勘違いする人が多い。
自分が頑張れたのは、まわりのいろんな人たちの助けがあったからこそ出来たという一番大事なことを忘れちまっているのだ。
自分が自分に感謝してどうするんだよ。
感謝は人に対してするもので、その気持ちが本当の「感謝」というもの。

精神が病的に落ち込んだ状態の人や、ひきこもったりする人は、俺はこんなに頑張っているのにとか、全部回りが悪い社会が悪いとか思い込む。
自分には何の落ち度も原因もないと思い込んでいる人が多い。
しかし、究極の真理から言うと、良くない結果は全部自分に原因があること、逆にいい結果はすべてみなさんのお陰だと考えるのいいかもしれない。
ということは、いい結果が出た時は自分の力、悪い結果が出たら人のせいにする人がするのがこの「自分へのご褒美」といえる。
だから「これ今回の頑張りに対しての自分へのご褒美なの」なんて決して口に出したりしないことだ。
世の中わかってない奴か、自分のことしか考えないどうしようもない奴だと公表してるようなものだ。

最初に話した十八銀行のCMも、退職金はしっかり貯金して行きたかった温泉に夫婦で出かけたくらいの表現にしとけばいいものを、「自分へのご褒美」とか不要な表現は避けるのがよかったかもしれないね。
こういう誤った日本語を使うのはよくないとちゃんと指摘してあげたこの僕は心の中できっと思っている。
「自分を自分で褒めてあげたい」と。





韓国と日本の違い

2008-06-11 13:39:49 | Weblog
先週ソウルに行ってきた。
宿泊するホテルに着いたら10万人ほどの群集が抗議行動のためロウソクを手に集まっていた。
アメリカ牛肉の輸入問題に対する抗議行動だそうだが、その日は10万人しかいなかったが、数日後は100万人規模の集まりになるらしい。
老若男女入り乱れてひとつの問題に対して結集する韓国人のパワーには恐れ入った。
今日のニュースでは韓国の閣僚はほとんどが辞意を表明することになったが、政治をもひっくり返す民衆パワーはたまには日本も見習ってもらいたい。

日本ではどんな不都合な理不尽なことを国がやらかしたとしても、一部のマスメディアがポーズとして形ばかりの批判をするだけである。
許せないからと民衆が立ち上がり抗議行動を起こすということなどありえない。

長崎では県庁の職員が県民の汗水たらして納めている税金を数億円も横領し、公金横領を「裏金」などと表現して使いまくったことは記憶に新しい。
ただでさえ1人当たりの所得は全国でも最低水準の長崎で、その立場を利用して公金が県庁の職員によって盗まれていたという事実は県民を震撼させた。
しかし、事実が報道されただけであとは水に流されてしまい、あの事件を口にする者さえいなくなった。
あの時、長崎県庁に押し寄せて抗議行動をしようなどの呼びかけがあったら、僕は喜んで参加していた。
こういう時こそインターネットを通じて多くの県民に呼びかけて行動を起こすべきだった。
そうすればその日の内に裏金作りの最高責任者である県知事及びその関係者を責任をとって辞めさせることができたはずだし、二度とこのような事を起こさせない強い結果を出せたはずである。
日本国内でもいろんな事件が起きても、「外国なら暴動が起きてもおかしくないでしょうね」とニュース解説者が他人事のように語るだけだが、所詮農耕民族の日本人にはそのパワーはない。

今回のソウルで目の当たり見た民間のパワーはただただ恐れ入るものであった。
あんだけ焼肉を食べ、辛いキムチを食べているからこそ出てくるパワーなのだろうか。




高齢者が乗ってます

2008-06-01 13:02:23 | Weblog
今日からスタートするのが新しい道路交通法。
これからは後部座席に座ってもシートベルトをしなくてはならなくなったが、もうひとつ高齢者は例の紅葉マークを必ず付けなくてはいけなくなった。
かっこ悪くてやだと思って今まで付けてなかった人も許されなくなった。
普通のドライバーならまだしも、個人タクシーの運転手なんかは年寄りが運転しているタクシーと分かれば乗ってくれないんじゃないかと心配しているそうである。
確かに80代のお爺ちゃんだったら不安になるし、変わりに運転しましょうかなんて気持ちも起きるかもしれないけどね。
今まででさえ紅葉マーク付けた車がえらい増えたことを実感していたが、今日からはその何倍もの紅葉マークの車が道路を埋め尽くすことになる。
だって今や5人に1人は高齢者である日本、この人たちがみんな紅葉マークつけ始めたら相当な数になるはず。
今でも平日のショッピングセンターの駐車場などは紅葉マークだらけであるし、近い将来道路を走るほとんどの車に紅葉マークが付いてる状態になりそうである。

紅葉マークを付けなかった場合は減点されるし、4000円の罰金になる。
当然対象者は年金受給者であるわけだから、罰金は年金から自動天引きにしようかなんてことになると紅葉騒動が起きかねない。
介護保険や高齢者医療費みたいに、取りっぱぐれのない年金から差し引いちゃえという横暴な考えが起きなきゃいいけど。

車の後部ウインドウには「子供が乗っています」などの文字表示をよく目にするが、紅葉マークもあんまりデザイン的に印象良くないみたいだから、いっそのこと文字シールにしてはどうだろう。
『高齢者が乗っています』とか『MOMIJI DRIVER』の方がより明確でいいと思う。
あの枯葉が落ちたような悲哀感のあるマークよりよっぽどでデジタルでいい。
もしくは誰もが付けて走りたくなるよな品のあるマークにするとか、逆に優越感を持たせるために水戸黄門の印籠と同じマークにするとかね。
たぶんその内この紅葉マーク、デザインが変更されるのは間違いない。