関西電力の大飯原発3、4号機(福井県おおい町)の再稼働をめぐり、大阪市の橋下徹市長と大阪府の松井一郎知事は24日、藤村修官房長官と首相官邸で会談し、原発の安全性に関する8提案を受け入れるよう直談判したが、藤村氏は「再稼働は妥当」との政府の判断に変更はないと伝えた。10分の予定だった会談は25分に及んだ。
「政治家が安全宣言をしたのは絶対におかしい。原子力安全委員会に安全性のコメントを出させるべきだ」。再稼働の撤回を求める橋下氏に、藤村氏は「政治家が安全を宣言しているわけではない。安全性はあくまで専門的、技術的な観点から判断されている」と反論。議論は平行線に終わった。
野田佳彦首相と枝野幸男経済産業相ら3閣僚が6日に「安全性に関する判断基準」をまとめてから、橋下氏は批判を強めていった。安全宣言を出した後の13日には「再稼働にストップをかけるためには、国民が政権を倒すしかない。次の選挙で民主党政権に代わってもらう」「慌てて作った暫定的な安全基準だ」(6日)「安全宣言した手続きがおかしい。統治機構の危機だ」(16日)
「国民はだまされちゃいけない。安全宣言は、科学者や原子力安全委員会のチェックもないまま政治家が作った手続きを進めている。国家運営の危機だ」橋下氏は藤村氏と会談した後、頬を紅潮させ手ぶりを交えながら、記者団に「国家の重大危機」「国家崩壊ですよ」と激しい言葉を繰り返した。
政府が再稼働を妥当と判断した今月13日、橋下氏は批判のトーンを一気に強め、「これで吹っ切れた。一人でも(政権への)反対運動をする」と記者団に語った。橋下氏の勢いに押されるように、大阪維新の会も翌日、衆院選で民主党と対決する方針を決定した。~毎日より抜粋。
中世の英国スチュアート王朝時代、ジェームス1世は絶対主義の権化として王権神授説を信奉し、裁判所に代わり自ら裁判を行うなど、コモンロー(判例法)を無視する挙に出た。これに対しサー・エドワード・コークは、先人の言葉を引用して「国王は何人の下にもあるべきではない。しかし神と法の下にあるべきである」と直言した。「法の支配」の精神の神髄を表す歴史の一こまとされている。
ここでいう『法』は個別の法律や条文を意味するものではない。正義の精神である「根本法」あるいは「高位法」といわれる「幻の法」である。「法の支配」は、国王や独裁者による恣意(しい)的権力行使(人の支配)を否定し、個人の自由を保障するものとなる。この『法』は、時として個別事件の裁判を通じてコモンローという形になって現れ、時として議会の審議を経て制定法となって姿を現す。それ故、英国は憲法という成文法を持たずに、立憲民主主義大国の地位にあり続けているのである。
わが国も、立憲民主主義国として「法の支配」の原理の下にある。憲法の最高位性を認め、憲法で自由と人権を保障し、行政訴訟をも含めすべての裁判を司法権に委ね、裁判所に違憲立法審査権を認めていることなどが、その原理に立脚したものとされている。
原発の安全の問題は、政治決断の問題ではない。だからこそ法は、中立的・専門的立場から原発の安全性を審議する機関として「原子力安全委員会」を設置し、その学問的知見に基づく安全審査指針の策定などを委ねてきたのである。ところが政府は、経済産業省の原子力安全・保安院に「安全基準」なるものの策定を命じ、原子力安全委員会に諮ることもなく、政治家だけでその基準を了承し、安全との結論を出した。政府は『法』にのっとり、せめて国民がやむを得ないと判断できるように適正な手続きをとり、原発再稼働を図るべきである。
「下問を恥じず」(論語)という心構えを持って、国民の姿勢に学んでもらいたいと願うのみである。
以上、2012.4.25 03:12産経【山河有情】「国民に学ぶべき政治権力」元検事総長・但木敬一(ただき けいいち)より抜粋。
日本国憲法第10章第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
第98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
人間の共同体を一つに結びつけている正しさは一つであり、それを定めたのは一つの法であり、この法は命じたり禁じたりする正しい理性である。この法を知らない人は、この法の書かれているところがどこかにあろうとなかろうと、不正な人である。~キケロ「法律について」より
自然法に反する実定法もまた無効です。法、正しさを認識するのは理性です。
「政治家が安全宣言をしたのは絶対におかしい。原子力安全委員会に安全性のコメントを出させるべきだ」。再稼働の撤回を求める橋下氏に、藤村氏は「政治家が安全を宣言しているわけではない。安全性はあくまで専門的、技術的な観点から判断されている」と反論。議論は平行線に終わった。
野田佳彦首相と枝野幸男経済産業相ら3閣僚が6日に「安全性に関する判断基準」をまとめてから、橋下氏は批判を強めていった。安全宣言を出した後の13日には「再稼働にストップをかけるためには、国民が政権を倒すしかない。次の選挙で民主党政権に代わってもらう」「慌てて作った暫定的な安全基準だ」(6日)「安全宣言した手続きがおかしい。統治機構の危機だ」(16日)
「国民はだまされちゃいけない。安全宣言は、科学者や原子力安全委員会のチェックもないまま政治家が作った手続きを進めている。国家運営の危機だ」橋下氏は藤村氏と会談した後、頬を紅潮させ手ぶりを交えながら、記者団に「国家の重大危機」「国家崩壊ですよ」と激しい言葉を繰り返した。
政府が再稼働を妥当と判断した今月13日、橋下氏は批判のトーンを一気に強め、「これで吹っ切れた。一人でも(政権への)反対運動をする」と記者団に語った。橋下氏の勢いに押されるように、大阪維新の会も翌日、衆院選で民主党と対決する方針を決定した。~毎日より抜粋。
中世の英国スチュアート王朝時代、ジェームス1世は絶対主義の権化として王権神授説を信奉し、裁判所に代わり自ら裁判を行うなど、コモンロー(判例法)を無視する挙に出た。これに対しサー・エドワード・コークは、先人の言葉を引用して「国王は何人の下にもあるべきではない。しかし神と法の下にあるべきである」と直言した。「法の支配」の精神の神髄を表す歴史の一こまとされている。
ここでいう『法』は個別の法律や条文を意味するものではない。正義の精神である「根本法」あるいは「高位法」といわれる「幻の法」である。「法の支配」は、国王や独裁者による恣意(しい)的権力行使(人の支配)を否定し、個人の自由を保障するものとなる。この『法』は、時として個別事件の裁判を通じてコモンローという形になって現れ、時として議会の審議を経て制定法となって姿を現す。それ故、英国は憲法という成文法を持たずに、立憲民主主義大国の地位にあり続けているのである。
わが国も、立憲民主主義国として「法の支配」の原理の下にある。憲法の最高位性を認め、憲法で自由と人権を保障し、行政訴訟をも含めすべての裁判を司法権に委ね、裁判所に違憲立法審査権を認めていることなどが、その原理に立脚したものとされている。
原発の安全の問題は、政治決断の問題ではない。だからこそ法は、中立的・専門的立場から原発の安全性を審議する機関として「原子力安全委員会」を設置し、その学問的知見に基づく安全審査指針の策定などを委ねてきたのである。ところが政府は、経済産業省の原子力安全・保安院に「安全基準」なるものの策定を命じ、原子力安全委員会に諮ることもなく、政治家だけでその基準を了承し、安全との結論を出した。政府は『法』にのっとり、せめて国民がやむを得ないと判断できるように適正な手続きをとり、原発再稼働を図るべきである。
「下問を恥じず」(論語)という心構えを持って、国民の姿勢に学んでもらいたいと願うのみである。
以上、2012.4.25 03:12産経【山河有情】「国民に学ぶべき政治権力」元検事総長・但木敬一(ただき けいいち)より抜粋。
日本国憲法第10章第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
第98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
人間の共同体を一つに結びつけている正しさは一つであり、それを定めたのは一つの法であり、この法は命じたり禁じたりする正しい理性である。この法を知らない人は、この法の書かれているところがどこかにあろうとなかろうと、不正な人である。~キケロ「法律について」より
自然法に反する実定法もまた無効です。法、正しさを認識するのは理性です。
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