5月31日(水)
きょうのネットニュースで
母親によれば
「一人で農作業をしていることを『ぼっち』とからかい、ばかにしてきた」ため、また
「勤務していたジェラート店で同僚から『ぼっち』とばかにされた」と
青木容疑者が語ったという。
そもそも大学も、周りと不適応で中退したと報じられているのはご存じの通り。
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山の会に入って和気あいあいと登ることより、自由勝手なぼっち登山が好きなボク。社内宴会が嫌いで自分の送別会もここぞとばかり断って退職したボク。うmmm。ボクも陰で『ぼっち』とばかにされていた、ばかにされているのだろうか ? ジェジェ (笑)。(いま笑ったでしょアナタ?)
これは無視できないと、だいぶ前に読んだ本をもう一度ひっぱり出して来た。
2014年 蛭子能収 著
僕は昔からひとりぼっちでいることが多かったし、友だちみたいな人もまったくいませんが、それがどうしたというのでしょう? ひとりぼっちでなにが悪いというのだろう? というか、むしろ「ひとりでいること」ののよさについて、みんなにもっと知ってもらいたい。友だちなんていなくていい。ひとりぼちだっていんじゃないかな。(序文から)
蛭子能収(えびすよしかず)の言いたいことは、ひとりぼっちでも、むしろ本人には十分に満足な人生が送られる ということだ。そりゃそうだ。当たり前だ。
しかし蛭子は、ぼっちのリスクとして
● 狂気は孤独の裏返し? という項目では
「俺は他の人とは違う」みたいな、上から目線での自分が特別な存在であるなんて、僕は思ったことがない。しかし、孤独感というのはその感情の裏返しの部分もあるように思えてなりません。自分は特別な人間なのに疎外されている、みたいな思考です。
それって、孤独に酔っているだけじゃないかな? 少し極端な考えかもしれないけれど、”孤独酔い”する人に関しては、最近では犯罪者にも多いような気がする。孤独であると思い込んで、そしてその孤独に開き直って、普通の人には思いもよらない過激な事件を起こしてしまったり。先日もアイドルの握手会の会場で、のこぎりで切りつけるといった事件(略)。 孤独を狂気に変換するなんて、あまりに自分勝手な行為で許せませんよ。
もしも孤独だと感じている人がいたら、あまり思い詰めないほうがいいんじゃないかな?「俺は孤独だ、孤独だ」と思い続けていると、それはいつの間にか得体の知れない狂気のような感情に変わってしまうものだから。
と指摘している。
ここからは、ぼっち旅人の勝手な考察。
この本が書かれた2014年は、特に若い方のあいだでの「友だち」偏重傾向が強くて、学校でもぼっちで昼食を食べるのが恥ずかしくてトイレで独り食べるという現象さえあった時代だ。
便所飯のボッチくん
若いサラリーマンでも「空気を読む」ことが重要視された時代。まさに、その時代に青木容疑者も大学を中退した。しかし、友だちがいないのは悪、社会不適格者とする価値観は今でも和の国ニッポンでは多かれ少なかれ続いている。しかも、ボッチから狂気に変換するには、青木某の家柄は土地の名家ゆえに自分は特別な存在で「若、若」と呼ばれてもおかしくないのに、誰も注目せずにボッチ、ボッチと馬鹿にされていると思い込んでしまう心理があったのかもしれない。猟銃取得は弱い自我・劣等感を補完する行為だったろう。
ただ、当然だが名家のボッチがみんな狂気に走るわけではない。サバイバルナイフで平然と刺して、そのあと薄ら笑いをしている精神・心理は、怒り⇒暴力 の行動パターンを越えているのでは。語弊を恐れずに言えば、何らかの形質的障害があってそれが環境的に醸成されていき、特殊精神?の領域(破壊願望、殺戮願望)に入っていたのでは。
ここはいつも踏み込みが難しいタッチーな領域だが。 おい、犯罪心理学者がんばれよ。裁判所、サカキバラみたいに資料を廃棄するなよ、後世のため永久保存しろよ (笑)。
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