桜満開の時期、神奈川県の横須賀自衛隊武山教育隊に入隊した。
ここで3ヶ月間新隊員(1500名)としての前期基礎訓練受けた。
私達の責任教官は空挺から派遣された30代の名前は確か某3尉(少尉)だったと記憶している。
この時教官から日本で最強で最精鋭部隊が千葉の習志野にあると初めて聞いた。
ある日 隊員食堂で並んでいたら所用で習志野から来たらしく、空挺隊員が2名歩いて来た。
今まで何度も見た一般先輩隊員と違って空挺服を着、すべて折り目があり、空挺靴は(あみあげで最高の皮質)ピカピカである。
首に緑のマフラー、左胸にキラキラ光る空挺徽章と空挺レンジャー徽章、帽子にもクッキリと空挺マーク、鍛えに鍛えた身体らしく姿勢も歩き方も違って、そのかっこう良さに何百人も並んでいた我々新隊員は目が釘づけになり、あこがれと尊敬の目で「ご苦労様です」と全員で敬礼した。
「ご苦労」節度ある答礼に、ますます呆然としていつまでも後ろ姿を見送っていた。
その頃、自衛隊の花と言われ、人気があったのが三つ。パイロット、儀杖隊(国賓の栄誉兵)、空挺隊員である事を教官から知らされた。
どれも非常に難しく、幾つもの試験があり倍率(30人に1人)もすごく高く、希望してなれるものではないと言われた。
しかし私は空挺を第一希望にして後期教育3ヶ月を九州の大分別府で受けた。
この間、空挺志願の受験資格の予備試験(特に体力)があり、300名いた希望隊員は60名になっていた。
後期教育を終了し、いよいよ同年10月千葉県習志野に全国から各地区それぞれの部隊で行われた予備試験を合格した隊員が空挺受験隊員として2,200名集まった。
試験が1週間かけて始まった。健康診断、体力検定10種目、適性検査、又、心臓や呼吸等五次試験まで厳しく行われた。
ニ次三次で落ちた隊員の為夕方「蛍の光」が鳴り他の部隊に行く者、又自衛隊を退職する者が去っていった。
私は五次試験まで残っていた。いよいよ最終発表合格者106名の中に私の名前があった。
私達合格した者はお互い手を取り合って喜んだ。その後試験官長より私以下14名に呼び出しがあった。
この14名は合格を保留するとの事。「何故?」私は落胆し真っ青になり気持ちの動揺が収まらなかった。
一人ずつ順番に呼ばれ、試験官は私が長男なので親の承諾書、特に空挺隊員は常に危険と隣合わせなので家族の了解が必要だと言われた。
私はすぐ父に連絡、父から試験官宛に速達で「息子の人生なので希望どおりお願いします」との返事が来ました。
14人中10人が改めて合格。母子家庭や一人っ子の4人はあきらめて他の部隊に転属したとの事でした。10月10日いよいよ空挺隊員になる為、空挺学生29期生(102名)学生隊として入学しました。そして11月下旬、猛訓練の末5回の落下傘降下を終え無事卒業。空挺団長より胸に一人一人空挺徽章をつけて頂きあこがれの空挺隊員となりました。
空挺隊員になると今までとすべてが変わります。
まず食事は毎日特別に空挺食になり、服装から靴まで空挺の航空服です。
給料も空挺手当があり降下する毎に危険手当がつき、昇級も早いのです。
しかしその分その先の訓練は熾烈で、世界で最も厳しいと言われている地獄の空挺レンジャー訓練、又壮烈250k行軍や豪雪新潟災害派遣を経験しました。
私の人生で強烈な思い出です。
(写真:私が現役時代胸に付けた、空挺徽章と空挺レンジャー徽章)