私は日米開戦の年に外地で生まれた。
そして4年後の68年前の今日、8月15日に日本は無条件降伏し敗戦国となった。
その終戦直前に父は妻と両親、私の生まれたばかりの弟を失くし、生き残った私達子供も悲惨な体験をしながら日本に帰国した。しかし、日本本土は何処も空襲で焼け野原で皆自分が生きるのが精一杯、何処に行っても私達外地からの引揚者は邪魔者又厄介者で好奇な目で見られ父はかなり苦労したと聞いている。
私と同じ年配者の人たちは記憶の中にその頃の状況が目に浮かぶと思う。
戦争で負傷した松葉杖姿の傷痍軍人がブリキの鍋を置いて、アコーディオンを弾きながら、駅前や街角、神社の前などに何人もいた。
又子供の浮浪者、汚い国民服ともんぺ姿の今の私よりずっと若い夫婦が行き来していたのを想い出す。
私達家族は、九州、山口、広島そして又山口へ。
当時5歳の私は不安な気持ちで夜汽車に揺られ、転々としたと記憶している。
その頃の事は以前このブログに書いたので省く。
今日の記憶は、私が8歳の永年日本朝鮮現地総督代表で山口県知事の相談役だった岡崎宅に、東京から沖縄戦線で主人を亡くし4歳の子供を連れた女性が来ていて、議員のお世話で父薫と再婚したこと。
父は判事をしていた弟の乙雄夫婦の仲人で、1949年11月に山口市内ザビエル公園近くの県会議員宅で結婚式をした。
実母は4歳の時亡くなり、何にも覚えていない私は、いきなり母と弟が出来とても嬉しかったと記憶している。
*一昨夜フェィスブックに私の誕生日祝いメッセージが海外や親戚、身内から来ました。
貧困~復興~繁栄の日本で、私個人にもいろいろな事があったが、無事72歳の誕生日を迎え,贅沢は出来ないが、現在の何とか人並みの生活に心より満足し私の人生に関わって下さった方々のお蔭と感謝しています。

前列 左から私と新しい弟、叔母、新しい母、父、叔父、姉(現在アメリカ在住)
後列 左から知事相談役の岡崎夫婦(奥様は母の姉)母の両親、母の妹と弟「昭和24年11月1日撮る」