馬鹿琴の独り言

独り言を綴ります。時にはお相手して下さい。

超意訳:南総里見八犬伝【第十一回 仙翁、夢で冨山に栞を残す/堀内貞行、霊書を奉る】

2024-06-15 01:08:54 | 南総里見八犬伝

【再識】

 この編第二巻(第十四回)に至ると、伏姫のことは書き尽くしたことになる。
 第十回の題名は【禁を犯して、金碗孝徳、女性を失う/腹を裂いて伏姫、八犬士を走らす】、これは本当は第十三回のものであった。しかしそれ以前に出したのは、発端はまだ書き終わっていないのに、早く刊行してその内容を知らせるためである。従って、後の物語の挿絵も先に公開する。
 だいたい第七巻十四回を一つのまとめとしたかったのだが、出版社の都合でやむを得ない。毎編五巻を毎年発刊するつもりだ。
 簡単な挿絵だが第三集の巻で初めて登場する者がいる。
 それは軍木五倍二(ぬるでごばいじ)、網乾左文二郎(あぼしさもじろう)、土田土太郎(どたのどたろう)、交野加太郎(かたのかたろう)、板野井太郎(いたのいたろう)である。
 八犬士の身の上もまだ定かではないが、出版社からの催促が厳しい。そのために、下書きにもまだ至っておらずあらすじすらまだ決まっていないが、無心になってまず絵を注文し、後でその画に合わせる様に作り直しているところもあるが、大体はこの絵の通りで違いはない。
 これは私一人の考えですることであるが、ただ内容の清書、版木彫刻に間違いが多いのを訂正する手間もない。

 

悪役の軍木五倍二、亀篠(かめざさ)と犬塚番作、手束(たつか)夫妻。
夫婦喧嘩してるのかしら?

 

 

あれ?額蔵だ。奴隷って書いてありますね。幼児も抱いています。その正体は……後のお楽しみです。

駕籠の中身は犬塚信乃さん。

 

 

土田土太郎、交野加太郎、板野井太郎の河童三人衆。この辺りは名づけも適当な馬琴翁(笑)

網乾左文二郎は後で網乾左母二郎に改名(?)します。悪役さん。

左はマドンナ、浜路姉さん。印刷の具合なのかダークな衣装を着ています。

 

【第十一回 仙翁、夢で冨山に栞を残す/堀内貞行、霊書を奉る】


 里見治部少輔義実は、山下、麻呂、安西らの大敵を滅ぼして、麻の様に乱れていた安房四郡を良く治め、威風を上総のすべてにまで及ぼした。靡こうとする武士も多いので、鎌倉の両管領である山内顕定、扇谷定正も里見家を侮りがたく思うようになっていた。
 両管領は再び京に上奏して里見義実の官職を進めて、治部大輔とした。
 このころ1455年康正元年、鎌倉公方だった足利成氏が鎌倉から古河へ退去したため、山内上杉家の山内顕定、扇谷上杉家の扇谷定正の二人が関東管領になっている。

 この様にめでたいことが毎年続いたが、里見義実は昨年安西景連に攻められて、籠城と困窮の困難の折り、士卒の飢餓を救おうとして思いもかけない一言の失言をしてしまった。その結果、最愛の娘を犬の八房に伴わせ、一人と一匹は富山へ入り、その安否は絶えて分からなくなってしまった。
 里見義実は、世間の噂や人々の非難を忘れることもなく後悔していたが、さりとてその思いを顔にも出さなかった。

 富山の谷川に失踪して、配下の者はもちろん家族も会えなくなっているが、木こりや狩人が出会うことがあれば、親の私や五十子、弟の義成に出会うより恥ずかしいことであろう。
 と里見義実はそう考えて、先に国中に知らせた富山への入山禁止と入山した者への死刑のふれを徹底させた。

 またずっと心配の種だったのが、金碗大輔孝徳のことである。

 金碗大輔は安西景連に兵糧を借りようとして出発した。今はその行方は分からない。
 安西の計略に謀られて捕まってしまい、残念なことに命を落としたのだろうか。或いは討ち死にしたのかもしれない。
 功がありながら賞されることを辞退し、腹を切って亡くなった親の孝吉の最期に誓ったのだ。
 何とかして孝吉の子供を一城の主にして、婿としようと思っていたのに、事情が変わってしまった。思う様にはならないものが人の身の上、去年と今年も満ちては欠ける月は変わらないのに、人間だけが変わり果てていく。
 子供がどうなってしまうのか、と人に尋ねることではない、子の行く末に迷う親の常闇は、自分自身から照らす手立てもなく、独り物思いに耽るしかない。

 百万騎の敵を見ても物の数とはしない智仁勇を兼ね備えた大将里見義実ですら、今更手立もなく、この様に思いが屈してしまっている。奥方の五十子に至っては、その月その日の伏姫と別れた時の面影のみを追い続け、泣き暮らし、また泣き明かしていた。
 姫はつつがなくいるだろうか、帰って来る日がどうか来ます様に、と神仏に何度も祈る手のひらも指も細くなり、朝夕の箸を取るのも物憂げになり、食事の膳も進まなかった。
 そばで仕える侍女たちも皆、五十子様の願いがかないます様にと言うだけで、慰める手段が他にない。
「皆がそれぞれ心を鬼にして富山の奥に登れば、姫君の行方が分かるのでは」
 と密かに語り合い、洲崎神社の行者の石窟への代理参詣を、と理由を作って、富山に赴く者もいた。道もおぼつかないが伏姫を探すためである。
 その中には、探すつもりは満々ではあったが、山道の凄まじさにとうとう登れず、麓から帰る者もいた。数年来武家の家に仕えて、肝の座った者は案内人を雇って先に進んで、辛うじて山に入ったが、尼崎十郎輝武が押し流された川の向こうには行けなかった。山の案内人も恐れて、川を渡れなかったのである。

 元より川の向こうは常に霧が立ち込めており、水音もおどろおどろしく、視界も悪い。こちら側の岸の茨には花が咲いているのに、向うを見ると、針のむしろに座る思いで身の毛が立つ心地になり、引き返してしまうのである。
 伏姫を見つけることができずに、報告だけを五十子にすると、母君はまた聞けば聞くほど、懐かしき姫が受けているはずの艱難辛苦を思っては嘆いた。
 娘の苦しみはどの様なものか、独りで城で考えてみても、富山の川の霧が障壁となり思いもつかない。
「娘に逢えないのであれば、焦がれて思い悩むより、飛んで火にいる夏の虫の様に私は死んでしまいたい」
 と何度も繰り返しては咳も激しく、また泣くのだった。五十子はこんなことを繰り返し、遂に長く病気になり臥せることになる。

 医師は五十子を死なせまいと様々な治療を施したが、杏林の故事の様な成果はなかった。
 古代中国の董奉という医師が無償で患者を治療し、治療代の代わりに杏の木の苗を植えさせてそれが林となったことから、良医を杏林と呼ぶのである。

 また祈祷を行った修験者は神仏習合の札で邪を祓おうとしたが、枯れ木に花が咲く様なこともなかった。

 何日か経過して危篤になった時には、里見義実は病床に寄って五十子を見舞った。かしづいていた侍女らは、
「殿がお越しです」
 と言い、五十子は人の手に助けられてようやく身を起こしたが、言葉が見つからずにただ里見義実の顔をつくづくと見上げた。
 その顔は瞼が窪み、頬には涙の露の玉の緒がたくさん流れた跡があり、命が持ちそうもない様子に、里見義実も妻の顔を良く見つめて心の中で嘆くものの、優しく語り掛けた。
「今日の気分はどうか。四五日経てばようやく起きれるようになるでしょうと今、医者たちが申していた。何ごとにも心強く、気長に保養するのだぞ」
 と慰められても、手を膝に置いて首を振り、
「医者が何を申しても、ここまで瘦せてしまえば、帰れぬ旅に逝く水が生き永らえることはできそうもありません。病み患いの原因は何でしょうか、お考えになって下さいませ」
 五十子は絶望していた。
「もし蓬莱の不死の術、不老の薬があったとしても何になるでしょう。とにもかくにも現世の生きている間の思い出に、もはや逢うこともかなわない伏姫に、今一度逢えるのであれば、それは私にとって仙丹奇包、これに増す霊薬はないのでございます。こうお話すれば、浅はかなる女の愚痴や僻みとお𠮟りになって下さい。しかし国のため、親のため、身を犠牲にして飼犬に伴われつつ、足を引きずりながら山に入った姫の類いまれなる心構えを。類いまれなる因果のせいで姫を捨ててしまったと思うのであれば」
 強い決意で五十子は続けるのである。
「民には仁義の君であっても、子には不慈な親と申し上げる他ございません。憚りあることでございますが、言わせていただきます。国に誠を示すとしながら、我が娘を捨てるなど、富山も殿が治める安房四郡の中ではございませんか」
 息を整えて、五十子は力を振り絞った。
「なのに毎年毎月に姫の安否を尋ねさせ、みずからもお行きになってご覧になり、姫にもお姿をお見せになれば、互いに憂いも苦しみも慰める手立てになりましょう。それなのに、木こりや炭焼き、牛飼いの牧童にまで山に入ることを禁じたのはどうしてでしょう。たとえ由々しき魔界であったとしても、誠のことを言えば親と子ではありませんか。安房の領主であるご威徳を以って、今もなお姫が無事で富山の奥にいるのかどうか、お調べになるお気持ちがあるのならば、そう難しいことではございませんでしょう。これが今際の願いにございます。つれないことをなさいますな」
 と恨み言を言いつつ、詫びつつ、せわしく息も吐かない五十子に言われて、里見義実はじっと黙っていたが、ようやく頭をもたげた。
「五十子の言うことはもっともなことだ。ことの始まりは我が一言の過ちから子を捨て、恥を残したこと、お前と同じ、いやそれ以上に口惜しく思っているのだ。人は木石ではない、親子の愛、家族の愛の絆を断つことは難しく、執着する絆は決して解きやすくはないものなのだ。心の中の馬が狂うがまま煩悩の犬を追えば、天下の公道は荒れ果てて、それを侮り侵す者があれば、この国は再び乱れてしまうと私は恐れて、情を絶ち、欲を抑えて見ようとしなかった。山里に住む者らまでに富山に登るのを許さなかったのは、姫のために恥を覆い隠し、愛に溺れて法を曲げ、規則を守ろうとする私の心を民に分かってもらうためだったが、お前の嘆きはあまりにも不憫である。考えを巡らして、姫の安否を調べることにする。心安らかに思いなさい」
 と、とうとう里見義実は妻の願いを承服した。
「殿の頑ななお心が解けなさったか。病み患いをしなければ、こんなにありがたい仰せを聞くことはなかったでしょう。待つ間は辛いものでございます、それはいつごろになりますでしょうか」
 五十子に問われて、しばらくの間深く考えて、
「簡単なことではないが、お前のために急がせよう。遠からずして吉報があるだろう。頼りにしてその間は身体を自愛し、待っていなさい」
 と優しく返答した。
 里見義実がやがて外に出て、侍女らはそれを見送るのだった。

 この時、里見義実の嫡男、安房二郎義成は去年から真野に在城して、安西景連残党を討伐し、辺り一帯を治めていた。
 しかし母上が危篤と聞いた日から、老臣杉倉木曽介氏元に城を守らせて、自分は滝田にやって来て母を熱心に看病するのだった。
 親孝行の孝心があまりに立派なので、里見義実は夜更けに密かに義成を招いて、富山における姫の探索について、すべてを相談した。
「私は五十子を安心させるために、かりそめに承諾したが、尼崎輝武のこともあり、皆が恐れる山へ誰を遣わせて、姫に会わせようか。もし勇なる者がいて富山へ使いをしようとしても、ことを成し遂げられないのなら、我が里見家の威を落とし、もしかしたらその者は死ぬかもしれん、とにもかくにも難儀なことだが、そなたはどう思うか」
 と聞けば、里見義成は膝を進めて、
「私もこのことを侍女たちが話すので、早くから聞いておりました。絶えて久しい姉上の安否の分かれば幸いでございます、大変喜ばしいことですが、様々に配慮なさっており賢きお考えです。所詮、誰彼と選んで家臣に言いつけられるまでもございません」
 里見義成は自信ありげに話した。
「私には二人とない姉君のことにございますので、この義成、承って富山の奥に登りましょう。見つけるまで止めません。例え、例の犬に霊力があって、雲を起こし風を呼び人の心を惑わそうとも、妖は徳には勝てないでしょう。母のいつくしむ心と善なる心を盾にして、父の武徳を鎧にして、我が家に伝わる弓矢を携えれば、さまたげはまったくございません。ご命令下さい」
 と父に請うのである。
 早口で話し拳をさすりながら、すぐにでも飛んで行きそうな息子を、里見義実は手を挙げて制して首を振った。
「お前ごときを血気の勇というのだ。頭の良い者はことに臨んでは怖がって、策を好むと言わんぞ。父母がいる時には遠くで遊んだりはしない。まして危ない時にはなおさらだ。我が子もそうあって欲しい」
 父は息子の軽挙妄動をを叱った。
「お前は家の柱石であり、むやみに焦って過ちがあれば、我が家にとって大きな不孝になるだろう。しかしだからと言って、私もまた祟りを恐れて行かない訳ではないぞ。生涯会うまい、姿を見るまい、見まいと誓って、姫と別れてまだ二年にもならない。こちらから訪れようということは、神仏との約束を違える所業であるから、非常に心苦しいものがある。しかし今宵までに決めなければならない、ということではない。重ねて考えてみれば、何か良い手立ても見つかるだろう。このことを侍女たちにも言い聞かせて、よそに洩らさない様にするのだ」
 と諭して、里見義成の申し出を許さなかったので、御曹司はもう父に言うべき言葉もなく、畏まって退出した。

 里見義実はそのまま寝所に入ったが、なかなか寝られなかった。
 様々に考えているうちに、早くも明け方になったころ、行方も知らない里見義実の身は、いつしか富山の奥の谷川の岸に佇んでいた。
 そして背後から年齢は八十余り、もしかすれば百歳に近いと思われる独りの翁が現れて、こう言った。
「この山の深くにお入りになるのであれば、ご案内いたしましょう。この川は渡るのが難しく、右手の方に木こりだけが通る一筋の細道があります。去年から入山が禁止されてしまったので、茨や棘が繁茂してしまい、道がどこが見えなくなっています。私はすでに枝を折り、草を曲げて、目印の栞を作りましたので、そこからはお供しなくても迷われることもありません。最後まで進めばお望みを遂げられるでしょう。あちらへお進みなされ」
 と指差しして教えた。
 不思議なことと思って、里見義実は翁に名を問おうとしたが、そこで眼が覚めてしまった。

 これは華胥国の夢といって、古代中国の伝説上の天子である黄帝はある日夢を見て、華胥国へ行ったところそこは理想郷であり、眼が覚めた黄帝はそこに習って自分の国を治めたという故事だが、それと同じであると思った。
 そう考えながらもあまりに夢に頼るのもいけないと思い、心には深く留めなかった。
 翌朝も民の訴訟ごとを聞いて決裁し、ようやく私室に入ると、漏刻は未の刻(午後1時から3時ごろ)に近かった。 

 そこへ一人の近臣がやって来て、うやうやしく額を着いて、
「堀内蔵人貞行殿、お召しに応じて東條城から参上されました」
 と言う。
 それを聞いた里見義実は眉を寄せて、首を捻った。
「堀内貞行を呼んだ覚えがないが、五十子の病気を伝え聞いてみずから来たのかもしれん。それはともかく、私も聞きたいことがある。良い機会だ、すぐに呼ぶが良い」
 と近臣を急がせた。そして人払いを行い、喜んで堀内貞行の訪問を待った。

【馬を飛ばして堀内貞行、滝田に赴く】

 

 

堀内貞行さん、まだお若い感じですね。いつもご苦労様です。

 

 堀内貞行は長い間東條に在城しており、民衆を撫育する心が篤く、長狭一郡を穏やかに治めていた。一日に何度も自分の言動を反省するという論語の教えを守って、自分を厳しく律していた。
 万事任務に忙しくしており、去年から滝田には久しくしていた。思いがけず顔を見れることに、里見義実は喜び、近くに寄る様に命じた。
「蔵人、変わりはないか。お主を東條の城代を守る様に命じてから、悪い話を聞かないでいる。その真心の忠義のいたすところ、これに増す喜びはない。今回の参上は五十子の病が重いと聞いて、見舞いに来てくれたのか」
 と問えば、堀内貞行はようやく頭を挙げ、
「お言葉ではございますが、先に君命をいただいた日から、東條城を守ることが私の職分でございます。仮に見参を乞い願いましても、お許しをいただかずに参る訳もございません。火急のお召しがございましたので、とりあえずただいま到着した訳でございます。それなのにお召しになっていないとは、お戯れでございますか」
 と不審そうに言う。
「おい蔵人、このところ心配ごとが多いのだ。何が楽しくてお前をはるばる呼ばねばならないのか。まず何者が私の命と伝えたのか。証人はいるのか、訳が分からんぞ」
 里見義実が怒った様に言えば、堀内貞行も理解できないでいたが、別段騒ぐことはなく、
「お言葉を返すようで恐縮ですが、一言申し上げたきことがございます。昨日、年寄りの下男が殿のお使いであると申し上げて、東條城へやって参りました。会ってみますと顔に見覚えがございません。不思議に思いながらも謹んで君命を承りますと、お使いの下男は私にこう言いました」
 淡々と話すのである。
「この度、奥方様の願いにより、殿がみずから富山に赴き、伏姫様の元に参ろうと、用意をしておられます。しかし公ではなく、お忍びの狩猟として参られる予定です。富山は厳しい高嶺であるから、非常の備えが必要です。しかし従者をたくさん連れて行くのは不都合です。よって今回のお供には殿は堀内貞行を、つまり私を、とお思いになって、滝田に行くことを命じられました、そう話すのです」
 里見義実はうなづくしかなかった。
「年寄りの下男はこう申しました。自分はこのところ洲崎の岩屋の近くに住む名もなき下男ですが、富山に詳しく、殿に道案内をせよと命をいただきました。更に、東條への使者も承って、年寄りながらも走ってきました。そして殿のご指示書をうやうやしく渡しましたので、拝見しました。拝見しますと」
「読むとどうであったのだ」
「拝見いたしますと、下男の翁が申し上げることと同じでございましたので、早速彼を滝田へ戻しました。私は馬に鞍を乗せて、従者が続くのを待たずに夜を徹して、道を急いで館に参りました。殿にお会いしてみれば」
 話が違っておりましたと言う。
「さてはあの下男こそ曲者と思いましたが、本物に見えるご指示書がここにございます。ご覧下さい」
 と懐から命令書を取り出し、里見義実に渡した。
 中身を開いて里見義実は、これは何ごとか、と堀内貞行に見せた。見せられた貞行も驚き、
「私が昨日見た文字はここに一つもなく、如是畜生発菩提心に変化しております。一体どうしたことでございましょう」
 主従は呆れて、半刻(約1時間)の間、途方に暮れるのだった。

 里見義実は如是畜生発菩提心の文字にふと気づいて、命令書を丸めて、
「蔵人、お前が申したことは、嘘偽りではない。不思議なことだ。この書を渡した下男の翁の年齢や面影がどうであったか、詳しく説明せよ」
 堀内貞行は面目もないといった表情で言った。
「例の翁は八十あまり、百歳にもなっているかもしれません。眉は長く、綿花を重ねている様にも見えます。歯は白く、瓢箪の種を並べている様に見えました。身体は痩せていましたが、健やかの様です。老いてはおりますが、意外と若いのです。眼光は人を射抜く様ですが、猛々しくはありません。世に言う道顔仙骨、世俗を超越した容貌はあの翁はしていました」
 里見義実も手を打ち、
「なるほど私の見た夢と同じ様な奇談だ。疑うべくもない。洲崎の岩屋に顕現された役行者の奇跡だ。始めから話そう」
 夫人五十子から頼まれた伏姫の安否の消息、また親思いの里見義成の孝心と勇気、思い悩んだ挙句見た夢に出て来た富山の奥で翁と会ったこと、すべてを話し、
「夢は身体の疲れに現れる。当てにはならないと思っていたが、ただいまお主が申した翁の面影が、私の夢に出て来た通りだった。それだけではなく、如是畜生発菩提心の八字をもって、過去と未来を示したことは、伏姫が幼った時多病でなかなか泣き止まなかったが、洲崎の岩屋の役行者のご利益で、健やかに成長したことだ。翁から会得した水晶の念珠には、仁義礼智忠信孝悌の八つの文字があった。難儀した籠城戦の後、我が一言の過ちで伏姫を八房に許してしまったあの日、例の八文字は消滅してしまい、いつしか如是畜生発菩提心に変わっていた。1442年嘉吉二年の夏の末、伏日、つまり最も暑い夏のころに生まれたので伏姫と名づけていたが、後に人にして犬に従うことになる、名詮自性、名がそのもの自体の本性を現したのだ」
 里見義実は過去を振り返った。
 逃げられない因果であるから、姫が身を捨てた原因は、親のため、国のため、仁義八行を世の人に失わせないためではあるが、苦節と義信の良い報いによって、如是畜生の文字に誘われ、遂に悟りの境地に達したのだと語った。
「あえて姫を止めず、望みに任せて、早や二年になったが、安否を問わず、聞こうともしなかった。木こりや狩り人らまで富山に入山を禁止をしたが、今、五十子の病が重く、妻の願いを黙って見過ごすことができず、姫の行方を調べようと思ったが難しいと思っていた」
 奥方のことになると、口調が重くなる。
「だが私の夢に見た翁の面影は、この書をお主に渡した者と少しも違わない、どうやら二人とも、神変不測の霊験で、この義実の疑惑を溶かし、富山の奥へ導こうとなさる役行者の顕現を疑ってはならない様だ。だから入山禁止の法度をやめて、伏姫に再会の時が来た。役行者の示現にお任せして、お主を連れて行こう」
 少しだけ心が晴れた様な顔になった。
「だがこのことは内密にしよう。人々は珍しく変わったものを好む。示現の霊応は誤ることがないので、私がもし姫に会えたなら、それを知った人々は、霊応などについて喋るだろうから鬼神の徳を乱すことになるだろう。あるいは富山を探し回って遂に伏姫に会えなければ、夢を信じて姫の面影を追い、幻の偽物を見て風を取ろうとする義実の愚かさを知らしめて、世の物笑いになるだろう。この度の従者はお主の他に十四五人にして、無口で真面目な者を選ぶとしよう。明日早く出よう、心構えと準備をせよ」
 と指示をすると、堀内貞行は深く感銘を受けて、何も反論しなかった。ただ、
「姫上が幼かったころ、役行者の霊験の話、あの水晶の数珠の話、私も大体存じておりました。今回の奇跡に符合する、とお思いなされたのは、ただただ我が殿の叡智でございます。しかしながら姫上の善と正しい道を守ろうという心がなければ、ここまでの奇跡は起きませんでしたでしょう。もし当てが外れてもご判断はきっと正しいことでしょう。ご出発のことお急ぎ下さい」
 と返答し、詰め所に下がった。

【霊書を感じて主従は疑いを解く】

 

 

義成さん、盗み聞きはあかんで。

手紙の中身は 如是畜生発菩提心。

 

 里見義実は決心を秘めて奥方の五十子にも言わず、ただ嫡男の義成にだけ打ち明けた。
 里見義成も感動して、父に代わって富山に行きたいと思ってはいたが、役行者の奇跡は自分には起きなかったので、諦めざるを得ない。特にこの日は母の五十子の具合が悪く、危篤になりそうだったので、滝田の城に留まることにした。
 せめて妻の命のあるうちに、と里見義実は気ぜわしく、夜明けを待ちわびてから、
「長狭郡富山の麓にある大山寺に詣でてくる」
 と家臣にお触れを出させて、未明から出発した。忍びでのことであるから、供の数は堀内蔵人貞行ら二十人にもならなかった。

 そして里見義実は、堀内貞行と二騎馬を並べて、ひたすら鞭を振るって、急いでその日のうちに富山に登った。どうにか尼崎が流された川まで来ると、岩の形状、木立の光景、すべてあの夜見た夢と違いがなかった。試しに茨と棘と分けて、道を求めて一町あまり(約100メートル)右の方へ入って行くと、果たして枝を曲げ、草を丸めた栞が夢の通りにあった。
 主従はその栞を見て、眼を合わせて、役行者の奇跡を信じる心が増し、勇んだ。ふと背後を見ると、堀内貞行だけがいた。他の徒歩の従者らが遥か後方に遠ざかっており、続く者はいなかったのである。しばらくすると、馬飼いがただ一人喘ぎながら登って追いついて来た。
 里見義実は馬飼いを見て、堀内貞行にこう言った。
「すでにこの霊験の栞さえあれば、他の者は従う必要はない。彼には馬を引いて麓まで帰らせて、我らを待つ様にさせよ」
 堀内貞行は馬飼いに命じて、あすなろの木に繋ぎ止めていた馬と麓まで降りる様にと、主人の命を伝えた。

 ここから先は主従また二人、栞を頼りに道を求めつつ、山蛭対策に笠を傾け、蔦や葛に足を取られない様に、互いに高く声を掛け合って、つづら折りの山道をどことも分からずに登り、降り、苦労しながら進むのだ。
 進んで行くと川上に至り、大きく繁った樹木の下の暗闇を抜ければ、とうとう川の向こうに出ることができた。

 

(続く……かも)


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2 コメント

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絵の意味がわからない… (栗八)
2024-06-15 20:12:07
いきなりタケシ軍団か?というようなネーミング!
どうした?
と思っていたら、おどろおどろしい絵ばかり…
だけど。またまた義成さんは出番なし

次回の展開が非常に楽しみ!
返信する
タケシ軍団 (馬鹿琴)
2024-06-16 18:24:48
そうなんですよ、酷いネーミングですよね。
犬塚信乃編に出てくる人ばかりなんですが、乞うご期待。

先走り過ぎだなあ、と思ってしまいました。
返信する

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