2024年12月7日、福知山城に登ってきました。
福知山城は続日本100名城の158番目、私は2回目です。
駅近です。
豊岡駅から約1時間で福知山駅に着きました。
駅構内に鯱がいるのです。よしよーし、撫で撫で。
福知山音頭なる歌があるそうです。
福知山出て 吉田野 越えて
駒を早めて 亀山へ
亀山って丹波亀山城のことですかね?
JR福知山駅です。
ききょう通りと名づけられた道を東に向かって進むと、可憐な桔梗がタイルとなっておりました。
市役所まで来ると、
福知山城が見えてきましたよ!!
福知山市役所はお城とスイーツのまちを謳っているのです。
お城がまた見えていますが、お空が曇っています(´・ω・`)
マンホールは福知山城と福知山音頭をかたどっております。
ここが登城口なのです、ちょっと長い坂です。
青空が欲しいポイントです。
ほら、右側はもうお城ですよ。
晴れました(*´▽`*)
石垣が良いですねえ。
ドッコイセ、ドッコイセ、と進むのです。
着きました、振り返ると、
シュッとした天守がお迎えしてくれるのです。
紅葉と光秀の自動販売機、確か声を出してくれるはずなんですよ(笑)
転用石があるのですが、分かりますか?
番所跡。再建してここに持ってきたそうです。
あ、光秀がいますよ(笑)
また石垣を良く見てみましょう。
物凄い数の転用石です。仏罰はなかった……いやそれが本能寺の変でもあり、山崎の戦いの敗戦だったりして。
井戸です、豊磐の井(とよいわいのい)と書いてあるのです。
水は見えませんがとても深い井戸です。
井戸の深さは50メートル!?
天守近くには朝暉(あさひ)神社があります。
1669年寛文9年福知山初代藩主朽木稙昌が父の稙綱を城中に祀ったことに始まり、11代藩主の綱條の時に朝暉神社を建立したんだそうです。
無事を祈願しました。
中に入りましょう、入館料は330円です。
資料は一部以外は撮影OKなのです。
もうあれから4年ですか、大河ドラマ駒が来る、違う麒麟が来る、は。早いなあ。
美濃と越前、尾張の関係図。
奥方の煕子さんが長い自慢の髪を売って、光秀が友と過ごす会の費用を工面した話がありますね。
O・ヘンリーはここから賢者の贈り物のヒント得て小説を書いたんだとか(大嘘)
2階にはいろいろ資料があって楽しいのです。
明智軍記。
江戸中期の元禄期に書かれた作者不明の物語。
信長が松永久秀の平蜘蛛の茶器を欲しがったのに、久秀は渡さずに砕いて後に爆死しちゃった話。
愛宕山の連歌会で光秀が詠んだ歌。
時は今 天が下しる 五月哉
絵本太閤記なんてのもありました。
信長怒って光秀を打擲(ちょうちゃく)する図ですって。
殴られた光秀の顔と殴った信長の顔は必見ですね。光秀は桔梗が描かれた服を着てます。
丹波攻略戦の説明です。
こちらは黒井城。また登りたいお城です。
良い眺めです、同じ場所から撮りたいですね~
明智玉ちゃんこと細川ガラシャタン。
コーエーテクモ系風に描かれた金柑頭こと光秀さん。
天守最上階に登る途中には、
大江山酒呑童子を退治する源頼光と四天王VS鬼の軍団が描かれていました。
渡辺綱、坂田金時、卜部季武、碓井貞光、あれもう一人、藤原(平井)保昌がいますよ。
彼は和泉式部と結ばれており、今の大河のもう一人の主役、藤原道長に仕えています。あ、丹後守を受任してるんですって。
ちなみに源頼光は但馬国を受任しております。
坂田金時は右で雑魚の鬼をブン投げて大活躍。
面白いのは背後に神々がいることでしょうか。八幡大菩薩、住吉大明神、熊野大権現のお名前があるのです。
八幡は源氏の氏神ですし、住吉と熊野は海の神様っぽいですねえ。
天守から外の眺め。鬼退治の大江山は良く見えません(´・ω・`)
下に降りましょう。
良くできた復元天守でした。
外に出ました。
この階段急なんですよ、手すりがないと怖いです。
扇ほどではありませんが、わずかに勾配です。
右側の紅葉が美しいのです。
昇龍橋という太鼓橋を渡って東側から一枚。
結構渡るのが怖い太鼓橋でした。
太陽が眩しいのです。
今ごろ見つけました石碑でございます。
少し歩いて明智藪、光秀堤なる者を見に行きましたが、良くは分かりません。
治水工事で作ったものなんですって。光秀さんは福知山とかでは評判が良さそうです。
明智藪から見たお城。
15時半です、そろそろ引き上げましょうか。
丹波篠山方面に向かう電車の中から見えた福知山城です。
福知山を後にして帰ります、でわ。
懐かしいです
福知山は数度仕事で行きました。
勿論、福知山城も行きましたよ
私は京都から園部を通り
福知山から大江山を抜けて
宮津に行ってました(^∇^)
コメントありがとうございます。
懐かしいですか。それはそれは。
園部も綾部も宮津もまだ見ぬ城があるので、行って来ようと思っております。
大江山は鬼の見学に(笑)
黒っぽくなっている古い石垣がいいな~と思っていたら
すごい天守台ですね!
これ、現存なんですか?
天守復元時に積み直されたのでしょうかね?
私的には、日本一コワイ天守台です。
積み方も荒っぽいし…ビックリしました。
と、思いきや、転用石以外の石積みはきちんとしていてホッとしました。
算木直前の角
なかなかにちゃんとした立派な石積みですね。
さて、茶釜!
うっすらと記憶にあったのですが、調べました、、はっきりしました。
ありがとうございました。
打擲する図
お二方の顔が…笑ってはいけないが…
詳しくない城なんですが、ひとつ伺いたい
「海の京都」とはどういうことなんでしょうか?
天守台はほとんど残っていた様です。
天守は取壊し(´・ω・`)
よく天守台は残りましたね。感心しました。
また海の京都、これは京都府のウェブサイトに出ておりました。
https://www.pref.kyoto.jp/kikakuriji/uminokyoto.html
古代から大陸との交流があったことを指しているとのことでした。
松永久秀は実は爆死をしてないそうなんですが(笑)
絵本太閤記の影響力は凄いですね。
叩き壊したぐらいじゃ、インパクトないってことですよね!
海の京都
現在進行形の企画でしたか…わざわざ調べてもらってすいません。
天守台
そうですか、、残ったのですか、、ではあの転用石は、光秀の…
他の石積み見てたら石が不足したって感じじゃないですよね?
ってことは、弾圧?恨み?見せしめ?空威張り?
いろんなこと思ってしまいました、、複雑な境遇だったのを想像いたします。
姫路、大和郡山、安土などにありました。
石材がない場合、足利義昭用の二条城を急ごしらえで急いで作る途中、墓地や寺から拝借したみたいですよ。
また姫路も不足していたので、募ったらお婆さんが石臼を供出したんだとか(笑)
いろいろ考察できますね。
https://shirobito.jp/article/831
呪術的な意味合いとか供出した住民に報いるとか、思っても見なかった情報がありました。