少数派シリーズ/政治情勢
泉房穂・前明石市長③田原総一朗Q「頑張れる環境の整備を、子供に投資・公的予算を3倍に」
■泉氏「日本が疲弊しているのは子供や教育に十分な予算を投じないからです」
毎日新聞を活用しました/前兵庫県明石市長、泉房穂さん(60)は3期12年の在任中、手厚い子育て支援策が評価を得た一方、問題発言が続き全国で知られるようになりました。引退後は地方選で支援した候補者が相次ぎ当選。政界復帰も取り沙汰される中、教育改革にもこだわります。ジャーナリストの田原総一朗さん(90)が真意に迫ると、辛酸をなめた10歳の体験から猛烈に語り始めました。
投稿者の文章|既号の泉房穂・前明石市長①②とは別の企画記事をアップしました。田原総一朗氏が、泉氏をインタビューする形式です。なお一部①②記事と重複する箇所があります。今号も、熱血漢溢れる泉氏の生き方です。今なお政治の改革に取り組み、熱心に社会保障の在り方を語る背景に、幼い頃に弟さんの不遇が原点になっていると思います。
田原「経済的に貧しい子供時代だったそうですね。脳性小児まひがある4歳下の弟さんを地元小学校の普通学級に通わせるため、泉さんが一緒に登下校していたとも聞きました。なぜ、養護学校(現在の特別支援学校)を選ばなかったのですか?」
泉「弟は2歳のときに医師から「一生立てません」と言われました。旧優生保護法(1948~96年)の下で、障害者らへ強制的な不妊手術が行われているような時代で、おかんは「起立不能」の診断書が出た時には無理心中を図ったそうです。でも、弟は4歳で立ち、5歳で歩きだしたんです。家族で「6歳の小学校入学に間に合った」と喜びました。それでも歩きにくさはあるので、遠くにある養護学校よりも、近くの小学校が便利に決まっています。だが、市側は「そんなに足が悪いのだったら、電車やバスに乗って遠くの養護学校に行ってください」との立場でした。掛け合った結果、地元に通うのなら「送り迎えは家族がする」「何があっても行政を訴えない」という条件を出されました。おやじもおかんも午前2時半から漁で家を空けています。10歳の私が弟に付き添って登下校しました。弟に空のランドセルを背負わせ、手を引きながら私が2人分の教科書を背負いました。校門近くのトイレで教科書を入れ替え、教室に送り出しました。悔しい思いもありましたが、弟は普通学級に通ったことで健常者の中でも気負わず生きられるようになれた。今も小学校の友達と交流があります。「自分は障害者だ」という感覚があまりなく、消防団にも入っていました。
田原「障害のある子もない子も同じ場で学ぶ『インクルーシブ教育』を実践する自治体も出てきました。ただ、十分なサポートを受けられる特別支援学校を望む保護者も増えています。」
泉「障害を持つ全ての子供にとって、普通学級が良いとは思っていません。障害が重く医療的ケアが大変なので家庭で学ぶことを望むケースもあります。特別支援学校や通級指導(普通学級に在籍しながら別室などで特別な授業を受ける)を希望する人もいれば、私の弟のように、普通学級で健常者と一緒に学ぶことを望む家庭もあります。選択権の保障が大切です。つまり当事者とその家族が選べる環境をつくることです。私が市長になってからは、明石市では本人や親御さんの意思をできる限り尊重しました。環境整備のためには、先生の数も増やしていいと思っています。でも市長時代にもどかしかったのが教育行政です。市立小中学校でも教職員の人事権など多くの権限を県教育委員会が握っていて、市側が柔軟に対応しにくいのです。子供や親御さんたちの近くにいる市に権限を委譲してもらえれば、取り組みを一気に進められたと思っています。」
田原「厳しい家庭環境ながら、泉さんはどうやって東大への合格をつかんだのですか?」
泉「ものすごい使命感で勉強しました。10歳の時には、理不尽で冷たい世の中を変えようと決めていました。東大に行ったら、きっと賢い仲間が見つかり、そのための力をつけられると考えたんです。大学受験する時、家の年収は100万円台でした。両親とも貧乏漁師の家に生まれ、午前2時半から働いても、私の家のおかずは十分じゃなかった。幼いころは洗濯機すらありません。頑張ったから報われるわけじゃないと思いました。塾通いの発想はありませんし、根性だけで合格したのかもしれません。受験直前は海で溺れかけて悲鳴を上げる人を助けに行く自分を思い浮かべました。眠くて目をこすりながら勉強している自分が寝てしまったら「助かる命が助からない」とイメージしたんです。」
田原「東大の学生は富裕な家庭が多いですよね。実態調査(2021年度)を見ると、世帯年収が「950万円以上」と答えた学生は4割を超えています。」
泉「私は給付型の奨学金をもらえましたし、入学金や授業料は払わずにすみました。一方、周りの学生は全く生き様が違い、塾通いであったり、家庭教師をつけたりして入学していました。彼らは、物事を要領よくこなせるのですが、思考が十分に働いていないように感じたんです。現状を変えるには、どうすればいいのかという想像力にも欠けているんです。こうした学生たちが中央省庁に入り、日本を仕切っているのなら、我が家が受けたような理不尽への想像力も働かないと思いました。恵まれた環境で生きてきた人たちは「頑張って報われないのは努力が足りないからだ」と思いがちです。でも、報われるには、頑張れるだけの環境を持てる親の経済力とか、いろんな要素がある。そこを抜きに自由競争の名の下で、自己責任にするのは間違っています。
田原「『教育格差』をなくすにはどうすればよいでしょう?」
泉「子供や教育にかける予算を3倍にすべきです。日本は教育にかける公的予算が少なく、例えば大学など高等教育にかかる費用の私的負担割合はOECD(経済協力開発機構)の加盟国平均が31%なのに対し、日本は67%にも上っています。小中学生への公的支援は広がりつつある一方、高校生がいる家庭は谷間です。家計が苦しくて塾通いできないと、大学受験はかなり不利です。経済格差が影響しないよう授業料や入学金を免除したり、奨学金を組み合わせたりして支援すべきです。日本が疲弊しているのは子供や教育に十分な予算を投じないからです。市長時代、明石駅前の再開発ビルに子供の遊び場や図書館を入れました。ここだと他の街で遊ぶより何千円か得なので、近くでごはんを食べますし、子供服も買います。こうして駅前の人の流れが変わって商店街も活性化します。親たちは、子供にお金をかけたいけど使えるお金がない。だから少し余裕が生まれると、お金が回るようになるんです。子供に投資すれば、即効性がある形で地域経済が回ります。」
■人物略歴 泉房穂(いずみ・ふさほ)[前出]
1963(S38)年、兵庫県明石市生まれ。東大教育学部卒業後、NHKとテレビ朝日
でディレクター。2003年、民主党から衆院初当選。05年落選。11年から3期12
年、明石市長を務めた。弁護士、社会福祉士の資格を持つ。著書に「社会の変え方」、共
著に「政治はケンカだ!」など。
次号/泉房穂・前明石市長④田原総一朗Q「大人の価値観を押し付けない、変わり者も受け入れる」
前号/泉房穂・前明石市長②各地で選挙応援・明石の子育て支援が「日本標準政策」に
泉房穂・前明石市長③田原総一朗Q「頑張れる環境の整備を、子供に投資・公的予算を3倍に」
■泉氏「日本が疲弊しているのは子供や教育に十分な予算を投じないからです」
毎日新聞を活用しました/前兵庫県明石市長、泉房穂さん(60)は3期12年の在任中、手厚い子育て支援策が評価を得た一方、問題発言が続き全国で知られるようになりました。引退後は地方選で支援した候補者が相次ぎ当選。政界復帰も取り沙汰される中、教育改革にもこだわります。ジャーナリストの田原総一朗さん(90)が真意に迫ると、辛酸をなめた10歳の体験から猛烈に語り始めました。
投稿者の文章|既号の泉房穂・前明石市長①②とは別の企画記事をアップしました。田原総一朗氏が、泉氏をインタビューする形式です。なお一部①②記事と重複する箇所があります。今号も、熱血漢溢れる泉氏の生き方です。今なお政治の改革に取り組み、熱心に社会保障の在り方を語る背景に、幼い頃に弟さんの不遇が原点になっていると思います。
田原「経済的に貧しい子供時代だったそうですね。脳性小児まひがある4歳下の弟さんを地元小学校の普通学級に通わせるため、泉さんが一緒に登下校していたとも聞きました。なぜ、養護学校(現在の特別支援学校)を選ばなかったのですか?」
泉「弟は2歳のときに医師から「一生立てません」と言われました。旧優生保護法(1948~96年)の下で、障害者らへ強制的な不妊手術が行われているような時代で、おかんは「起立不能」の診断書が出た時には無理心中を図ったそうです。でも、弟は4歳で立ち、5歳で歩きだしたんです。家族で「6歳の小学校入学に間に合った」と喜びました。それでも歩きにくさはあるので、遠くにある養護学校よりも、近くの小学校が便利に決まっています。だが、市側は「そんなに足が悪いのだったら、電車やバスに乗って遠くの養護学校に行ってください」との立場でした。掛け合った結果、地元に通うのなら「送り迎えは家族がする」「何があっても行政を訴えない」という条件を出されました。おやじもおかんも午前2時半から漁で家を空けています。10歳の私が弟に付き添って登下校しました。弟に空のランドセルを背負わせ、手を引きながら私が2人分の教科書を背負いました。校門近くのトイレで教科書を入れ替え、教室に送り出しました。悔しい思いもありましたが、弟は普通学級に通ったことで健常者の中でも気負わず生きられるようになれた。今も小学校の友達と交流があります。「自分は障害者だ」という感覚があまりなく、消防団にも入っていました。
田原「障害のある子もない子も同じ場で学ぶ『インクルーシブ教育』を実践する自治体も出てきました。ただ、十分なサポートを受けられる特別支援学校を望む保護者も増えています。」
泉「障害を持つ全ての子供にとって、普通学級が良いとは思っていません。障害が重く医療的ケアが大変なので家庭で学ぶことを望むケースもあります。特別支援学校や通級指導(普通学級に在籍しながら別室などで特別な授業を受ける)を希望する人もいれば、私の弟のように、普通学級で健常者と一緒に学ぶことを望む家庭もあります。選択権の保障が大切です。つまり当事者とその家族が選べる環境をつくることです。私が市長になってからは、明石市では本人や親御さんの意思をできる限り尊重しました。環境整備のためには、先生の数も増やしていいと思っています。でも市長時代にもどかしかったのが教育行政です。市立小中学校でも教職員の人事権など多くの権限を県教育委員会が握っていて、市側が柔軟に対応しにくいのです。子供や親御さんたちの近くにいる市に権限を委譲してもらえれば、取り組みを一気に進められたと思っています。」
田原「厳しい家庭環境ながら、泉さんはどうやって東大への合格をつかんだのですか?」
泉「ものすごい使命感で勉強しました。10歳の時には、理不尽で冷たい世の中を変えようと決めていました。東大に行ったら、きっと賢い仲間が見つかり、そのための力をつけられると考えたんです。大学受験する時、家の年収は100万円台でした。両親とも貧乏漁師の家に生まれ、午前2時半から働いても、私の家のおかずは十分じゃなかった。幼いころは洗濯機すらありません。頑張ったから報われるわけじゃないと思いました。塾通いの発想はありませんし、根性だけで合格したのかもしれません。受験直前は海で溺れかけて悲鳴を上げる人を助けに行く自分を思い浮かべました。眠くて目をこすりながら勉強している自分が寝てしまったら「助かる命が助からない」とイメージしたんです。」
田原「東大の学生は富裕な家庭が多いですよね。実態調査(2021年度)を見ると、世帯年収が「950万円以上」と答えた学生は4割を超えています。」
泉「私は給付型の奨学金をもらえましたし、入学金や授業料は払わずにすみました。一方、周りの学生は全く生き様が違い、塾通いであったり、家庭教師をつけたりして入学していました。彼らは、物事を要領よくこなせるのですが、思考が十分に働いていないように感じたんです。現状を変えるには、どうすればいいのかという想像力にも欠けているんです。こうした学生たちが中央省庁に入り、日本を仕切っているのなら、我が家が受けたような理不尽への想像力も働かないと思いました。恵まれた環境で生きてきた人たちは「頑張って報われないのは努力が足りないからだ」と思いがちです。でも、報われるには、頑張れるだけの環境を持てる親の経済力とか、いろんな要素がある。そこを抜きに自由競争の名の下で、自己責任にするのは間違っています。
田原「『教育格差』をなくすにはどうすればよいでしょう?」
泉「子供や教育にかける予算を3倍にすべきです。日本は教育にかける公的予算が少なく、例えば大学など高等教育にかかる費用の私的負担割合はOECD(経済協力開発機構)の加盟国平均が31%なのに対し、日本は67%にも上っています。小中学生への公的支援は広がりつつある一方、高校生がいる家庭は谷間です。家計が苦しくて塾通いできないと、大学受験はかなり不利です。経済格差が影響しないよう授業料や入学金を免除したり、奨学金を組み合わせたりして支援すべきです。日本が疲弊しているのは子供や教育に十分な予算を投じないからです。市長時代、明石駅前の再開発ビルに子供の遊び場や図書館を入れました。ここだと他の街で遊ぶより何千円か得なので、近くでごはんを食べますし、子供服も買います。こうして駅前の人の流れが変わって商店街も活性化します。親たちは、子供にお金をかけたいけど使えるお金がない。だから少し余裕が生まれると、お金が回るようになるんです。子供に投資すれば、即効性がある形で地域経済が回ります。」
■人物略歴 泉房穂(いずみ・ふさほ)[前出]
1963(S38)年、兵庫県明石市生まれ。東大教育学部卒業後、NHKとテレビ朝日
でディレクター。2003年、民主党から衆院初当選。05年落選。11年から3期12
年、明石市長を務めた。弁護士、社会福祉士の資格を持つ。著書に「社会の変え方」、共
著に「政治はケンカだ!」など。
次号/泉房穂・前明石市長④田原総一朗Q「大人の価値観を押し付けない、変わり者も受け入れる」
前号/泉房穂・前明石市長②各地で選挙応援・明石の子育て支援が「日本標準政策」に