少数派シリーズ/環境・海洋プラ
神宮外苑⑥明治神宮内苑は100年後の現在を見据えて全国から樹木が集められた
■内苑は木々と生物とのお互いの循環で成り立っていることの歴史を知ろう
前号に続き第2部的な、「明治神宮内苑・外苑100年の歴史と背景」の2回目。明治神宮内苑「神宮の杜」(鎮守の杜)の成り立ちを詳しく述べる。特に今号からは、樹木の選定計画に注目する。100年前の先人達が100年後(いわゆる現代)を見据え、どう樹木を選んだのか公園設計のやり取りを伝える。前号でご紹介した建築家・槇文彦氏等の書籍、過去に録画してあったNHK番組、新聞、ウィキペディア・他サイトなどからピックアップした内容だ。NHKの番組は、明治神宮内苑には貴重な樹木が存在し、それが他の木々や生物とのお互いの循環で成り立っている内容だった。さて先人達が“森林遷移”(自然淘汰)を考え、最初は針葉樹、100年後は広葉樹に移り変わることまで想定して樹木を選んだ経緯がある。それが今日、私達が内苑で見る樹木だと思うと感慨深い。100年を掛け大事に育ててきた言わば“鎮守の杜”の背景を知ると、小池都知事や開発業者が外苑の樹木伐採と植樹の単なる植え替えすればいいとする安易な考え方に愕然とする。日本が駄目になるのは、為政者が例えば戦争の真実を知らない、様々な過去の成功例や失敗の歴史を知ろうとしないことに尽きる。
■あえて手入れをせず100年後に“自然の森”になる造園思想で作られた
『まず復習で、1912(M45)年に明治天皇が崩御した。翌年、渋沢栄一ら民間有志が、明治天皇を祀(まつ)る神社を建立しようとした動きが高まり、1920(T9)年に明治神宮内苑が完成した。計画は100年後を見据えて、全国から365種12万本の樹木が集められた。植樹でも100年を経てば“自然の森”になる発想で、あえて手入れや肥料は与えない考え方が採用された。そのことから、今では貴重な植物や昆虫も見られると聞く。一方、神宮外苑は、最初から洋風の公園、スポーツの森として計画され1926(T15)年にでき上った。
当時の内苑予定地の場所はほとんどが原野で、「代々木の原」と呼ばれていた。そのため神社設営のために人工林を作ることが必要となり、造園に関する一流の学者らが集められた。明治神宮造営局の技師らは、明治神宮御境内・林苑計画」(画像参照)を作成した。現在の生態学でいう植生遷移(サクセッション)という概念が、この時に構想され応用された。通常、神社に荘厳な印象を持つのは杉や桧(ひのき)などの針葉樹林だ。しかし代々木は暖帯であり、汽車などの煙害に強い必要があることから、針葉樹は不適とされた。当初は、伊勢神宮のような杉林が好ましいと反対意見があった。しかし最終的には広葉樹、特に樫(かし)、椎(しい)、楠(くすのき)を中心とした広葉樹林を目指すことになった。初期段階は成長の早い針葉樹も併せて植林し、遅れて広葉樹を成長させ、年月を経ておよそ100年後には広葉樹を中心に到達するという手法だ。手入れや施肥などが皆無でも、永遠の森が形成されることを科学的に想定した。いわば、これが日本における近代造園学の創始とされている』。
大正時代の構想から、昭和・平成・令和を経て、現在見ている明治神宮内苑が集大成である。公園設計者の思想により、造園ではあるももの“自然林”のような趣がある。次号では杜を守る成功例として、それだけに内苑に厳しい条件を付けて「杜」を守ってきたことを説明する。
次号/神宮外苑⑦明治神宮内苑が100年も緑を維持できたのには厳しい取り決めがあった
前号/神宮外苑⑤新国立競技場騒動から学んだ明治神宮内苑・外苑100年以上の歴史と背景
神宮外苑⑥明治神宮内苑は100年後の現在を見据えて全国から樹木が集められた
■内苑は木々と生物とのお互いの循環で成り立っていることの歴史を知ろう
前号に続き第2部的な、「明治神宮内苑・外苑100年の歴史と背景」の2回目。明治神宮内苑「神宮の杜」(鎮守の杜)の成り立ちを詳しく述べる。特に今号からは、樹木の選定計画に注目する。100年前の先人達が100年後(いわゆる現代)を見据え、どう樹木を選んだのか公園設計のやり取りを伝える。前号でご紹介した建築家・槇文彦氏等の書籍、過去に録画してあったNHK番組、新聞、ウィキペディア・他サイトなどからピックアップした内容だ。NHKの番組は、明治神宮内苑には貴重な樹木が存在し、それが他の木々や生物とのお互いの循環で成り立っている内容だった。さて先人達が“森林遷移”(自然淘汰)を考え、最初は針葉樹、100年後は広葉樹に移り変わることまで想定して樹木を選んだ経緯がある。それが今日、私達が内苑で見る樹木だと思うと感慨深い。100年を掛け大事に育ててきた言わば“鎮守の杜”の背景を知ると、小池都知事や開発業者が外苑の樹木伐採と植樹の単なる植え替えすればいいとする安易な考え方に愕然とする。日本が駄目になるのは、為政者が例えば戦争の真実を知らない、様々な過去の成功例や失敗の歴史を知ろうとしないことに尽きる。
■あえて手入れをせず100年後に“自然の森”になる造園思想で作られた
『まず復習で、1912(M45)年に明治天皇が崩御した。翌年、渋沢栄一ら民間有志が、明治天皇を祀(まつ)る神社を建立しようとした動きが高まり、1920(T9)年に明治神宮内苑が完成した。計画は100年後を見据えて、全国から365種12万本の樹木が集められた。植樹でも100年を経てば“自然の森”になる発想で、あえて手入れや肥料は与えない考え方が採用された。そのことから、今では貴重な植物や昆虫も見られると聞く。一方、神宮外苑は、最初から洋風の公園、スポーツの森として計画され1926(T15)年にでき上った。
当時の内苑予定地の場所はほとんどが原野で、「代々木の原」と呼ばれていた。そのため神社設営のために人工林を作ることが必要となり、造園に関する一流の学者らが集められた。明治神宮造営局の技師らは、明治神宮御境内・林苑計画」(画像参照)を作成した。現在の生態学でいう植生遷移(サクセッション)という概念が、この時に構想され応用された。通常、神社に荘厳な印象を持つのは杉や桧(ひのき)などの針葉樹林だ。しかし代々木は暖帯であり、汽車などの煙害に強い必要があることから、針葉樹は不適とされた。当初は、伊勢神宮のような杉林が好ましいと反対意見があった。しかし最終的には広葉樹、特に樫(かし)、椎(しい)、楠(くすのき)を中心とした広葉樹林を目指すことになった。初期段階は成長の早い針葉樹も併せて植林し、遅れて広葉樹を成長させ、年月を経ておよそ100年後には広葉樹を中心に到達するという手法だ。手入れや施肥などが皆無でも、永遠の森が形成されることを科学的に想定した。いわば、これが日本における近代造園学の創始とされている』。
大正時代の構想から、昭和・平成・令和を経て、現在見ている明治神宮内苑が集大成である。公園設計者の思想により、造園ではあるももの“自然林”のような趣がある。次号では杜を守る成功例として、それだけに内苑に厳しい条件を付けて「杜」を守ってきたことを説明する。
次号/神宮外苑⑦明治神宮内苑が100年も緑を維持できたのには厳しい取り決めがあった
前号/神宮外苑⑤新国立競技場騒動から学んだ明治神宮内苑・外苑100年以上の歴史と背景