少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな
新国立競技場に生まれ変わっても昭和18年に「学徒出陣」があったことを忘れないで
音量にご注意下さい(後日、削除されることがあります)。
■戦争悪化から大学生にも出兵を命じ10万人が海外派兵され1万人弱が戦死した
今年2023年は、昭和18(1943)年に新国立競技場の先々代に当たる明治神宮外苑競技場で、「学徒出陣」があってから丁度80年に当たる。思えば大いに沸き上がった21年の東京五輪開催前、国立競技場建て替え時に盛んに文化的遺産や文化の継承が言われた。結局お題目に過ぎず、想像通り文化的遺産や文化の継承などは行われず、次々と新会場が建設された。ましてや過去の無形のオリンピック精神やスポーツ文化は、継承されることはなかった。投稿者としてスポーツのことは脇に置き、話が飛躍するが新国立競技場に生まれ変わっても、2代前の国立競技場にまつわる暗い戦争への反省を忘れてはいけないと思う。当時のフィルム映像をご覧になった方もいると思うが、「学徒出陣壮行会」のシーンだ。米軍との太平洋ミッドウェー海戦の惨敗、昭和17年以降の戦争悪化から、大学生にも出兵を命じた式典である。式典後、中国や東南アジアなどの海外戦地に送られ、約1万人弱(推計)が2度と還らぬ人となった。画像の式典以外に、地元学生を集めて全国各地で10回以上行われた。
「学徒出陣壮行会」は昭和18年10月21日の朝、大雨でずぶ濡れになった学生2万5千人が学生服姿で銃を担ぎ、当時の名称・明治神宮外苑競技場を行進した。客席は、女子生徒など5万人で埋め尽くされた。学生は二度と生きて還るつもりはないことを誓い、参加した女子学生も彼等を「生きたお葬式」と涙ながらに見送った。当時の10月は相当寒く、それでも女子学生は誰一人傘を差さずにいた。その後の学徒出陣の総勢は10万人と言われ、戦地に送られ還らぬ人が多かった。戦争の悲惨さを忘れないために、現・国立競技場敷地に「出陣学徒壮行の地」碑が建っている。1964年、2021年と2度も平和な“スポーツの祭典”が国立競技場で行われた根底に、彼等の非業の死を忘れてはならない。戦後、曲がりなりにも平和憲法を遵守した結果だ。明治神宮外苑競技場の雨の壮行会から80年が経過しても、これからも平和を守るための礎として、同じ場所で起きたこうした悲しい歴史を受け継ぐ必要がある。それがオリンピックやスポーツの、“文化的遺産や文化の継承”ではないのか。
画像は、悪質な人物と言われた東條英機首相が出席した。東條は戦後開かれた東京裁判(極東国際軍事裁判)で、A、BC級戦犯として昭和23年に死刑が執行された。画像を見ると、現在の北朝鮮と同じように思え背筋が寒くなる。主催が文部省であり、日本も戦前はそんな国だった。学生を始め国民への教育を誤れば、こういう事態になってしまうのだ。なお肝心な「学徒出陣」の全体的な招集学生数や死者などは、国の資料に残っていない。混乱の最中で不明と言う学者もいるが、戦前の国家は不都合な資料や数字は残したくない意思が働いたと思われる。但し戦後の研究では、招集学生は数十万人だが大半は国内に留まり、海外戦地に派兵されたのは約10万人と言われる。但し高学歴者であるという理由から、陸軍の幹部候補生・特別操縦見習士官・特別甲種幹部候補生や、海軍の予備学生・予備生徒として、不足していた野戦指揮官クラスの下級将校や下士官の充足にあてられた。そのため戦死率は9%と推測され、一般兵より低いとされる。
■作家杉本苑子(故人)エッセー「今ある平和を確かな意志を持って明日以降に架橋」
毎日新聞を活用しています。専門記者・栗原俊雄氏の原稿/(略)スタンドでは、女子学生ら5万人以上が見守った。その一人、作家の故・杉本苑子は往時の光景をエッセー「あすへの祈念」に記している。「色彩はまったく無かった。(中略)暗鬱な雨空がその上をおおい、足もとは一面のぬかるみであった。私たちは泣きながら征(ゆ)く人々の行進に添って走った」。大学など高等教育への進学率は当時、5%程度とされ、徴兵を猶予されていた。しかし、戦況悪化に伴い、文系学徒らが陸海軍に召集されたのが学徒出陣だ。杉本苑子は64年10月10日、21年前と同じ場所で東京オリンピックの開会式を見た。前掲のエッセーはその感想を共同通信に寄稿したものだ。エッセー冒頭で「美しかった」と書いた。アンツーカーのトラックのレンガ色と、フィールドの芝の緑。各国選手たちのカラフルな服装、前日の雨がうそのような青空をとらえ「色彩の饗宴(きょうえん)」と評した。その上で「あの雨の日」=10・21の壮行会=に記憶を架橋する。
(途中、略)「きょうのオリンピックはあの日につながり、あの日もきょうにつながっている。私にはそれがおそろしい。祝福にみち、光と色彩に飾られたきょうが、いかなる明日につながるか、予想はだれにもつかないのである。私たちにあるのは、きょうをきょうの美しさのまま、なんとしてもあすへつなげなければならないとする祈りだけだ」。国策決定者たちが始めて、決定に関わることができない庶民の暮らしをめちゃくちゃにするのが戦争だ。明治以降、「戦後」の後に新しい戦争が何度も起きたことからも分かるが、戦争は平和と地続きにある。今ある平和を、確かな意志を持って明日以降に架橋していかなければならない。「10・21」は、そのことを確認する日である。以上
1964年・東京オリンピック(開会式)
再び投稿者の文章/敢えて、2つの画像を載せた。あまりにもコントラストが違う。終戦から19年しか経っていなかったが、高い経済成長と平和を甘受していた時代だ。だから意気込みと国民の熱気が高まり、21年の弛んだ東京五輪とは異なり、運営も比べ物にならない。なお個人的には、オールドスタイルの開会式(行進)のほうが感動的で好きだ。なお画像は古いためくすんでいるが、開会式当日は「世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような、すばらしい秋日和でございます」 とNHK北出清五郎アナウンサー(2003年没)の台詞のように、素晴らしい青空だった。
次号/学徒出陣80年わだつみの悲劇を胸に刻む時、戦争起こさせぬ覚悟を
新国立競技場に生まれ変わっても昭和18年に「学徒出陣」があったことを忘れないで
音量にご注意下さい(後日、削除されることがあります)。
■戦争悪化から大学生にも出兵を命じ10万人が海外派兵され1万人弱が戦死した
今年2023年は、昭和18(1943)年に新国立競技場の先々代に当たる明治神宮外苑競技場で、「学徒出陣」があってから丁度80年に当たる。思えば大いに沸き上がった21年の東京五輪開催前、国立競技場建て替え時に盛んに文化的遺産や文化の継承が言われた。結局お題目に過ぎず、想像通り文化的遺産や文化の継承などは行われず、次々と新会場が建設された。ましてや過去の無形のオリンピック精神やスポーツ文化は、継承されることはなかった。投稿者としてスポーツのことは脇に置き、話が飛躍するが新国立競技場に生まれ変わっても、2代前の国立競技場にまつわる暗い戦争への反省を忘れてはいけないと思う。当時のフィルム映像をご覧になった方もいると思うが、「学徒出陣壮行会」のシーンだ。米軍との太平洋ミッドウェー海戦の惨敗、昭和17年以降の戦争悪化から、大学生にも出兵を命じた式典である。式典後、中国や東南アジアなどの海外戦地に送られ、約1万人弱(推計)が2度と還らぬ人となった。画像の式典以外に、地元学生を集めて全国各地で10回以上行われた。
「学徒出陣壮行会」は昭和18年10月21日の朝、大雨でずぶ濡れになった学生2万5千人が学生服姿で銃を担ぎ、当時の名称・明治神宮外苑競技場を行進した。客席は、女子生徒など5万人で埋め尽くされた。学生は二度と生きて還るつもりはないことを誓い、参加した女子学生も彼等を「生きたお葬式」と涙ながらに見送った。当時の10月は相当寒く、それでも女子学生は誰一人傘を差さずにいた。その後の学徒出陣の総勢は10万人と言われ、戦地に送られ還らぬ人が多かった。戦争の悲惨さを忘れないために、現・国立競技場敷地に「出陣学徒壮行の地」碑が建っている。1964年、2021年と2度も平和な“スポーツの祭典”が国立競技場で行われた根底に、彼等の非業の死を忘れてはならない。戦後、曲がりなりにも平和憲法を遵守した結果だ。明治神宮外苑競技場の雨の壮行会から80年が経過しても、これからも平和を守るための礎として、同じ場所で起きたこうした悲しい歴史を受け継ぐ必要がある。それがオリンピックやスポーツの、“文化的遺産や文化の継承”ではないのか。
画像は、悪質な人物と言われた東條英機首相が出席した。東條は戦後開かれた東京裁判(極東国際軍事裁判)で、A、BC級戦犯として昭和23年に死刑が執行された。画像を見ると、現在の北朝鮮と同じように思え背筋が寒くなる。主催が文部省であり、日本も戦前はそんな国だった。学生を始め国民への教育を誤れば、こういう事態になってしまうのだ。なお肝心な「学徒出陣」の全体的な招集学生数や死者などは、国の資料に残っていない。混乱の最中で不明と言う学者もいるが、戦前の国家は不都合な資料や数字は残したくない意思が働いたと思われる。但し戦後の研究では、招集学生は数十万人だが大半は国内に留まり、海外戦地に派兵されたのは約10万人と言われる。但し高学歴者であるという理由から、陸軍の幹部候補生・特別操縦見習士官・特別甲種幹部候補生や、海軍の予備学生・予備生徒として、不足していた野戦指揮官クラスの下級将校や下士官の充足にあてられた。そのため戦死率は9%と推測され、一般兵より低いとされる。
■作家杉本苑子(故人)エッセー「今ある平和を確かな意志を持って明日以降に架橋」
毎日新聞を活用しています。専門記者・栗原俊雄氏の原稿/(略)スタンドでは、女子学生ら5万人以上が見守った。その一人、作家の故・杉本苑子は往時の光景をエッセー「あすへの祈念」に記している。「色彩はまったく無かった。(中略)暗鬱な雨空がその上をおおい、足もとは一面のぬかるみであった。私たちは泣きながら征(ゆ)く人々の行進に添って走った」。大学など高等教育への進学率は当時、5%程度とされ、徴兵を猶予されていた。しかし、戦況悪化に伴い、文系学徒らが陸海軍に召集されたのが学徒出陣だ。杉本苑子は64年10月10日、21年前と同じ場所で東京オリンピックの開会式を見た。前掲のエッセーはその感想を共同通信に寄稿したものだ。エッセー冒頭で「美しかった」と書いた。アンツーカーのトラックのレンガ色と、フィールドの芝の緑。各国選手たちのカラフルな服装、前日の雨がうそのような青空をとらえ「色彩の饗宴(きょうえん)」と評した。その上で「あの雨の日」=10・21の壮行会=に記憶を架橋する。
(途中、略)「きょうのオリンピックはあの日につながり、あの日もきょうにつながっている。私にはそれがおそろしい。祝福にみち、光と色彩に飾られたきょうが、いかなる明日につながるか、予想はだれにもつかないのである。私たちにあるのは、きょうをきょうの美しさのまま、なんとしてもあすへつなげなければならないとする祈りだけだ」。国策決定者たちが始めて、決定に関わることができない庶民の暮らしをめちゃくちゃにするのが戦争だ。明治以降、「戦後」の後に新しい戦争が何度も起きたことからも分かるが、戦争は平和と地続きにある。今ある平和を、確かな意志を持って明日以降に架橋していかなければならない。「10・21」は、そのことを確認する日である。以上
1964年・東京オリンピック(開会式)
再び投稿者の文章/敢えて、2つの画像を載せた。あまりにもコントラストが違う。終戦から19年しか経っていなかったが、高い経済成長と平和を甘受していた時代だ。だから意気込みと国民の熱気が高まり、21年の弛んだ東京五輪とは異なり、運営も比べ物にならない。なお個人的には、オールドスタイルの開会式(行進)のほうが感動的で好きだ。なお画像は古いためくすんでいるが、開会式当日は「世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような、すばらしい秋日和でございます」 とNHK北出清五郎アナウンサー(2003年没)の台詞のように、素晴らしい青空だった。
次号/学徒出陣80年わだつみの悲劇を胸に刻む時、戦争起こさせぬ覚悟を