情報リテラシー

2011-04-06 | ノンセクション
「危険」よりは「安全」がいいに決まっている。と、大多数の人は思うことだろう。
「不便」よりは「便利」がいいに決まっている、と、大多数の人は思うことだろう。
これが両立しないとき、人間は、危険をできるだけ小さくして(小さくする努力をして)便利を追求してきた。

車の事故で明日30人の人が亡くなる、と予報が出たら人は車に乗らなくなるだろうか。実際、毎日20人ほどが犠牲になっているが、誰も車の無い社会がいいとは言わない。車の無い不便さには耐えられないようになってしまったのである。

電気のない不便さは車以上である。

車に対しては、交通規則を作り、信号を作り、ガードレールを作り、歩道を作り、エアーバッグを作り、・・・・考えられる限りを尽くして便利と安全を追い求めてきた。

しかし、原子力発電に関して、こうはしてこなかった。(ように思う)
賛成派と反対派が歩み寄ることが無く、互いを信頼できず、結局、あっちはあっち、こっちはこっち、といった状態でここまで来てしまった結果、最善策や次善の策を取ることができず、結局最悪の事態を起こしてしまった。(と思われる)
福島第2や東北電力の女川などは、運転は停止したが福島第1のようなことにはならなかった。逆に言えば、あれだけの地震と津波でも放射能漏れなどの事故は起こさなかった。

津波の被害を受けた市や町にはもう住めないと思う人もいるかも知れない。
津波の来ないところに住みたいと思うかも知れない。しかし、この日本で安全な場所はどこにあるのだろう。津波が無くても崖崩れや台風の被害は毎年のこと、どこかで必ず起きている。
そして、今年の冬のように、雪で家がつぶれることだってある。
津波の来るところでは、どうやったら津波から逃げられるか、と常に考えておくことが大事になる。津波の来るところに住む人にとっては、それが宿命というものだろう。

危険だから、危ないから、ということで無しにできないもので現代の社会は成り立ってしまった。
軍事もそうかもしれない。
(軍事はおいとくとしても)困るのは、正しい情報がどれか、ということを受け手に要求される時代になったことである。様々なメディアがあり、雑多な情報が溢れる時代になった。その中から、自分にとって受けのいい情報だけを取り入れる人もいるだろう。(多いのかも知れない)

現代は、一般の人に高い情報リテラシーを要求していることになるが、それは無理というもの。情報に振り回され、声の大きなメディアの言うことが本当のように聞こえ、みんなが進む方向に逆らえない大多数の日本人は、この先、どんな方向に進んでいくのだろう。
「本当かな?」と一歩立ち止まることを肝に銘じておこう。