月刊パントマイムファン編集部電子支局

パントマイムのファンのためのメルマガ「月刊パントマイムファン」編集部の電子支局です。メルマガと連動した記事を掲載します。

『追悼 本多愛也さん』第4回(小島屋万助さん(4))

2016-08-14 09:50:47 | スペシャルインタビュー
佐々木 ところで、愛也さんは、なぜパントマイムをやり始めたのでしょうか。
小島屋 彼は、元々俳優になりたくて上京したそうです。映画が大好きで、シナリオの学校に行っていました。その頃、倉本聰脚本の「ガラスの知恵の輪」という、大竹しのぶとショーケンが出演するドラマがヒットして、その作品でショーケンがサンドイッチマン的なパントマイムをやる男を演じていました。ドラマの中で、パントマイムの大変良いシーンがあって、それを振り付けたのが僕達の先生の並木先生です。そのドラマを観て彼がパントマイムをやりたくなったかはよく分からないですが、影響がかなりあったと思います。

佐々木 改めて、愛也さんのマイムの魅力はどんなところでしょうか。
小島屋 まずは、超絶技巧というか。体の動かし方のセンスが類を見ません。単に固定点やアニメーションダンスみたいな動きがスゴイというわけではなくて、非常に動いて、その動きにちゃんとボケが入っているという人っていないじゃないですか。
佐々木 そうですね。
小島屋 なんだろう。カッコ良いのにおかしい人。
佐々木 愛也さんに代わる人がいませんね。
小島屋 あと、僕の相方だけでなく、色々な方の相方でもありました。光洋さんとやっても合うし、亀田さんとも「どん亀座」でうまくできるし。山田とうし君と「漏電放電」というユニットを組んだり、あがりえさんとも公演やったりして。それはスゴイ。
阿部 愛也さんは、本当に色々な方と共演してますね。
佐々木 そうですね。細川さんと一緒に「ロングディスタンス」を上演していたし。
小島屋 やってたね。すごい動いていたよね。

佐々木 愛也さんの作品の中で一番好きな作品は何ですか。
小島屋 まず、「白球」です。
佐々木 「白球」っていつ頃からやり始めたのですか。
小島屋 「白球」はKANIKAMAの2回目の時です。好きな作品を3つ挙げるのなら、それと「逃亡者」(ランナウェイ)、「グッドモーニング」です。「グッドモーニング」は浮浪者を主人公にした作品で、本当に泣けます。
佐々木 「逃亡者」ってどんな作品ですか。
小島屋 銀行強盗の話。男が、銀行からお金を奪って逃げて追いかけられながら波止場に着いて、女のところに会いに行く。実は、彼が女に会おうとして客席に行くと、事前に仕込んでいた、カップルがいて「あれ?」って。
佐々木 笑
小島屋 曲に合わして演じていて、最後に警察に囲まれて、打たれて死ぬんですが、本多ワールド満載の作品です。これは本当に名作です。
佐々木 僕は、「Birth」をもう1回観たかったです。
阿部 私も。
小島屋 「Birth」は、先日、本多君をリスペクトしている韓国の人がいて、彼がどうしても公演で「Birth」を上演したくて許可を取りに来たのです。あれは、KANIKAMAの3か4の時に三鷹の劇場で上演しました。

佐々木 愛也さんは、大道芸は全然やってなかったのでしょうか。
小島屋 大道芸は、イベントなどでやることもありましたが、この数年くらいは、全然やってなかったと思います。というか、要は大道芸に特化している人がいるのに対して、大道芸と言って自分がやるのは失礼だろうというのが彼の中にあったようです。
阿部 そうですか。
小島屋 でも十分面白いです。僕がタイの大道芸フェスでプロデュースのようなことやっているのですが、ギャラの良い仕事で、彼ならば無条件で僕は呼びたかった。今まで12月は「アラカルト」で出れなかったんですが、それ以前もいくら誘っても、断られました。
阿部 愛也さんは舞台のパントマイムにこだわっていたのですね。
小島屋 そうですね。あと、自分のスタイルにも。

佐々木 愛也さんってどうやって作品を作るのですか。
小島屋 そこはよく分かりません。ただ、映画の映像描写をマイムに取り入れるところがありました。いつも頭の中で映像が動いていたのじゃないかな。「白球」もそうですが、それぞれのシーンがカット割りをしながら展開するのが好きだったね。例えば、野球の試合が映画だとすると、まずピッチャーを映して、カメラがバッターに切り替わり、キャッチャーを映してという、そのカット割りがすごいできている。あと、映像で、あるシーンから次のシーンに徐々に変わる演出をマイムに取り入れるのを意識したりとか、色々なことを考えてますね。
佐々木 とても映像的ですね。
小島屋 そこが感心するところです。マイムの発想ってこれという決まりがなくて、動きから入って、巻き戻しを入れたりとか、普段ないような特殊な状況を考えたりとか、引き出しっていっぱいあります。本多君は、映像的な要素が強いですね。

佐々木 映画もかなり観てたのでしょうか。
小島屋 よく観ていました。最初にネタ作りする時は、「最近何か面白い映画観た」という話から始まって、そこから作品のアイデアが出てくることが多かったですね。
佐々木 好きな映画は何でしょうか。
小島屋 なんでも見てて、特にこれがというのはなかった。でも、愛を込めて話すのは、格闘技の時だけですね。格闘技は誰が好きだったのかな。最近の人は全然知らないけど、昔は、桜庭とかいたじゃない。あの頃が一番好きだったのじゃないでしょうか。
佐々木 K1?
小島屋 K1ではじゃなくて、総合系が大好きだったね。空手やキックボクシングをやっていたからね。
佐々木 いつやっていたのですか。学生時代?
小島屋 いやいや、以前から毎年試合に出てて、1回試合を見に行ったことがある。
阿部 すごい。本格的にやっていたんですね。
小島屋 その頃は、彼が30いくつで、ビジネスマンクラスみたいな感じでやっていて、僕と羽鳥で試合を観に行ったら、相手は白髪交じりの50歳くらいの人。最初、本多君がやられていて、いきなり回し蹴りが入って相手がダウン。彼は勝ったことがないから、勝利の時の作法を間違えて審判に怒られて、それが大変面白かったね。それで場内を全部敵に回したんです。
阿部&佐々木 笑
小島屋 とにかく体を鍛えてたね。50歳近くまでバリバリにやってました。僕は、パントマイムだけの付き合いだけですが、彼は音楽と格闘技が大好きだったよね。

佐々木 音楽はいつ頃からやり始めたのでしょうか。
小島屋 始めたのは高校生の頃からで、僕が東マ研にいる頃から、すでにタップダンスとかブルースハープの教室に通っていると言っていたから、その当時からすでに好きだったね。
佐々木 ライブは結構やっていたのですか。
小島屋 やってました。パントマイムの公演と、ヘイヘイブラザースの公演で演奏することが多かったね。
阿部 やってましたね。私が最初に公演を観た時もブルースハープの演奏が入ってました。
小島屋 小倉さんは、マイムプラスキャバレーのイメージの舞台をやりたかったらしい。キャバレーというか、ショー、エンターテイメントというか。
佐々木 ライブは、ソロではなく、グループでやっていたのですか。
小島屋 ヘイヘイブラザースは2人でやってたし。あと、最近の公演では、半分マイムで、半分がライブという感じが多かったね。演奏だけのライブは見たことがないからまだそこまで到達していなかったのかもしれません。そのあたりは僕も分かりません。
佐々木 ダンスは誰からか教わったのでしょうか。
小島屋 ダンスは元々器用だから、見たらできたのかもしれないけど、あまり知りません。遊・機械の高泉さんの「ア・ラ・カルト」(吉澤耕一演出)は、約25年間上演してますが、あの作品の振り付けは、ずっと彼です。元々振り付けで参加して、5年くらい前から光洋さんと一緒に二人で出演するようになりました。振り付けはすごいですよ。
佐々木 本当に多才な方ですね。
阿部 愛也さんのイメージって、舞台以外では、本当静かですね。
小島屋 ツアーとかでグループで動いたりすると必ず本多君の存在を忘れてしまう。
佐々木 そうなのですか。
小島屋 「あれっ、本多君がいない」ってことがよくありました。

佐々木 愛也さんの性格は?
小島屋 言うならば、やさしくて男気のある人。実は、家ではすごいしゃべるそうです。
佐々木&阿部 そうなんですか。
小島屋 長年、本多君とつきあってますが、本多君に電話して遊ぼうと言ったことは1回もないです。稽古が終われば一緒にお酒を飲むけど、遊んだことは1回もない。多分、遊び友達とは違うんじゃないかな。
佐々木 マイム以外の私生活はどんな感じだったのでしょうか。
小島屋 よく知りませんが、夫婦仲は相当良かったらしい。仲良し夫婦ですね。
佐々木 奥様との出会いは。
小島屋 もともと遊・機械関係で知っていたと思います。吉澤さん関係で同じ舞台で共演したことがきっかけだったのは間違いないです。それ以上はちょっと分かりません。

佐々木 学生時代や幼少の頃はどんなだったのでしょうか。
小島屋 断片的に聞いたのですが、宇和島の海沿いの一家の末っ子に生まれた。お父さんが真珠を養殖して、割とお金持ちだったらしい。実家が田舎で、家を出るとほぼすぐに波がほとんどない穏やかな海がある。小さい頃は、分校に通っていて10何人しか同級生がいなかったそうです。高校は宇和島東高校に入り、なぜか体が小さいのに応援団長になった。
佐々木 なんで応援団長になったのでしょうか。
小島屋 強引にならされたのか知らないですが、ずっと団長だったそうです。

佐々木 昨年9月のKANIKAMA公演の時はどうだったのでしょうか。
小島屋 まったく元気でした。何かの前兆とかまるでナシ。その3日後ですから。
阿部 逆にみんなが驚いたというか。
佐々木 じゃあ最後に会われたのは。
小島屋 打ち上げの時。その時は、本多君はお客さんに、僕もお客さんと話しをして、「じゃあ、お疲れ」みたいな感じで別れました。もっと話をしておけば良かったって思います。終わってすぐっていうのはよく分からないけど、公演できて良かったって思います。
佐々木 昨年の公演も大変素晴らしかったですね。
小島屋 良い感じでした。新作はありませんが、そろそろ良いタイミングかなって。既にいろんな作品があるから、それをまとめてやるという形の第1回の公演になりました。
佐々木 長時間にわたってありがとうございました。

4回にわたって小島屋万助さんに本多愛也さんのご活動や人柄について語って頂きました。天才パントマイミストのその輝かしい歩みを少しでも理解するきっかけになれば幸いです。今後、他の方にもインタビューしていきたいと思います。
(終)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『追悼 本多愛也さん』第3回(小島屋万助さん(3))

2016-06-09 00:39:43 | スペシャルインタビュー
佐々木 KANIKAMA結成について、改めてお聞きしたいのですが。
小島屋 愛也君の資料によると、第1回公演は、2004年に明石スタジオで上演しました。それまでは、小島屋万助劇場に客演として本多君に出演してもらったり、「ぐりぐりぞえるなのうみそごめた」というタイトルでアンサンブル公演をしたりしました。これは小倉君の演出です。それから間が空いて、先ほどお話した北海道からの縁で吉澤耕一さん演出の舞台をすることになりました。
阿部 そうなのですね。
佐々木 この時は、どんな作品を上演したのでしょうか。
小島屋 まだ覚えていますが、第1回公演のメインは、無人島の作品でした。
佐々木 面白そうですね。
小島屋 2人が無人島ですることもなく、腹が減って色々な小ネタでどんどん広げていく作品だった気がします。無人島の作品は鮮明に覚えていますが、多分、第1回で「死神」を上演したと思います。

阿部 KANIKAMAのスタイルや作品はどうやってできていったのでしょうか。
小島屋 KANIKAMAの以前は、どっちかというと、僕が作品の元のアイデアを出してそれを肉付けしてくれるのが、本多君でした。KANIKAMAは、無人島という設定だけ決めて、じゃあ、無人島で何ができるということから始めて、少しずつ2人の即興で作っていく感じです。
阿部&佐々木 ふーん。
小島屋 例えば、無人島の中で“水がちょっとしかなかったら”“ノドが渇いたらどうする?”というシチュエーションで演じて、少しずつ膨らませて作りました。完全な即興という感じでもなく、何となくちょっとずつ作っていきました。こうやったらどうする、面白い、じゃあこう返したら、また俺もかえす、これイタダキ、という感じでつなげていく流れでした。
佐々木 演出の吉澤耕一さんは、あくまで2人から出てきたものに対して演出を付けていったのでしょうか。
小島屋 ほとんどそういう感じだけど、彼が重視したのは、(その演技が)嘘か本当かということ。どこかぎくしゃくしている部分があると面白くないといわれて、却下されました。逆にちょっとした発明(アイデア)で2人が面白くなると採用。時には、あんまり作品が出てこないと、吉澤さんから言いだすこともありました。
佐々木 そうですか。
小島屋 どうしても、僕らが作ると紋切り型になりがちですね。マイムって、まず分かりやすくないといけないという思い込みがある。例えば、サラリーマンを主人公にして、「帰れない2人」という作品を作ったことがありますが、中々家に帰らなくて、必ず公園に寄ってしまうというのがあるじゃない。例えば、ウチの女房が怖いとか、その帰れない理由を普通にマイムで説明的に演じても紋切り型になってしまう。そういうマイムでありがちなのは面白くないと言われて。つまり、吉澤さんとしては、あまり(理由が)明かされない方が面白いという考えです。というように、マイムの作品でありがちなクセに対して、大変厳しくて許してくれません。
佐々木 厳しいですね。
小島屋 出す方は大変ですね。前の焼き直しはダメだし。
佐々木 焼き直しは、ダメなんですか。
小島屋 大体人間が考えることって焼き直しなんだよね。
佐々木 どうしても似てしまいますね。
小島屋 その辺が、マイムって辛いと思います。
阿部 笑

佐々木 KANIKAMAの作品コンセプトの一つに“しゃべらない”というのがありますね。
小島屋 息づかいでは平気でしゃべりますが、言葉でしゃべらないことで面白いものがかなりあるから、そちらを選んでます。それはある意味徹底していました。
佐々木 結構、今のマイムは、しゃべる方が多いですね。
小島屋 お客さんもしゃべらないで分かったときの喜びってあるじゃない。いつも言いますが、例えば、本多君がこういうふうにやるの(何かを切る演技)、これがネギを切ってると分かるのは、5人に1人しかいませんが、それが分かるとたまらなく面白い。
阿部 マイムの醍醐味ですよね。

佐々木 KANIKAMAの公演で最も印象的な公演は何でしょうか。
小島屋 僕の個人的なことですが、4年前のタイの公演が印象的でした。タイの「パントマイムinバンコク」っていう10何回も続いているイベントに、僕と本多君はすべて出演しています。4年前の公演では、「監督と助監督」という作品を上演することになって、初日の舞台で最初に僕が走りだしたら、なんと肉離れです。
阿部 笑
小島屋 もう動けません。舞台の最中で、ちょうど袖に入り込む時に起こって。普通なら舞台に出られない状況だけど、再び舞台に戻ってきて、足がつけない状況で最後までやり切りました。その後、5ステージくらいあったのですが、僕は基本的に動けないので、動かないでも、できる作品を1個だけやって、あとは本多君のソロ作品に差し替えました。本多君に大変感謝しています。本多君って、作品をいっぱい持っていて、頼りになる人ですよ。
阿部 小島屋さんもそんな状況で、舞台によく戻りましたよね。そこがすごい。
小島屋 痛いよ。
佐々木 普通、動けないですよね。
阿部 私もこの間、肉離れになって、あんなに痛いものだと思わなかったです。やっぱり、小島屋さんにとって愛也さんは長年のパートナーですね。
小島屋 舞台の上ではね。
佐々木 喧嘩したりしないのですか。
小島屋 喧嘩はないね。本多君って絶対人のことをいう人じゃないし。長いつきあいの中でいつも付き合ってもらっている立場だったのです。ただ、じゃあ、ある時に来年どうしようかと話したら、もう、ちょっと付き合えないって言われたことが1回あって、ちょっとびっくりしたんです。その時は、本多君の中で、これから自分のマイムをどうしていくのか、どっちかにシフトしようとか考えていたかもしれません。でも、何ヵ月もすると、またやりますって言われたんです。何があったのかな。彼は、常に色々考えているし、音楽もやっているので決してマイムだけという人だとは思いません。僕は、彼のマイムの部分しか知りませんが、マイムに関してはツーカーの関係でした。KANIKAMAは、彼抜きではできません。もう、ああいうスタイルで物を作るのは難しいかもしれません。
阿部 KANIKAMAは最高でした。
佐々木 このユニットはすごいですよね。
小島屋 ああいう風にキャッチボールで作るというのが…。
佐々木 そうですよね。無言だからこそタイミングのズレがなく、段取り感がなくできるのがスゴイですね。
阿部 お二人のやり取りがとっても素敵でした。
佐々木 やり取りで全部お客さんに伝わってきますね。
小島屋 新鮮さというのがすごくあるよね。同じことを何度も演じますが、必ずここでお客さんが笑うというのが不思議でした。
(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『追悼 本多愛也さん』第2回(小島屋万助さん(2))

2016-05-12 01:02:20 | スペシャルインタビュー
佐々木 80年代後半から90年前後に舞台活動していた頃って、PROJECT.Pとは。
小島屋 時期がまったくかぶってますね。プロPは、いわゆる劇団でもなく、僕や本多君のように舞台に特化してやろうということでもありません。いわゆるストリートパフォーマンスから始めて、ステージもやるし、テレビにも出演しますし。
阿部 昔、新宿の歩行者天国でゲリラ的に大道芸をやってたそうですね。
小島屋 毎週土曜かな、半年くらいしかやらなかったね。バブルの頃だったせいか、名刺を置いていく人が結構いました。良い時代だったね。今度イベントがあるけど出ないかって声をかけられました。
佐々木 仕事になっていたのですね。
小島屋 なってたけど、プロPだけの仕事ってあんまり多くなかったので、津野くんが大道芸を始めて僕も真似して始めました。そのうちにイベントの仕事がいっぱい来るようになりました。だって、昔は、人形振りだけで、お金になったからね。
佐々木 あの頃は、そうだったのですね。
小島屋 結構、色々なことがリンクしてるね。
佐々木 PROJECT.Pには、どういう方が参加したんですか。
小島屋 ツノ(津野至浩)君がリーダーで、カセカズノリ君、前田泰男さん、入れ替わりがいくつかあって、ツノ君の奥さんのモリシゲヒサコさん、後半になってチカさん(チカパン)が入りました。もちろん、本多君、小島屋、羽鳥も常にメンバーでした。

佐々木 どんなステージだったのでしょうか。
小島屋 僕も本多君も結構ステージをやっていた関係で、メンバーも面白そうなことできそうだから、みんなで作る勢いがあった頃でした。最初に上演したのは、多分、新宿のタイニイアリス。その後に原宿のライブハウスでも上演しました。その頃は、みんな舞台とか色々頑張っていて、作品のネタが中々できないじゃないですか。でも、作らなきゃダメでしょというわけで、「長い目で見て下さい」という企画を立てました。これが無謀な企画。明石スタジオさんとの提携公演で平日に小屋を安く借りて、月1でソロ作品1本発表とか色々な作品を上演する会を1年続けました。
佐々木 すごいですね。
小島屋 この企画は、表現なら何でもありな感じで、プロPのメンバーが中心でした。なかなか作品ができず、次第にへとへとになって、みんなコロコロと休みだして、1年で辞めてしまいました。それを引き継ぐ形で、しいなまんさんらがその後を続けたんです。2ヵ月に1回のペースで。えっと、タイトルは…。
阿部 「パンピンプー」です。
小島屋 そうです。そこで色々な人が育って、2年くらい続いたでしょうか。今からみれば面白いことをやっていたと思います。

佐々木 1988年から出演されていたイメージCINEサーカスについて、何かご存知でしょうか。
小島屋 その前から、彼は、いち早く才能を認められて色々なところに出演する中で、IKUO三橋さんが企画するイベントや舞台にも出演しました。主に親子劇場が多いのですが、パントマイムの仕事をもらってバリバリ活動していたのです。
阿部 そうなのですか。
小島屋 一緒にやっていた中で、最初に彼が“食える”ようになったんだね。その流れでイメージCINEサーカスという、三橋さんの事務所が企画した、色々なマイム系の芸人を集めた舞台に出演するようになりました。観た人もいるかと思いますが。
阿部 当時観ました。色々な映画のワンシーンを上演していましたね。
小島屋 そうそう。後半になって僕も1回だけ参加したことがあります。ヨーロッパ公演にも一緒に行ったことがあるんですが。
佐々木 91年に、フランスやスイスの演劇祭にも参加して、当時は大人気だったそうですね。
阿部 光洋さんとかが出演していましたね。
小島屋 出ていました。本多君は、最初から加わっていて、たび彦さん、雪竹太郎さん、亀田さんと一緒に活動していました。最後に、僕と光洋さんと橋本フサヨさんが一緒に入りました。僕は1回で抜けましたが。スイス公演の時に、14歳くらいの若い女の子が本多君に惚れて打ち上げに来て、でも本多君は英語が分からないから、光洋さんが全部通訳して、戻ってきた光洋さんがいきなり「畜生」と(笑)。すごい可愛い女の子でした。

佐々木 その頃からモテモテだったんですね。TORIOは、95年に結成されたそうですが、結成のきっかけは何だったのでしょうか。
小島屋 3人とも舞台やソロで色々活動していたのですが、イメージCINEで仲良くなって1回3人で公演をやろうという話が持ち上がりました。本当は4人だったのですが、「小倉君演出で、マイム界のすごい4人を集めてやろうぜ」って感じで。さて、もう1人は誰でしょう?
阿部 えーと、その1人がいないから、そうしたら、ちゅうサン?
小島屋 いやいや、実は鈴木秀城さん。
佐々木 あっ、秀城さんか!
小島屋 当時から彼は、ソロがすごく面白かったので、誘って稽古を始めたら2日目で急に出演を辞退すると言いだして。
阿部 なんで辞めちゃったのでしょうね。
小島屋 多分芸風の違いがあったと思います。当時は、くだらない稽古をしていたのです。
佐々木 どんなのですか。
小島屋 兵隊もので、本多君が“変態止まれ”というのをやってみようと言いだして。それは、兵隊のように行進して、「右前方何度にワンレン、ボディコンの女発見!年齢推定23歳」と言って、ガチャガチャと動いて。
佐々木&阿部 笑
小島屋 秀城君は辞退しましたが、1995年に明石スタジオで公演を1回上演しました。それからどう展開しようとか思っていなかったのですが、当時はバブルが終わって、ちょっとずつ仕事が減ってきた時期でした。できれば、3人とも舞台でやりたくて、光洋さんが中心になって、親子劇場の企画に出したのです。それが当たって、最初の年に30何ステージも仕事が入りました。
阿部&佐々木 すごいですね。
小島屋 おまけに、ギャラを高めに設定しているから、すごい儲かっちゃったと思ったら、次の年は9ステージ、3年目で3ステージに減ってしまって、3年で辞めました。

佐々木 どんな舞台だったのですか。
小島屋 代表的な作品としては、トリオということで、3人のじいさんの作品がありました。知らないかな、伝説の超面白い作品。それを本当は、本多君が生きていたら今年3月の還暦祝いライブでやろうと思っていたのです。
佐々木 そうだったんですか。光洋さんのリレー日記に以前書いてあったのが、これだったんですね。
小島屋 3人のデブという作品が最初にあって、これは、こんなに(手でジェスチャー)デブのオペラ歌手の作品。すごく下らないことをオープニングでやって、あとは、光洋さんと本多君のソロを1つずつ入れたりしました。
阿部 聞いてるだけで面白いですね。
小島屋 韓国やタイなどで上演して、北九州でも確か上演したと思います。そんな感じで、3人は色々つかず離れずやっていました。

佐々木 小島屋さんは、その頃はどんな活動をしていらっしゃったのでしょうか。
小島屋 僕は、日本で94年からアジアマイムフェスという企画を立ち上げて、韓国、タイのフェスでは、本多君とほとんど一緒に行きました。二人で作品を上演したり、ソロでやったりして、毎年続いていました。最初の頃は、毎年のように春川に行っていました。もちろん、光洋さんも含めてね。
佐々木 アジアマイムフェスでは、必ず出演するような感じだったのですか。
小島屋 そうだね。本多君、光洋さんは必ず。マイムで面白い人は意外と少なくて、地方公演で人を集めるには、本多君や光洋さんに出て頂かないと。逆に僕は、あんまり出てないですね。
佐々木 やはり、韓国とかタイでも愛也さんは、大絶賛だったのでしょうか。
小島屋 絶賛だったね。特にタイはね。亡くなった時もFacebookですごい事になりました。どんな形になるか分かりませんが、今年のタイのフェスで、本多愛也追悼みたいなニュアンスで何か考えています。例えば、僕と本多君がやった「床屋」というコメディ作品があって、それをタイ人と僕とでやろうという話が出ています。まあできたらいいなという感じですが。

佐々木 アジアマイムフェスが終わってからは、どんな活動をしていたのでしょうか。
小島屋 長野のフェスが終わってから、北海道に行き始めたんですよ。勿論、タイには毎年行っていました。97年だけ小島屋万助劇場で行ってましたが、98年からは、小島屋万助劇場with本多愛也という名称で5年間ずっと北海道ツアーでまわりました。これは、吉澤さん演出です。ここから吉澤さんが演出で関わるようになりました。
阿部 そうなんですか。吉澤さんとは、どういう関係だったのですか。
小島屋 僕が参加していたTAICHI-KIKAKUの代表のオオハシヨウスケ君と吉澤さんが早稲田の劇研で同期だったのです(←彼とは、を削除)。
阿部 そうなのですか。
小島屋 だから、結構前から一緒に酒を飲んで友人だったんです。94年に日本でフェスをやらなくちゃならなくなって、その前の年に韓国公演で一緒に照明で来てもらった時に、手伝ってくれないかと話をしたら快諾してくれました。それから、ずっとフェスティバル関係は一緒にやっています。当時、遊機械の音響をずっと担当し、TAICHI-KIKAKUの演出をしていた小倉君は、本多君の舞台で演出するようになって。色々なことがリンクしてるね。吉澤さんと本多君がかなり近くなったのは、北海道の公演の時に、彼が演出というか構成に関わって、それからちょっとずつ演出的に関わるようになってきたんです。でも、マイムの公演に関して、彼は作った時からできているようなところがあるからね。
阿部 では、本当に愛也さんは突出していたんですね。
小島屋 そう思うね。
(つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『追悼 本多愛也さん』第1回(小島屋万助さん(1))

2016-03-15 01:14:17 | スペシャルインタビュー
昨年10月に急逝した天才パントマイミスト、本多愛也さん。長年にわたって数多くの人に愛されたその天才の輝かしい活動を、親しい関係者へのインタビューを通して振り返る。第1回では、KANIKAMAなどのユニットで活動を共にした小島屋万助さんに語って頂いた(聞き手:マイムリンクの佐々木、阿部)。

佐々木 改めて本多愛也さんのご活動を小島屋さんにお聞きしたいのですが、まず、初めて愛也さんと出会ったのはいつでしょうか。
小島屋 僕が東京マイム研究所に入った時ですから、多分1985年です。彼が僕の1年先輩でした。そもそも僕がマイムを始めようとしたのは29歳の頃で、色々と養成所を探していて、最初にやまさわたけみつさんのところに、1、2ヵ月いました。
阿部 そうなんですか。初耳ですね。
小島屋 週1回しかレッスンがなかったので4月から新しく頑張ろうと思って、東京マイム研究所の試演会を観に行ったら、そこに本多君が出演していたのです。
佐々木 そうだったのですか。
小島屋 その時観たのが「飴玉」っていう作品で、これがあまりにも上手で大変衝撃的でした。「これは僕には無理だ」って思ったんですが、でも別に、風船を作ったり、壁やったり、ロープできればいいなと思って始めました。ですから、最初から本多君はあこがれ的な存在でした。
佐々木 はじめの出会いからそうだったんですか。「飴玉」という作品は、どんな感じなんですか。
小島屋 飴玉をなめて飲み込むと、飴玉が体内で動きだして、身体の中の色々な場所を移動していく作品です。その作品で、彼は日本マイム協会の新人コンクールで奨励賞を受賞しました。
佐々木 奨励賞!
阿部 もう愛也さんにあこがれて東マ研に入ったんですか。
小島屋 まず、「すごい人がいるな、マイムって面白いな」って感じました。彼があまりにも突出してすごかったので、そっちは狙わずにこっちで行こうとか色々考えたんです。
阿部 笑
佐々木 その頃、愛也さんとは、結構親しかったのでしょうか。
小島屋 当時、東京マイム研究所って、昼と夜のクラスがありました。僕は、夜のクラスで、本多君は昼のクラスだったので、会うことはあまりなかったのです。でも、東マ研は、3ヵ月に1回試演会を上演していて、その関係で一緒に舞台に立ったり、手伝ったりして、会うチャンスがいっぱいありました。入所して1年くらい経った頃に、ちょうど気球座が、「創世記」という公演を上演しました。僕は研究生だったのですが、いきなり出ることになりました。人が足らないパートをやったりする中で愛也君と親しくなりました。
佐々木 東マ研時代は、2人で作品を作ったりとかは。
小島屋 まったくありませんでした。僕が卒業公演を終えて、僕が外でやりだしてから2人でやるようになりました。
佐々木 東マ研の時に一緒に舞台に立ったりとかは。
小島屋 気球座の「創世記」で一緒にやらせて頂きましたがそれ以外はないですね。ひろみ先輩とか、羽鳥先輩(笑)も一緒で、彼女たちは、僕よりも全然先輩でした。当時、本多君は気球座のメンバーでした。演劇の世界で劇団があって、劇団の下に養成所があるように、東京マイム研究所という養成所があって、そこを卒業して気球座という表現する団体に入るか、入らないかという感じでした。僕は気球座には入らなかったのです。
佐々木 そうなんですか。
小島屋 うん。東マ研に入って2年して卒業公演すると、気球座に入らないかって並木先生に聞かれたのですが、僕は歳も歳なので、もう自分の好きな舞台をやっていきたいと返事をしました。それで、並木先生から「分かった。頑張れよ」と応援して頂きました。

阿部 小島屋さんは、卒業公演後の公演は、どこで始めたのでしょうか。
小島屋 その後の舞台はタイニイアリスに移りました。まず、タイニイアリスのフェスに出演しました。
阿部 そこでもう小島屋万助劇場「脳みそグリグリ」を上演したのですか。
小島屋 そうです。
佐々木 その時は、愛也さんに手伝ってもらったりとかは。
小島屋 それはまだありませんでした。それで、その時に僕の演出をしてくれたのが小倉悦郎さんだったのです。
佐々木 小倉さんは、どういう方でしょうか。
小島屋 僕がちょうど卒業公演を上演した頃に、TAICHI-KIKAKUという劇団があったのです。その劇団は、オーハシヨウスケさん、モリムラルミコさん、小倉くんの3人でやってたのです。小倉君は、その劇団の演出家で、そこに僕がゲストで出たんです。ゲストと言っても、ほとんど一緒に作ったのですが、すごく面白かったので、「小倉さん、ちょっと僕のマイムの演出もしてよ」という感じで話したことがきっかけで、タイニイアリスで上演することになりました。
阿部 そういうつながりだったのですか!
小島屋 それで、2回目の公演もそこで上演して、3回目は、渋谷のジァンジャン(小劇場の老舗)で上演しました。4回目の公演の時には、下北のスズナリでやったのですが…。
佐々木 すごいですね。
小島屋 その公演の時に、本多さんと「私と私」という作品で初の共演をしました。これは、サラリーマンの男がある日、鏡で何かやっていると、鏡の向こうに分身がいて、それが本多さんなんですが、分身が傍若無人なことを色々やって、最終的には鏡に追いかけられるというよくある話ですが、そこは、僕と本多君なので、なんとなく想像できるだろうけど、かなり面白い。今でも短いバージョンでやっています。
佐々木 へぇー。
小島屋 そこからの流れで、小島屋万助劇場(でもそこからそんなに作ってないのですが)の時にゲストで出演してもらうようになりました。それから僕もちょくちょくソロをやりだしたのですが、小倉さんはすごく本多君を気に入って、一緒にやろうよと言って、小倉さんとのコンビでずっと一緒にやっています。

佐々木 愛也さんの初のソロ公演「ZOERUNA」(1986年)に小島屋さんが手伝ったそうですが…。
小島屋 手伝いました。それは、出演というか、あるワンシーンにウンコの役で出たのです。
阿部 笑
小島屋 僕は、3人くらいのサブで出演して、出演時間は3分くらいでした。だから共演という感じではなく、その他大勢でした。その当時は、お互いにちょっと手伝う関係でした。相鉄本多劇場や高円寺明石スタジオなどで上演しました。
佐々木 この時の公演ってどういう感じだったのでしょうか。
小島屋 うろ覚えです、違ってたらごめんなさい。「二人羽織り」という作品は、馬鹿馬鹿しい、自分でしゃべりながらする人間羽織りなんですが、つまり1人でやる二人羽織りです。
佐々木 独り2人羽織(笑)
小島屋 二人羽織りみたいな感じの姿で、ヤメロよとか言いながら身ぶりをするのですが、でも1人で演じるのです。
佐々木 馬鹿馬鹿しいですね。
小島屋 「チャーリー」というのは、ちょっと今の年齢の彼を彷彿させる、ちょっとジャジーなじいさんというか、アメリカに行ったことないけどね(笑)、小粋な感じの作品です。「トム」というのは、最終的に月に向かってどんどん登っていく、印象的な作品です。
佐々木 月に登っていく!ファンタジーな感じなんでしょうか。
小島屋 そうですね。
(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『パントマイムの歴史を巡る旅』第29回(佐々木博康さん(5))

2015-05-07 00:28:00 | スペシャルインタビュー
(インタビューの第5回は、作品作りやマイム論をテーマに語って頂きました)
編集部 現在の作品作りはどうされていますか。
佐々木博康(以下、佐々木) 自然や音楽などからインスピレーションを感じて、心に深いものを感じたら、すぐ作ります。作品は考えて作るものではありません。どこかに行って何かしているときや、稽古の中で生まれます。
編集部 そうすると、今でも新作を作っているのでしょうか。
佐々木 新作しかありません。旧作もたまには上演しますが、元の作品を改良したり、初演当時ともっと内面が違ってきたりします。新しい作品を中心に上演して、たまに旧作を上演するのが良いと思います。

編集部 長年のご活動の中で、佐々木先生の代表作は、何でしょうか。
佐々木 代表作として、海外で上演する作品の一つに「木曽川の筏乗り」というものがあります。演者は、膝より少し下くらいまでの丈の着物を着ています。昔、木曽川の上流の山で木を切ってその材木を筏で流して運んで、その材木で得た収入が徳川幕府の財源になっていました。その話とは直接関係ありませんが、1人の筏乗りが、日が沈んで、月が出てきて、山際が暗くなった月夜の下、尺八が奏でる中を非常にゆっくりと漕いでいます。琴の音に変わると、漕ぐスピードを上げて、かなり漕いだあとに、ふと上を見上げると、月が一際大きく輝いています。男が感動してしばらく月を見たあと、川の水で顔を洗おうとすると、月光が川の水に反射して、美しい。筏乗りは、顔を洗って、座ってキセルでタバコを吸って、しばらく物想いにふけります。月光に輝く川面をうっとりとして眺めていると昔の懐かしい人々の顔が浮かんでくる。タバコを吸い終わると男は再び筏を淡々と漕いでいく。尺八と琴の音が情緒的な世界を演出し、海外で上演すると大変反響がありました。
編集部 ストーリーがシンプルで、詩的な世界が豊かに広がってくる作品ですね。

佐々木 ソロで同じように短編に津軽の詩人を描いたものがあります。これは、詩人が厳寒の津軽を旅して、自然の中を歩いていると、雪が降って激しくなり、最後には吹き飛ばされるほど強風になります。厳寒に耐えながら辛抱強く春の来る月を待つ東北の人々を描きます。そういう自然と人間が一体となって何かを伝える作品や、人間が出ないで、自然だけを描いた作品が僕の好みです。よくそういうテーマで生徒に演じさせます。例えば、風が強い日に公園に行くと、無数の落葉が風で全部持ちあがって、前方にくるくる回転しながら突進してくるという風景がとても印象的だったので、すぐ作品にして、マイム劇場などで上演しました。自然をテーマとした作品は幾つかあります。中には、コミカルな作品も幾つかあって、時々アンサンブルで上演しています。
編集部 是非劇場で観てみたいですね。

佐々木 他にも、僕の好きな作品に「記憶」というのがあります。人間の記憶がテーマです。前衛的な音楽がかかっていて、主人公がゆっくりとお能のような動きで歩いています。
舞台袖から舞台中央までゆっくり3分くらいかけて歩いて来ます。次第に色々な記憶が蘇ります。心の中の葛藤を抽象的な動きで演じて、そのうちに主人公の母親、姉、妹がでてきます。お姉さんは自転車を修理し、妹はおはじきをしています。お母さんは縫物をしており、その一人、一人との過去のやりとりが再現されます。次第に家族一人一人が消えて行き、最後に主人公が一人で残される。海外で上演すると、拍手が鳴りやまず、ブラボーと言ってお客さんが抱きついてきますね。
編集部 言葉で聞いただけですが、「記憶」は、すごく情景が浮かんできますね。先生が好きなカフカの作品もいくつかありますか。
佐々木 カフカは「変身」と「審判」という作品があり、「変身」は海外でも上演しました。「審判」も何度も上演しています。カフカものが一番好きです。
編集部 「変身」って、小説の「変身」ですか。
佐々木 そうです。朝起きると主人公が虫に変わっているというものです。僕は、小説の冒頭のシーンの前に付け加えて、夢のシーンから始まります。主人公が夢を見ます。一人で歩いていると何者かに尾行されている気配があり、振り返ると、誰もいない。安心して歩きだすと、再び誰かに追われているのを感じてというのを何度か繰り返して、やがて何人かに囲まれてしまい、やっつけるが最後に殺されたところで目が覚めると虫になっていた。これは、奇妙な仮面をかぶって演じるのですが、やっぱり難しいです。まあまあできるようになるのは40年くらいかかりますね。
編集部 40年ですか。
佐々木 役者もそうだと思います。30年やると良いなと思いますが、今から考えると全然ダメでした。僕は75歳になりましたが、今が一番表現できると思います。

佐々木 ところで、貴方は、どんなマイムをやるのですか?
編集部 一人で演じる時は、ストーリーに頼らないで、内面的な世界を表現したいという理想はありますが、実際には、結局分かりやすい作品をやることが多いですね。
佐々木 それで良いと思います。笑わせたり、親近感を持たせる作品があって別の作品でぐっと来たものを入れたり、笑わせる作品の中に、心に響く何かを表現すると良いでしょう。例えば、マルソーの「青年・荘年・老年・死」という作品があるでしょう。あれは素晴らしい作品だと思います。たった3分の作品ですが、マルソーの中で一番輝いている作品です。僕は、あの作品の最後に、死んでから、赤ちゃんに戻り、輪廻のようにまた青年、老人になるというシーンを付け加えて演じたことがあります。また、最近は、稽古で、螺旋階段というシチューエーションの中でこの作品を生徒に演じさせています。例えば、主人公がマイムの役者として生きていて、螺旋階段を上って行くと、30代、50代と20年毎に変わっていって、最後は老人となる。老人役でしか出番がなく、老醜をさらしてやるか、それとも死ぬのは簡単だけど、めざすところは、はるか先にある。結局、歩んでいくしかないと思い、再び上に向かって登り始める。
編集部 良いですね。
佐々木 でも、生徒がやると形ばかりで、気持ちが出てこないです。難しい。形だけだと全然面白くない。歩いている一つ一つの動きに気持ちが見えてこないとダメです。ストーリーになってしまうと面白くありません。ストーリーの説明はどうでも良いです。ストーリーの中のその瞬間を見せるのがマイムで、ストーリーを見せるのは芝居です。
編集部 そこが重要ですよね。
佐々木 最初からそこを言っても中々分からないから、やっていくうちに、いつか気づくだろうと思います。

編集部 そういうマイムのお考えが固まったのはいつ頃でしょうか。理想の姿が見え始めたのは。
佐々木 そうですね。いつもそう考えていましたが、その思いは、40代、50代、60代と年齢を重ねるほど、もっと高まっていきました。肉体は進歩してないですが、心の中では進歩していく。進歩というか、枯れるのも良いと思います。年をとって死に近づくのは嫌ですが、でも良いことは一つあります。極限に向かって1ミリでも進んでいけます。少なくとも60代の時よりも今の方が、マイムが良い。人がどう見ているかは知らないです。自分自身の感覚でそう感じます。人にどう見られるかは関係ありません。だから金儲けが絶対できません。僕は、マイムの求道者だと思っています。マイムを通じて人生を探求しているというふうになりたいです。以前所属していた生徒が久しぶりに公演に出演してくれて、稽古の時に「先生はマイム道ですね」と言われました。道を求めるマイム。マイム道を命ある限り、追求していきたいと思います。
編集部 長時間にわたって色々とお話頂きありがとうございました。

5回にわたって、佐々木博康先生のインタビューをお届けしました。突然の依頼にも関わらず、快く引き受けて頂き、当日は予定をオーバーして、2時間半以上にわたって、演技を交えながら熱く語って頂きました。75歳の今でも、毎日の稽古を欠かさず、新作を作り続けるとともに生徒への指導に力を注がれるという、その弛まない努力の姿に大変感銘を受けました。日本のマイムを作り上げてきた長年の活動に改めて敬意を表したいと思います。なお、日本マイム研究所の次回公演は、7月12日(日)に江戸東京博物館で予定しております。
(了)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする