月刊パントマイムファン編集部電子支局

パントマイムのファンのためのメルマガ「月刊パントマイムファン」編集部の電子支局です。メルマガと連動した記事を掲載します。

『パントマイムの歴史を巡る旅』第28回(佐々木博康さん(4))

2015-04-08 01:12:40 | スペシャルインタビュー
(インタビューの第4回は、日本マイム研究所の活動の話の続きです)
編集部 海外公演に行かれることもあるのでしょうか。
佐々木博康(以下、佐々木) 海外では、フランス、ドイツ、イタリア、ギリシャ、ルーマニア、韓国など8ヵ国以上で公演を開催しました。最後に行ったのは、5、6年前で、ポーランド、ブルガリア、ハンガリー、フランスの4ヵ国をまわりました。
編集部 海外公演は、向こうから招待されて行くことが多いのでしょうか。
佐々木 大体は日本で交渉と言いますか、公演の企画を先方に打診すると、返事が来る場合もあるし、フェスティバルに申し込みをして行くケースもあります。公演の費用は、団体などからの補助もありますが、全額は出ません。最初は自腹で行っていました。僕は、あまり人からお金を頂いて行くのは好きではないですが、貧乏だから仕方ない(笑)。
編集部 お金の面も大変ですし、海外公演には様々な苦労がありますよね。
佐々木 でも、やっぱり色々な国に行くと良いです。特に、ポーランドやハンガリー、東ドイツ、ギリシャが良いですね。観る人が真剣で、ずっと集中して観ています。ポーランドのある劇場で公演した際は、チケットが前日に完売で、公演の最後に観客全員が立ちあがって、終わっても1時間も2時間も帰らないのです。残った観客と一緒に記念写真を撮りました。
編集部 (その時の写真を見て)お客さんとですか。すごいですね。
佐々木 ポーランドの大使館のご夫妻も来てくれて。芝居と違って、音としてセリフを聞くわけではないから、親近感が湧くのですね。

編集部 海外の著名なアーティストとの交流もあるのでしょうか。
佐々木 僕らが海外公演やった時は、向こうで活躍している方が大体来てくれます。海外に行くと、色々な交流がありますね。
編集部 マルセル・マルソーさんとは、何度もお会いしたのですか。
佐々木 そうです。新橋に稽古場があった頃には、稽古場に見学に来てくれました。マルソーが何度目かに来日した時に、公演を開催する際に、ビートたけしの「誰でもピカソ」というテレビ番組のディレクターが来て、マルソーにこんな事をやって欲しいと相談があったのですが、「そんなことは失礼だよ」と僕が言うと、僕も一緒にテレビに出演することになりました。その番組では、エスカレーターなどのマイムをやったら、僕の方がウケました。後日、マルソーの記者会見があって、僕が呼ばれて、「こちらが日本を代表するマイムアーティストのムッシュ佐々木」と記者の方々に紹介してくれました。彼は非常に親切でした。

編集部 現在、国内では、どういった公演活動をされていますか。
佐々木 今は、3ヵ月に1回程度アトリエ公演があります。また、毎年7月には、江戸東京博物館のホールで、大きな公演を上演しています。昨年は、ビクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」を上演しました。僕は3日前に肋骨を折って出演できなくなりましたが、26年所属している女性の研修生が代役を果たしてくれました。その作品には10人くらいが出演しました。その他には、時々、朗読の方や横笛・ピアノ・琵琶・フルート・ギター等の演奏家の方とジャンルを越えて共演することもあります。アトリエの舞台の方が、ファミリーな感じで公演よりも結構面白いという人もいますね。

編集部 佐々木先生は、ソロ公演はいつ上演しているのですか。
佐々木 マイム歴の節目の40周年、50周年と55周年にソロで上演しました。僕の場合は、40年で初めてのソロリサイタルです。確かに1人で演じている方が生活は楽かもしれませんが、もう47、48年間教えていて、若者に夢を持たせて育てるのがすごく好きです。自分より育てることの方が好きですね。

編集部 長年のご活動の中で非常に大変な時期もありましたか。
佐々木 公演は、いつも幕が上がるまで大変です。古い生徒が多いと良い作品を作りやすいですが、生徒は、いつか去って行きますので、そうなると、また一から教えていかないといけません。いつも新しい人が多いと苦労が多いですね。
編集部 サイクルがあるという感じですか。
佐々木 そうですね。大勢来る時もあれば、少ない時もあるし。昼の部が多くなったり、夜の部が多くなったりしますね。

編集部 クラスについてお聞きしますが、研究所の生徒は何名くらいいらっしゃるでしょうか。
佐々木 今はあんまり多くないです。通常は20名くらいいても、9割以上の人が芝居もやっていますので、芝居が入ると、同じ時期にいなくなってしまいます。レッスンによっては、ごく少数の時もあります。生徒の中には、小学校1年から来ている子がいて、今、中学生1年で6年間やっています。彼女はマイム一筋です。
編集部 小学校からマイム一筋ってスゴイですね。
佐々木 平均すると、3年程度で辞める人が多いです。一番古い生徒は26年目になります。
編集部 レッスンは週何回くらいあるのでしょうか。
佐々木 日曜を除いて毎日あります。週3回・週2回・週1回参加と色々な人がいます。

編集部 代表的な生徒さんを改めて何人かご紹介頂けないでしょうか。
佐々木 三橋郁夫、清水きよし、吉田洋、並木孝雄、ヘルシー松田、パープル、仙波佳子、勅使河原三郎、松元ヒロ、雪竹太郎、中村ゆうじ、はせがわ天晴、石黒サンペイ、「水と油」の高橋淳(じゅんじゅん)、小野寺修二、藤田桃子、すがぽん、ふくろこうじ、「CAVA」、中川善悦、まあさ。他にもいっぱいいますが、知らないでしょ。
編集部 本当にそうそうたる方たちばかりですね。そういう中で、一番佐々木先生の教えを受け継いでいる方はどなたですか。
佐々木 いません。
編集部 いないのですか。
佐々木 別の意味で、面白いのは、「水と油」の小野寺です。彼の作品は、コミカルでシュール。シュールでないとダメだよと思っていたら、そういうのをやっているよね。今僕がやっているのは、小野寺君がいた昔と違って、もっと自分の世界に入ってきています。20年、30年舞台に立つと作風が変わってきて、最初の頃は、自然との関わりは考えていませんでした。今は、人間同士の交流や、宇宙的な規模の世界、空間の意識とかそういうテーマで作品を作っています。僕が育てたいと思っても、僕が理想とするタイプはなかなか来ません。来ても3年程度で辞めてしまうので、もう少し育てたい。
編集部 3年ですとね。
佐々木 そう。10年やってもそんなに上手くなりませんから。役者でも10年で上手い人は聞いたことがありません。やっぱり、20年から30年で少し格好が付くという程度です。第一、テレビドラマを観ても上手いと思うのは、50歳以上の俳優です。上手い俳優は、1行のセリフを言っても、今までずっと経験していたことが表現できます。僕は、身体を少し動かすことや、立っているだけで、そういうものを表現できるようになりたい。そこが究極の表現だと思っています。究極と言っても、究極に近いものをめざしているというだけです。完成なんて人間100年やってもできない。
編集部 それに近づいていくためには、何をすれば良いのでしょうか。
佐々木 マイムが好きで好きで、稽古しかないでしょ。
編集部 稽古しかないですか。
(つづく)
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『パントマイムの歴史を巡る旅』第27回(佐々木博康さん(3))

2015-03-16 07:47:03 | スペシャルインタビュー
(インタビューの第3回は、渡仏から帰国後の活動についてご紹介します)
編集部 フランスから帰国されて、日本マイム研究所の2代目の所長に就任したのは何年でしょうか。
佐々木博康(以下、佐々木) 1966年に帰国して、就任したのが67年ですね。帰国してから、及川先生と一緒にレッスンを教えていたのですが、1年程で及川先生がアルトー館というスタジオを立ち上げたことで、活動が分かれました。及川先生は、前衛的なお考えを持っていて、僕は当時コミックがやりたくて方向性の違いがありました。僕が帰ってきたから、遠慮したのかもしれません。それで、僕に所長を譲って、その後は僕がずっと所長を務めております。

編集部 その当時に在籍したのは、何名くらいでしょうか。
佐々木 及川先生と分かれた時に6名くらいだったと思います。学生当時からスタジオに通っていたIKUO三橋君は残りました。その頃残ったメンバーで、コミック的なパントマイムをやっているうちにテレビも出演しました。

編集部 テレビでは、どういったことをやっていたのでしょうか。
佐々木 その頃、テレビでは、マイム時評ということで、新聞に載るような政治、経済、スポーツ覧、芸能欄など時の話題になっていることをテーマにしてマイムで演じました。1時間番組の中の一つにマイムのコーナーがあって、最初にニュースが流れて、僕らは1週間で起こったことをマイムで表現しました。特別な小さい舞台を作る場合もありました。そんな感じで毎週1回テレビに出演していました。
編集部 今でも観てみたいですね。

佐々木 その頃、僕は割合コミックを中心に上演していましたが、ドナルド・リチーという日本の映画や文化を紹介する著名な評論家と親しくなり、ある映画に生徒4名と一緒に出演しました。「五つの哲学的な童話Five Philosophical Fables」という短編映画です。この映画は、新宿の映画館、アートシアター新宿文化の地下にあった、実験的な映画上映で知られる、アンダーグラウンド蠍座でドナルド・リチーの世界という企画の中で上演され、三島由紀夫が非常に褒めてくれました。
編集部 もう、歴史上の人物とお知り合いだったのですね(笑)。
佐々木 三島由紀夫は、けっこう旺盛な人で、暗黒舞踏の土方巽さんと稽古をしていると、何度か観に来てくれました。
編集部 その後、すぐに清水きよし先生や並木孝雄先生が入所したのでしょうか。
佐々木 何年か後に入ってきました。当時、二人はまだ20代でした。

編集部 他にも何か変わった活動をされていたのでしょうか。
佐々木 ええ。僕は、昔、銀座でマイムを見せる店を経営していました。世界で一つしかない、マイムだけを見せる店です。
編集部 そういうお店があったのですか?
佐々木 父が4軒経営していた店のうち、1軒の夜が空いていたのでそこを借りて、昼間はカフェ業で、夜はマイムを見せるパブをやりました。日曜は店が休みだったので、そこで月1度マイム劇場をやりました。パブの方は夜6時にお店がオープンして、8時と10時にショータイム。それはコミックマイムです。お客様はお酒を飲んでいるので、あまり真面目な作品はやれません。中村ゆうじやヘルシー松田も一緒にそこに出演していました。ヘルシー松田は、当時夢之介という名前で出ていました。中村ゆうじも23歳くらいだったですね。4人、5人一緒に僕や弟子が出演していましたが、大変だったのは、料理人がいないので、自分たちで料理を作り、料理を運ぶのも自分たちでやっていて、満員になると大変でした。お客様がコーヒーをオーダーすると、自転車をこぐマイムを見せました。マイムを見たことがない方には、早く持ってこいと言われましたね(笑)。料理のメニューは、畳1枚の大きさでしたらから店内が込んでくると運ぶのが大変でした。随所に演出や工夫を凝らしていました。
編集部 面白い。こういうお店があったのがすごいですね。
佐々木 マイムだけのお店ってありませんから。海外でも、お店でショーや歌などがあって少しマイムが入るのはあるかもしれないけど、マイムだけのお店は聞いたことがありません。今やればすごく面白いですね。

編集部 そのお店は何ていう名前だったのでしょうか。
佐々木 その時は、「マイム劇場」でした。その時は、8時と10時の回にそれぞれ5、6本の作品を上演して、また翌月に同じお客様が来店するから、観ていない作品を上演しないといけない。新作を毎月作っていたので、作品の数はすぐ100本を越えてしまい、その頃の作品の数は1,000以上ありましたね。毎月の新作作りが一番苦労しました。
編集部 毎月新作ですか。すごいですね。
佐々木 では、2カ月に1回の公演にしようとすると、2カ月もまた大変なんです。2カ月も1ヵ月もあまり変わりません。2ヵ月でも1ヵ月でも創作の苦しみは同じでした。
編集部 お店はどのあたりにあったのでしょうか?
佐々木 店は、銀座の松坂屋から歌舞伎座の方に百メートル位入った場所にありました。お店ではおもしろい、楽しい作品ばかりなので、悩んでいました。僕は本格的な芸術的マイムをやりたかったので、7年間続けた後、店の方は辞めて、劇場やアトリエ公演だけにしました。
(つづく)
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『パントマイムの歴史を巡る旅』第26回(佐々木博康さん(2))

2015-02-14 07:27:48 | スペシャルインタビュー
(インタビューの第2回は、渡仏した頃のエピソードについてご紹介します)
編集部 佐々木先生が1965年に渡仏されて、エティアンヌ・ドゥクルーに学んでいた時のことについて教えてください。
佐々木博康(以下、佐々木) 向こうには、習いに行っていたので、舞台活動は一切やりませんでした。ドゥクルー先生のご自宅が稽古場で、稽古場はあまり大きくありません。僕が行っていた頃は、生徒は10数名いました。フランス人が3、4人くらいで、他のヨーロッパの国の人やアメリカ人、中国人、僕以外に日本人も1人いました。
編集部 佐々木先生は、どれくらいの期間フランスにいたのでしょうか。
佐々木 僕は1年くらいです。マクシミリアン・ドゥクルーから指導を受けた、及川先生に6年半ドゥクルーの肉体表現を学んでいましたので。
編集部 父親のエティアンヌ・ドゥクルーと息子のマクシミリアン・ドゥクルーの教えに、何か違いはありましたか。
佐々木 いえ、マクシミリアン・ドゥクルーと、エティアンヌ・ドゥクルーと親子で別々でやっていて、傾向は多少違いますが、根本は一緒です。
編集部 ドゥクルーの学校では、どういうレッスンをやったのでしょうか。
佐々木 身体の各部をどのように動かせば何が表現できるのか、力関係、時間空間の短縮、身体のバランス、リズム、即興練習他、多くのことを学びました。
編集部 バレエの動きを取り入れたのも…。
佐々木 あります。ドゥクルー先生は、立っているポーズは、バレエから取り入れていました。

編集部 ドゥクルーがパントマイムを一から作ったということなのでしょうか。
佐々木 マイムの動きはドゥクルー先生が考えました。先生は、元々チャップリンを尊敬していました。先生は、フランスの演劇家ジャック・コポーの学校の生徒で、その中の授業で、シュザンヌ・バンクという女性の先生がマイムを教えていて、そこでがぜん興味を持ち始めました。元々役者で、映画「天井桟敷の人々」に出演したこともあります。あの映画の中で、ジャン・ルイ・バローが演じる主人公のバチストの父親役で息子をののしっているのが、エティアンヌ・ドゥクルーです。あれがエティアンヌ・ドゥクルーって思った人はいないのではないでしょうか。
編集部 えー、知りませんでした。もう一度観てみます。

佐々木 ドゥクルー先生は映画にも出たりしましたが、やはりマイムの方に興味を持ちました。マイムの色々な動きの文法を考えたのがドゥクルー先生です。先生は、身体のバランスや筋肉のひとつひとつを重視して熱心に研究しました。これは、あとから聞いた話ですが、ドゥクルー先生とバローがパンツ一つで裸に近いような姿でずっと研究して、筋肉のいろいろの動きによって表現方法を発見したり、マイムの歩く動きを発見しました。また、ある発表会に2人が出演して、ドゥクルー先生がバランスを崩してしまったので、もう一度最初から始めようとすると、観客からブーイングがあって、先生が激怒し、「君たちは芸術を理解していない」と言って、二度と大勢の人の前でやらなくなりました。
編集部 そんなことがあったのですか。
佐々木 先生の自宅の小さな稽古場で、試演会を何百回もやりました。すごいですよ。観客が3、4人しかいない時もあったそうです。あまり名誉とかを考えなかったということですね。それで、ジャン・ルイ・バローは物足りなくなって、もっと大衆にアピールしたいと考えて離れていきました。その後、マルセル・マルソーが来ましたが、マルソーはマイムの文法を習得して、それを大衆に受けるような使い方をしたので、先生はカンカンに怒って、二人ともお前たちは大衆に媚を売ったと非難しました。
編集部 そんな逸話があったのですね。
佐々木 でもバローやマルソーにしてみれば、若いから多くの人に観てもらいたいというのは無理ないと思います。一方で、ドゥクルー先生が言っていることも分からなくもない。僕は両方分かります。

編集部 佐々木先生は、フランスに滞在中にベラ・レーヌにも教わっていたそうですね。
佐々木 ベラ・レーヌは、スタニスラフスキーの演劇学校で教えていました。彼女がやっていたのは、リアリズムマイムです。簡単に説明しますと、モスクワ芸術座とかにあるスタニフラフスキーのシステムを、言葉を使わずにやるというものです。当研究所も、まず入所すると、リアリズムマイムを教えます。言葉を使わないことで、もっと心理を深く追求し、言葉以上に深いものを表現します。それが、僕がめざしているものです。
編集部 リアリズムマイムって始めて聞きました。
佐々木 僕は、パントマイムってあんまり好きじゃないです。パントマイムは、マイムと兄弟みたいなものだけど、あまり表情を大げさにやるのは嫌いです。
編集部 もっと人間の内面をということですね。
佐々木 ええ。僕が興味を持っているのは、魂の深いところにあるものや精神的なものです。また、僕は、人間ばかりを演じるだけでなく、いろいろな自然の現象を表現します。舞踏的なマイムの方が好きです。筋書きに沿って物語が進行するような作品は、芝居に任せれば良いと思っています。ただ、僕はカフカが一番好きで、カフカの作品を上演する時は、大勢でやりますから、ストーリーの流れも必要となってくるケースもあります。一人で演じる場合は、1時間ソロで踊ってしまうこともあります。
(つづく)
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『パントマイムの歴史を巡る旅』第25回(佐々木博康さん(1))

2015-01-12 12:25:05 | スペシャルインタビュー
現在の日本のマイムの潮流を辿っていくと、近代のマイムの祖で、マルセル・マルソーの師としても有名なエティアンヌ・ドゥクルーという人物に行きつく。フランスを発祥とした近代マイムがどのようにして日本に導入されて、日本のマイムに影響を与えていったのだろうか。エティアンヌ・ドゥクルーのマイムをベースに、日本初のマイムの養成機関として発足した日本マイム研究所長を務める佐々木博康氏に、長年の活動やマイムの表現や作品について語って頂いた。
※この文章の中で、マイムとパントマイムについては、以下の意味で使われております。
マイム:一番重要な身体の表現部分は胴体であり、次に腕と手であり、その次が顔である。
パントマイム:マイムと逆で一番重要な身体の表現部分は顔であり、次に腕と手、最後に胴体となる。
※インタビューは何十年も昔のことも触れているため、100%正確でない部分を含む可能性があります。ご了承ください。

■佐々木博康氏プロフィール
1959~65年 マイムを及川廣信氏に、舞踏を大野一雄氏に学ぶ。その間、土方巽氏の暗黒舞踏派のメンバーとして舞台公演に参加
1965年 フランス・パリで、マイム界の巨匠エティアンヌ・ドゥクルーにコーポラルマイムを、ベラ・レーヌにリアリズム・マイムを学ぶ
1967年 日本マイム研究所の所長に就任
現在は、マイムの普及と後進の育成に努めながら、国内、海外で公演を活発に行っている。マイム歴55年。1939年生、東京都出身

編集部 最初に、佐々木先生がマイムとの出会ったきっかけを教えてください。
佐々木博康(以下、佐々木) 私のマイムとの出会いは1959年1月、明治大学文学部演劇科1年生の時でした。当時、私は映画が好きで毎月20本近く見ていました。それで将来は映画の俳優や監督になりたいという気持ちが強くありました。そこで演技を勉強しなくてはと思い、劇団若草の青年部に入りました。それと同時期に私の父の友人であった舞台装置家の吉田謙吉さんから俳優を志す人はマイムをやった方が良いと言われて及川広信先生を紹介されました。及川先生はフランスでマイムの技術を学んで来られた方です。即入門させて頂き、その後6年半マイムの指導を受けました。その間、劇団のレッスンは面白くなく2年後に辞めました。言葉なしで身体のいろいろの部分を動かし、目に見えないものとか、力を表現したり、喜怒哀楽の感情を表現したり、また、何よりも面白いのは課題を与えられ、自分で考えたり、想像したりして創作することが台本に縛られた芝居の稽古よりずっと面白かったのです。ですから、マイムを始めて2年後に生涯肉体表現の探究者になろうと思い、今日まで55年間続けてきています。

編集部 及川先生は、その当時どんなことをされていたのでしょうか。
佐々木 先生は、日本でクラシックバレエをやっておられました。1954年にフランスへバレエ留学されました。そこで偶然マルセル・マルソーの公演を見られ、マイムにとても興味を持たれて、マルソーにマイムを習いたかったのですが、当時マルソーは教えていなかったので、マルソーの師匠であったエティアンヌ・ドゥクルーについて学ぼうと思われたのですが、その頃ドゥクルーはニューヨークでマイムを教えていたので、ドゥクルーの息子のマクシミリアン・ドゥクルーについてマイムを研究されました。そして1956年1月に帰国され、マイムの技術を日本で指導されることになりました。及川先生がフランスから近代マイムを初めて日本に移植されたのです。私が入門した1959年1月は、先生の以前の奥様の日本舞踊の稽古場でマイムのレッスンが行われていました。その3ヶ月後に雑司ヶ谷に稽古場が移りました。そこでは及川先生はマイムの稽古とバレエのレッスンを教えておられました。
 そして私が入門して1年半後の1960年5月に西新橋の自宅の2階にスタジオができ、そこが日本で最初のマイム研究機関である日本マイムスタジオ(日本マイム研究所の前身)の誕生となったのです。そこで及川先生がスタジオの初代所長となり、マイムの指導、普及に力を注がれました。日本マイムスタジオの創立と同時に、そこで演劇界や舞踊界の大御所が10名集まって日本マイム協会の創設となったのです。協会の初代会長には吉田謙吉氏がなりました。

編集部 西新橋のスタジオは佐々木先生のお父様の佐々木正躬さんがお作りになったそうですね。
佐々木 私の家の2階に16坪の稽古場を作ってくれました。
編集部 お父様はどういうことをやっていたのですか。
佐々木 昔で言うカフェでした。銀座に3軒、新橋に1軒ありました。各店特徴があり、くじゃくの羽のついた帽子をかぶった豪華な衣装のバニーホステス嬢が40名いる店や真っ赤なタイツをはいた30名位の女性が時間になると全員ビートの効いた曲で踊る店もありました。ユニークな店なのでアメリカの雑誌にも取り上げられました。また、父が私に与えた影響は実に大きかったですね。僕を小学校の頃から大人になるまで落語、浪花節、講談、歌舞伎、地唄舞、新国劇、松竹新喜劇、日劇のショー、夏の甲子園、プロ野球、大相撲、プロボクシングと数えたらきりのない程いろいろな所へ連れて行ってくれました。モスクワ芸術座が来た時はチケットを買ってくれました。

編集部 日本マイム協会はどういう活動をやっていたのですか。
佐々木 主な活動としては吉田謙吉会長がお亡くなりになった後、及川先生が会長となられマイムフェスティバルを主催されました。1年後に会長になられた太田幸一氏の時もマイムフェスティバルが行われました。その1年後に会長が交代し、その頃から協会は有名無実になってしまいました。

編集部 及川先生のところで学んでいた頃は、どういう訓練をやっていたのでしょうか。
佐々木 まずは身体の各部、頭、首、胸、腹、腰、各部間接をいろいろに動くようにすること。それを使って目に見えないものや力関係の表現、筋肉の弛緩と緊張、重心の移動、時間と空間の短縮、喜怒哀楽の感情表現などを学びました。

編集部 佐々木先生の初めてマイム公演は、いつだったのでしょうか。
佐々木 私がマイムを始めて3年過ぎた頃、日本マイムスタジオの最初の公演で文学座の安堂信也先生の演出でカフカの「審判」をイイノホールで上演しました。勿論「審判」はマイムでは初の舞台だったので注目されました。上演時間は2時間かかり、音楽も使わなかったので、演劇をよく見ている人にとっては本格的マイムのドラマでとても画期的で衝撃的であったと思います。演劇や舞踊を余り見ない人にとっては、カフカ作品は難解であったと思います。「審判」では主人公のヨーゼフKを大野慶人さんが演じ、私は7つの役をやりました。

編集部 1960年代の頃は、舞踏家とマイムが密接に関わっていたような感じがしますが、実際はいかがだったのでしょうか。
佐々木 マイムの人と舞踏家との交流は少しありましたが、長くは続きませんでした。私自身も大野一雄先生の弟子だったので大野先生と土方巽さんとは関係が深かったので、土方巽の暗黒舞踏の一期生として舞台で踊りました。土方さんの生活費を稼ぐためのキャバレー回り(暗黒舞踏のダンサーとして)も何回かやりました(笑)。また、大野先生は普通の舞踏家と違って飛んだり、回転したりしませんからマイム舞踏と一時言われたこともありました。大野先生の舞踏はゆっくりした動きで体全体と宇宙空間を意識された魂の踊りでした。頭のてっぺんから足の先まで意識が行き渡っていたので、そのことが私の肉体表現の一番の基となり、マイムを越えた魂のマイム舞踏に発展させていくことになりました。大野先生は私に多大なる影響を与えて下さいましたが、他のマイムの人々にもいろいろな影響を与えて下さったと確信していいます。
編集部 当時は、舞踏をやっていた方でマイムを習っていた方が多かったのでしょうか。
佐々木 大野先生の息子さんの慶人さんは私が及川先生に習っていた頃、一緒にやっていました。ただ、慶人さんは前述の日本マイムスタジオ公演「審判」が終わると舞踏の世界に戻って行かれました。
(つづく)
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『パントマイムの歴史を巡る旅』第24回(ヨネヤマ・ママコさん(6))

2014-10-12 08:43:31 | スペシャルインタビュー
(インタビューの第6回は、ヨネヤマ・ママコさんの作品や表現についてのお話を紹介します)

佐々木 次に、作品についてお聞きしますが、ママコさんの代表作をいくつか教えて頂けないでしょうか。
ママコ 最初に、処女作の「雪の夜に猫を捨てる」を挙げます。その次が「新宿駅ラッシュアワーのタンゴ」です。この作品が最初のパンカゴですね。3番目に「マニュアルウェイター」が来て、4番目が「月に憑かれたピエロ」、5番目が「十牛」となります。「月に憑かれたピエロ」と「十牛」は、原作を基にマイムを振り付けした作品です。6番目には、素朴な小品ですが、「凧を揚げる子ども」を挙げます。これは、ジャン・ルイ・バローと演じた思い出深い作品です。他にも「空を飛ぶ男」も代表作の一つに挙げます。これは、曲は、勿論他の方の作曲ですが、歌いながらマイムになるという「パンカゴ」(パン歌語という意味の造語)の形式を取り入れた作品ということで、入れさせてもらいます。
佐々木 「空を飛ぶ男」は、大人になっても空を飛ぶことを諦められない男のロマンを描いた作品ですね。最近では、「ラスベガスを食い尽くすゴジラ」も音楽と動きを融合させた作品になりますね。
ママコ あれは、引っ越し作業の慌ただしい中で仕事を頼まれたものですから、曲が入っていると、どんなに疲れた時でも自然に動けるということで作品を選びました。音楽が流れているので楽だと思って観ている方もいらっしゃったかもしれませんが、私も楽でした(笑)。
佐々木 そういうふうに聞くと、やはりダンサーとしての血を感じますね。
ママコ あと、初期の頃の「渓流の魚釣り」は、マイムの多様な要素が詰まった作品で、私らしい物の一つです。あと、「二人綱引き」は、6年程かけて生まれた2人綱引きというテクニックを使った作品で、これも入れていいと思います。
佐々木 えっ、2人綱引きですか。
ママコ 2人で綱を引くスタイルは、私が創りました。今は、他の方もやっていると思います。
佐々木 ちなみに、ロープというテクニックは、誰が最初に生み出したのでしょうか。
ママコ ロープを一人でやる形式は、マルセル・マルソーが最初です。1人のロープは、衝立を置いて入ったり出たりするやり方で、マルソーが最初にやっています。

佐々木 話が戻りますが、代表作の2番目に挙がった「新宿駅ラッシュアワーのタンゴ」が、ママコさん独自の「パンカゴ」形式の最初の作品とご説明されましたが、「パンカゴ」は、この当時からあったのでしょうか。
ママコ パンカゴの原型ということです。
佐々木 僕が読んだ資料によると、パリ郊外に滞在中にパンカゴというスタイルを確立したそうですが…。
ママコ ええ、当時所有していたフランスの小さな家で「パンカゴ」はでき上がっていきました。
佐々木 その頃の経緯を少し教えていただけないでしょうか。
ママコ 渡仏する前は、ママコ・ザ・マイムの経営や活動で疲れ切っていました。故郷に帰っていた時に、自分の身心を休めるために一番好きなことをしたいと思っていたら、突然、フランスの景色が心に浮かんできたのです。それで、これは冒険だったのですが、パリ郊外のヴェルヌ―という村に行きましたら、想像していたのと同じ景色に出会いました。セーヌ川のほとりに小さな石づくりの家があって、キッチンの窓からは白鳥が飛んでいて…。そういう時に、自然と昔作った歌がつながってくるのですね。身体もガタがきているから、これなら身体が持つということもあるし、自然にできるということもありイメージが広がっていきました。

佐々木 ところで、ママコさんにとって、パントマイムの表現の中で、一番重要なことは、どういうことでしょうか。
ママコ 私は、社会との関わりですね。
佐々木 といいますと。
ママコ 社会が持っている矛盾というものに対して、反応してそれを表現すること、伝えるということです。
佐々木 並木孝雄先生が、あるインタビューの中で、人間の問題というものをパントマイムの表現の中で表現したいとおっしゃっていたことを思い出しました。ママコさんもそういう視点に近いのでしょうか。
ママコ 社会や人間の問題で言いますと、私が作品を作っている頃はウーマン・リブとの関わりが大変深くて、「十牛」の作品の中にも、女の自立の問題が入っています。その他にも例えば、「主婦のタンゴ」では、女性の立場の問題を扱っています。

佐々木 ところで、マルセル・マルソーの「壁」の表現の誕生に別の方が協力したという話があるそうですね。
ママコ サンフランスシスコの友人が、マイムの批評家ベリー・ロルフのようにマイムの歴史を調べていて、彼女からマルセル・マルソーの壁の創作について聞いたことがあります。カルト映画の巨匠、アレハンドロ・ホドロフスキーとマルソーがパリで一緒に活動していた時期に、ホドロフスキーがマルソーのために壁という一篇の詩を書いたのです。詩の通りにマルソーが動くと、そこに壁が見えてきたそうです。つまり、ホドロフスキーが言葉でマルソーを誘導して、その詩の通りに動くと壁が見えて、そして、それがマルソーの壁になったのです。世間には、ホドロフスキーが壁という詩を書いたことは、あまり伝わっていません。その後、ホドロフスキーは、メキシコに渡り、やがて映画の撮影に専念しました。
佐々木 マルソーが壁という表現を作るのに、それを助ける人がいたというのは大変興味深い話ですね。マルソーの壁が生まれるまでは、壁という表現は…。
ママコ なかったですね。マルソーの壁が最初です。だから、壁という表現は、マルソーの壁と言っても良いくらいです。
佐々木 長時間にわたって貴重なお話を頂きありがとうございました。


6回にわたって、ヨネヤマ・ママコさんのインタビューをお届けしました。当日は、5時間くらいにわたって話をお聞きしましたが、興味深いエピソードが尽きることなく続き、予定していた時間がとても足りない程でした。少しでもその時の興奮をお伝えできていれば幸いです。改めて、長年にわたって日本のパントマイムの草創期を切り開いていったヨネヤマ・ママコさんの歩みに敬意を表したいと思います。なお、取材には、ヨネヤマ・ママコさんのほか、明神伊米日氏にも色々とご協力頂きました。
(了)
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