ひびのあれこれ・・・写真家の快適生活研究

各種媒体で活動する写真家の毎日。高円寺で『カフェ分福』をオープンするまでの奮闘記、イベント情報などをお伝えします。

京の桜

2008年04月07日 | Weblog
オマーンから関空入りしたことを幸いに、京都へ移動して桜を撮りに行く。関空から京都は乗り合いタクシーを利用。ホテルまで送ってくれるので大変便利だが、予約していったにも関わらずタイミングで定員になるまで延々待たされるのは難。時間が全く読めないので、余裕のある時以外は利用しにくい。空港到着が午後6時前、ホテルに到着したのは夜9時だった。
一夜明けて佐野籐右衛門さんのお庭へ出かける。母屋から事務所へと続く道沿いの枝垂れ桜が満開で見事。前回は3月の満月の頃にお邪魔したのだが、その頃から順々に桜のツボミが開き、4月6日の新月に向かって咲いた桜がちょうど満開を迎えている。それぞれの花をよく観察すると、メシベが2本つき出しているものやオシベが花びらに変化しているもの(旗弁)など、桜がいかに雑多に交配してきたかという歴史が垣間見られる。新宿御苑にある枝垂れソメイヨシノなども単純に交配によるものなのか、突然変異なのか、興味をそそられる。鎧のように芽を守る鱗片葉に包まれている間は太陽に向かって伸びているのだが、そこから顔を出した花芽は大きくなるにつれて頭を垂れ、花が咲く頃にはすっかりお辞儀した状態になっている。そのような変化を楽しみながら、まるで子供の成長を見守るかのように満開を迎えると、桜への愛情はより一層深くなる。昔から、「桜切る馬鹿、梅切らぬ阿呆」と言われるように、桜は傷に弱い。根の部分も同様、ハイヒールなどで踏みつけられたりして傷がつくとそこから菌に感染してしまうこともある。また、お花見の頃ビニールシートで覆われたりすると、蒸れた状態になって呼吸が出来なくなってしまう。木の気持を感じることができる想像力を人間はすっかり忘れてしまっているようで、自然への敬意を失い、自然をモノとしてしか捕えられなくなった人間が横行している。籐右衛門さんとお話していると、本来人間が自然の一部として生きていた時代の話が通じなくなってしまったことに対する憤りが伝わってくる。古来より、日本は自然と共生して暮らしてきた。自然は畏怖の対象として敬われ、今だに近代国家の中で唯一アニミズムの思想が生き続けている類稀な国であると評価されている。それが、欧米資本主義的な思想ですっかり価値観が壊れ、モノやカネでしか物事の価値を判断出来ない人間があまりにも増えてしまった。そろそろ人間はその誤りに気付かなければ、取り返しのつかないことになるのは自明の理だ。桜の花の散りゆく姿、その儚さは人間の世界の儚さでもあり、その花を愛でる心を持った人間であれば潜在意識のどこかにそのような危機意識を内在しているに違いない。それを顕在化させて自然への敬意を取り戻してほしいと強く感じた。
京都の造園家Iさんのご相伴に与り、祇園の安参で夕食をいただく。開店から間もなくカウンターは満席。肉が本来持っている旨味を堪能出来る店(http://www.yassan.net/0311/main.html)。